昭和を代表するスターの一人として、忘れてはならないのが、プロレスラーの力道山だ。1年に満たない結婚生活だったが、そんな夫のすべてを背負い、継承してきた存在が、妻の田中敬子さんである。84歳の今もお元気で、当時を伝え、現在をはつらつと生きている彼女に、近況を聞いた─。
暴力団員に刺され、その傷がもとで39歳の若さで急死
大相撲力士からプロレスラーに転身。戦後の復興期に日本中を熱狂させた伝説のヒーローとして知られる存在が力道山だ。
「日本プロレス界の父」とも呼ばれる彼だが、1963年に東京・赤坂のナイトクラブで暴力団員に刺され、その傷がもとで39歳の若さで急死してしまう。
喪主を務めた妻の敬子さんはそのとき22歳。力道山と結婚して半年しかたっておらず、お腹には妊娠6か月の子どもを宿していた。
短い結婚生活だったが、深い愛情で結ばれていた2人。敬子さんは夫の事業を引き継いだことで30億円もの負債を背負い、普通の人とは比べものにならないほどの激動の人生を生き抜いてきた。
84歳になった現在も力道山の“闘魂”を語り継ぎ、プロレス関係者からファン、亡き夫と同じく韓国にルーツを持つ人々など、多くの人に慕われている。
力道山が惚れ込んだ敬子さんは一体どんな女性なのか。類いまれなる激動の人生と近況をうかがった。
敬子さんは高校卒業後、日本航空の客室乗務員として活躍していた。全国から3000人が応募して30人だけが合格という試験をくぐり抜けたが、客室乗務員になりたいわけではなかったという。
「当時は外交官を目指していて、国際基督教大学に入るため浪人中でした。電車内の広告で日本航空の募集を見つけたとき、大学入試の練習のつもりの軽い気持ちで申し込んだんです」
と敬子さんは振り返る。英語力はあり、健康だったが、なぜ自分が合格したのかわからなかった。しかし面接官から言われた言葉が印象に残っている。
「皇后陛下(香淳皇后)に似ているねと言われました。確かに中学時代からそう言われていて、それが功を奏したのかもしれません」
力道山との出会いは、敬子さんがロサンゼルス便を担当していたときのことだった。ファーストクラスの乗客の一人に「田中敬子さんですか?」と声をかけられ、それが力道山だった。
実は敬子さんの父の知人が力道山のタニマチで、“嫁候補”として敬子さんの写真を力道山に見せていたという。知人は、明るく才気あふれる敬子さんなら力道山を支えられると判断したのだ。
それから2人の交際が始まり、敬子さんは力道山のまじめで誠実なところに惹かれていく。プロポーズを了承したときに、力道山が泣いて喜んだのは有名な話だ。
一方、スターである力道山は女性の噂が絶えなかった。プロポーズを受けてから公表するまで「半年待ってくれ」と言われたとき、「女性関係を整理したいんだな」と敬子さんは勘づいたという。
「医療ミスが原因で亡くなったのだと思っています」
「あとから、同じ日本航空の先輩とも付き合っていたことがわかりましたが、結婚してからは疑わしい女性関係はまったくありませんでした」
また力道山は結婚していないものの3人の子どもがいて、敬子さんは新しいママとして子どもの面倒を見ることになった。
結婚が決まったとき、料理は一切できなかった敬子さんだったが、力道山は「料理なんかしなくていい。シェフを呼ぶから味だけ覚えてチェックしてくれ」と言ったそうだ。
家に家政婦は3人いて、当時としては珍しいGE(ゼネラル・エレクトリック)の家電製品をそろえ、ロールス・ロイスも所有していた。
「アメリカで稼いだドルは日本に現金で持ち帰ることができなかったため、物品にかえて日本に送っていたんです」
住まいは「リキ・アパート」と呼ばれる赤坂の集合住宅の最上階で、階下には芸能人が多く住んでいた。プールもあり、力道山が所有・経営していた。
「夫は門下の選手たちに『おまえたちはあと10年もすれば身体を壊して働けなくなる。一生面倒を見られるのは俺しかいない』と言って、彼らの第二の人生も見据えてホテルやゴルフ場などの事業を幅広く展開していました。ビジネスマンでもあったんです」
プロレスの試合をテレビで放映する際、リング周辺に広告看板を並べるシステムを最初に提案したのも力道山だった。当時のワンシーズンで3000万〜4000万円という巨額の広告収入があったという。
「あと20年もしたら日本中に高速道路ができて、マンションが立ち並ぶ。子どもたちも元気になると語っていて、先見の明がある人でした」
そんな力道山が赤坂のナイトクラブで刺されたのは、1963年12月8日のことだ。暴力団組員と口論になり、腹部を刺されたが、当初は大きなケガではないと思われていた。
「夫は試合で身体を酷使していたため内臓はボロボロで、医師からは手術後はゆっくり休むよう言われていました。本人も『ハワイで1年くらいのんびりしたい。もうプロレスをやるつもりはない』と話していたんです」
しかし、その願いはかなわず、事件から1週間後、力道山は39歳の若さでこの世を去った。
「腹膜炎を起こしたというのが医師の説明でしたが、麻酔の投与量が通常の2倍だったことが後にわかりました。私は医療ミスが原因で亡くなったのだと思っています」
力道山は事業の先行投資のために、莫大な借金も抱えていた。22歳で夫を亡くした敬子さんは、相続放棄をしなかったため、遺産とともに30億円もの負債を抱えることに。
魑魅魍魎がはびこるプロレスの世界の人々に翻弄されながらも借金を20年かけて返済し、再婚することなく子どもたちを育て上げた。
現在84歳になった敬子さんは、LINEを慣れた手つきで使いこなし、大好きなお酒を毎晩楽しみ、元気はつらつだ。今年、人工股関節の手術をしたが、東京・水道橋にある新日本プロレスのオフィシャルショップ「闘魂SHOP」で店番をすることもある。
また、名誉館長を務める「プロレス殿堂館リングサイド」(熊本県天草市)にも、しばしば顔を出している。野球好きだった力道山の影響で、敬子さんも野球観戦が趣味だ。
孫は甲子園にも出てプロ入りを期待されていた
「大谷翔平選手が大好きなんです。お子さんが生まれて、また素晴らしい才能が出てきそうですね」
と目を輝かせる。野球評論家の張本勲氏とも交流がある。力道山と張本氏は共に韓国にルーツを持っていたことから、仲が良かったという。
「大谷選手のサインをもらってきてとお願いしたことも(笑)。断られましたけど」
敬子さんの孫が野球をやっていたため、張本氏と一緒に孫の練習を見に行ったことも。
「孫は甲子園にも出てプロ入りを期待されていたんです。張本さんにも太鼓判を押されましたが、本人はプロに進む気はなく、大学卒業後は野球をやめて就職しました」
張本氏といえば、かつて大谷翔平選手について「二刀流はよくない」と発言したことが話題に。そのとき「言っちゃダメなことなのかね」と敬子さんに意見を求めたことがあったという。
「張本さんは『俺はね、嫌いで言ってるんじゃない。一つのことをやったほうが彼にはいいと思ったから言ったんだ』と。私は『張本さんは正直だからみんなに愛されているのよ』と伝えたんです」
敬子さんのまっすぐな言葉を聞きたい人は絶えない。今も講演会に引っぱりだこで、多忙な日々を送っている。亡き夫、力道山が「日本プロレス界の父」ならば、敬子さんは「プロレス界の母」といっても過言ではないだろう。
「夫と夫を応援する人たちに守られて、波瀾万丈の日々を乗り越えることができました。時代とともに力道山を知らない人たちも増えてきましたが、これからも力道山の“闘魂”を語り伝えていくのが私の役目です」
取材・文/紀和 静
たなか・けいこ 1941年、神奈川県生まれ。日本航空の客室乗務員を経て、プロレスラー・実業家の力道山と21歳で結婚。半年後、力道山が他界し、事業を引き継いだことにより30億円もの負債を背負う。20年かけて借金を返済し、力道山の遺志を伝えるため社会貢献活動・講演活動を行いながら、「闘魂SHOP」名誉店長、「プロレス殿堂館リングサイド」名誉館長を務める。著書に『夫・力道山の慟哭』(双葉社)ほか。
