享年54。中山美穂さんが突然この世を去って1年。
東京・お台場では12月6日夜7時、ファンの働きかけによって往年の大ヒット曲『世界中の誰よりきっと』と共に幻想的な「お台場レインボー花火」が夜空に大輪の花を咲かせた。
この動画を美穂さんの妹で俳優の中山忍さん(52)もSNSに投稿。ファンへの感謝のメッセージを綴っている。
多くのファンの心に今も生きる美穂さん。だが失った悲しみを埋めることは到底できない。
─一周忌をひとりで過ごしたくない。
そんな思いは彼女を発掘してトップスターに育てた所属事務所の創業社長・山中則男氏(81)も同じだった。
一周忌を迎えるこの日。スーパーファンと呼ばれる熱狂的な“美穂ファン”たちと共に東京・秋葉原のイベント会場「秋葉原ランパート」に出席。さまざまな催しが行われる中、トークショーでマイクを握った山中氏は悲しみに暮れるファンを前に、美穂さんの死について顛末を語った。
「美穂が亡くなったぞ」
その日の朝9時半、山中氏は美穂さんの死の第一報を電話で知らされた。
まだ54歳の美穂が死ぬなんて
「まだ54歳の美穂が死ぬなんて、きつい冗談だろ」
最初そう思った。しかし電話の主は「美穂が死んだ」を繰り返し告げる。
山中氏は、ただただ言葉を失い受話器を置いた。たまらない気持ちになって、ベッドに横たわり布団をかぶった。
まだこの時点で“中山美穂の死”は公表されてはいなかった。起きていると誰かに電話してしまいそうで苦しかった。
マスコミに発表された午後3時。携帯を開くと留守番電話におびただしい数のメッセージが残されていた。
それでもまだ、美穂さんの死を受け入れられなかった。
最後に会ったのは1年ほど前。知人の食事会で久しぶりに会い山中氏のガラケーでツーショットを撮った。
「まだスマホじゃないの?」
と、美穂さんにからかわれたことを覚えている。
これが永遠の別れとなった。
お通夜の夜。棺にはドレスを着た美穂さんが、まるで生きているかのような美しい寝顔を見せて横たわっていた。
「久しぶりに会ったんだぞ。寝てることないだろ。早く起きろよ」
そう話しかけても美穂さんは目を覚まさなかった。通夜の後、目を真っ赤にした妹の忍さんが挨拶に来てくれた。
「山中さんに巡り合えたことを姉はすごく喜んでいました」
震える忍さんの声が、山中氏の胸を熱くした。
夏目雅子さんを彷彿とさせる顔立ち
そして迎えた12月9日。
荼毘に付された美穂さんを見送るとき、とめどなく涙が流れ声が詰まった。山中氏の慟哭が東京・桐ヶ谷斎場にこだました。美穂さんと出会って、40年。いや、それ以上の年月がたっていた。
山中氏が初めて美穂さんと会ったのは、1982年6月のこと。東京・原宿の竹下通りだった。
「当時中1だった美穂は、ちょっと浅黒く、猫顔で目力があった。言葉は少なかったけど、夏目雅子さんを彷彿とさせる顔立ちを見て“この子は絶対に売れる”と思いました」
山中氏は自身が立ち上げたモデル事務所『ボックスコーポレーション』を部下に譲ると、美穂さんをスターにするため、自宅に個人事務所『ビッグアップル』を設立。美穂さんと二人三脚でデビューを目指した。
「新しい事務所を立ち上げたら、何を考えてんだ、と周りからバカにされました。
美穂が売れてから“最初から売れると思っていたよ”なんて言う人もいたけど、当時は誰も使ってくれなかったじゃないか。ふざけるな。信じたのは俺だけだよ」
そんな思いが山中氏の中に今もフツフツと湧き上がる。
ところがデビューを目指してテレビドラマや映画、レコード会社のオーディションを受けるも連戦連敗。2年たってもチャンスは訪れなかった。
「いいところまでいくんだけど、最後に競り負けてしまう。“いい素材なんだけどな”とお愛想を言われて帰る日々が続きました。
帰り道に“もう少しだ、頑張ろうね”と勇気づけると、逆に美穂に慰められたこともありました」
神秘的な美しさを持っている
しかし個人事務所の資金繰りはやがて火の車に。ジリ貧の中、
「もうダメかもしれない」
という思いが頭をもたげてきた。そんなある日、山中氏は美穂さんを神奈川・横須賀の実家に連れて行った。実の母・ヤイさんは美穂さんを孫のように可愛がり、手作りの田舎料理と彼女の大好きなステーキでもてなした。
そのとき、母から言われた言葉が忘れられない。
「あの子はいい子だよ。神秘的な美しさを持っているし、言葉遣いがいいね。則男、頑張って美穂ちゃんをスターにするんだよ」
そんな母の思いが通じたのか。伝説のテレビドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)のヒロイン、森のどか役のオーディションに合格、チャンスをつかむ。
『毎度おさわがせします』は、性への関心が高い中高生の繰り広げるエッチな騒動をコミカルに描いたゴールデンタイムのドラマ。演技経験がないことから演出部は美穂さんの起用に反対したものの、
「彼女でいくよ。目力がいい」
そう言って阿部祐三プロデューサーは、美穂さんを抜擢。
この起用が見事に当たった。
第1話で視聴率13・8%と好スタートを切ると、回を追うごとに視聴率はうなぎ上り。
第7話「ちょっと初体験」で視聴率を20%台に乗せると最終話「走れポコチン」では全話最高視聴率26・2%を記録。このドラマをきっかけに美穂さんはたちまちスターダムを駆け上がっていく。
「当初収録していた横浜の緑山スタジオまで電車で通っていましたが、第1話が放送されるや電車に乗ると“のどかだ!”と若いファンが駆け寄ってきて動きが取れなくなる。どこで知ったのか、事務所の電話は24時間鳴りやみませんでした」
服を脱いでベッドに入るシーンで
しかしその一方で、過激な内容にショックのあまり言葉を失うこともあった。
「口にするのもためらってしまうような性に関する過激なセリフがポンポン入っている。
服を脱いでベッドに入るシーンでためらってしまい撮影が止まると、美穂は怒鳴られ泣き出しました。そのたびに“おまえのところのタレントは何やってんだ”と怒られる。それでも美穂は、終わったことに対しては何も言わず、ただ人知れず泣いていました」
私はスターになりたい。テレビに出たい。チャンスを逃したくない。そんな強い思いを胸にここまで歯を食いしばってきた。まだ14歳の美穂さんの切ない思いが、今となってはなんともいじらしい。
次のドラマは『夏・体験物語』(TBS系)。その間、ドラマのご褒美と写真集の撮影を兼ねて1985年4月、美穂さんはハワイへ旅立った。初めての海外旅行。しかも憧れのハワイとなると美穂さんのテンションはいやが上にも高まった。美穂さんのファースト写真集『一生懸命』を手がけた写真家・渡辺達生さん(76)に話を伺った。
「当時は今の時代と違ってスタイリングやヘアメイクもナチュラル。僕は作り込んだ写真が嫌い。作り込めば作り込むほどつまらなくなる。
だから彼女の写真集を見てください。表紙の写真から、ほっぺがピカピカしていませんか」
そう言ってグラビア界のレジェンドはうれしそうに微笑む。今の写真集では、撮られる側もどんな表情をすればカメラマンがシャッターを押すのかわかってポーズをとる。でもデビューしたばかりの美穂さんはそんなことなどおかまいなし。
「可愛いでは片づけられない強さを持っているし、カメラに対して目を武器にして挑んでくる。何と言ってもシャッターを押したくなるような笑顔が魅力的で、笑い声が聞こえてくるような写真が多い。僕にとっても、特別な写真集になりました」
撮影の最終日。渡辺カメラマンからの提案で、
「せっかくだからもっと撮りたい」
そうリクエストされ、最終日はオフになる予定をキャンセル。美穂さんはちょっとしょげていたことを山中氏は覚えている。だがそのかいあってか写真集は20万部近く売れるベストセラーに。今は絶版となり、ファンの間ではお宝写真集と呼ばれている。
デビュー曲に立ちはだかった大問題
ドラマが社会現象になるほどヒットすると、多くのレコード会社から歌手デビューのオファーが舞い込んだ。
デビュー曲は、作詞・松本隆氏、作曲・筒美京平氏のゴールデンコンビによる『C』。しかしこのデビュー曲誕生を巡っては当時、大きな問題が立ちはだかった。
「当初ある大物作曲家に曲作りを依頼したのですが、上がってきた楽曲を何度聴いても、テンポとイメージが違う。美穂に聴かせても“うーん”と首をひねっていました。レコード会社にかけ合って作り直してもらったのが、『C』なんです」(山中氏、以下同)
希代のヒットメーカーの筒美京平氏に、わずか1週間で新しい曲を書き上げてもらいデビューに間に合わせることができた。
「もし納得いかないままデビューしていたら、その後の『レコード大賞 最優秀新人賞』はもちろんのこと、歌姫・中山美穂も誕生していなかったかもしれません」
そのかいあってデビュー曲『C』は、1985年7月18日の音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)で「今週のスポットライト」に登場すると大きな注目を浴び、その翌週から9週連続してランクイン。山中氏の読みはズバリと当たった。さらにその年の12月に公開された映画『ビー・バップ・ハイスクール』でも山中氏は大きな賭けに出る。
「これまで『毎度~』や『夏・体験物語』と、美穂の役どころはいずれも不良少女役。このままでは“不良少女”のイメージが定着してしまう。
そこで製作サイドにかけ合い美穂の役どころをセーラー服の似合うマドンナ役に変えてもらい“不良少女”との決別を図りました」
初出演した映画はなんと、興行収入14億円を超える大ヒットを記録。映画女優としても成功を収めると、美穂さんは最大のライバル、本田美奈子さんを破って「レコード大賞最優秀新人賞」を手に入れる。
祝賀会を抜け出して向かった先に
そして迎えた大みそかの夜。美穂さんは祝賀会を30分で抜け出すと、心許せるファンクラブのメンバーたちが待つ、原宿の事務所に戻ってきた。
「祝勝会と新年のお祝いをファンのみんなとやりたくて美穂がひそかに声をかけていました。今だから言えるけど、“本人が朝から忙しくて疲れた。眠い”と無理を言って祝賀会を抜け出すのは本当に大変でした。
“美穂コール”が起きる中、何度も手を振って歌い踊る美穂のうれしそうな顔を今も忘れることができません」
ファンを愛して、熱烈なファンのことを美穂さんは“スーパーファン”と呼んだ。そんな思いは、今も受け継がれている。美穂さんの一周忌をひとりで過ごしたくない。そんな思いから秋葉原で開かれた『美穂ちゃんスーパーファンの集い』。
今回の会を催したスタッフのひとり、ファン歴40年の佐々木一厳さんは、
「アイドルは3年から5年で消えていく。ところが美穂さんは1980年代から20年にわたってトップアイドル、トップアーティストとして活躍。そんな美穂さんを誇りに思う」
と“美穂さん愛”を語ってくれた。
さらに今回、2010年のファンクラブオフ会で「美穂の湯」に参加したときの生写真を持ってきてくれた女性ファンは、
「1年前、仕事が終わって初めて美穂さんの死を知って、号泣しながら車を運転して家まで帰りました。今でも信じられません」
そんな彼女のいちばん好きな曲は結婚式のキャンドルサービスで流した『You're My Only Shinin' Star』だとそっと打ち明けてくれた。
夢枕に立った美穂さんからの言葉
今年6月に上梓された山中氏の書籍『中山美穂「C」からの物語』に関する秘話もこのイベントで明かされた。出版社から、
「何か隠れた、目玉になるようなモノはないでしょうか」
と尋ねられ、探しあぐねていると美穂さんが夢枕に立ち、
「家の電話の下にある段ボールを開けて」
と、語りかけてきたという。
「その電話は美穂がデビュー当時から使っている電話番号のもの。電話の下の段ボールを開けると、なんと1985年、美穂のデビュー当時のスケジュールを書いた手帳が、1冊だけ出てきたんです」
これも美穂さんからの出版記念のささやかなプレゼントなのか。
亡くなって1年。残された者たちの声は、天国の美穂さんに届いたに違いない。
取材・文/島 右近
