料理研究家・小林まさる(撮影/山田智絵)

 秋晴れで強い日差しが降り注ぐ午前11時半ごろ、重そうなリュックを背負った男性が、額に汗をかきながら、帰ってきた。

 料理研究家・小林まさるさん、御年92歳である。

料理研究家・小林まさるさん、現役の秘訣

毎朝こなす買い出しや愛犬の散歩などでたくさん歩くことも足腰が弱らない秘訣

 この日、まさるさんの息子の妻で、料理研究家の小林まさみさん(55)のスタジオでは、『キユーピー3分クッキング』(日本テレビ系)の撮影が行われていた。

 まさるさんのこの日の役割は、まさみさんのアシスタント。頼まれた食材を2軒のスーパーに買い出しに行っていたのだ。玄関に入り、愛犬ヴァトンの頭をなでた後、スタジオで忙しく立ち働くもう1人のアシスタントやテキストスタッフ4人に挨拶。テーブルにどさっとリュックを置き、こう言った。

「こんなのは軽いほう。重いときは50㎏ぐらいあるからね」

 食材を冷蔵庫にしまうと、ほぼ休みなく皿洗いを開始。調理器具の出し入れやごみ捨てなど、動きに無駄がない。

「将棋と同じで2手、3手先を読むんだよね。横目でまさみちゃんの動きを見て、次はフライパンが必要だなと思ったら、サッと洗って手渡すとか。先を読まなかったらアシスタントって言われない」

 朝は7時ごろには起きて、掃除をするのが日課。その後、アシスタントとしてのスケジュールがぎっしり詰まっている。それでも、音を上げないのがまさるさん。まさみさんはその「気力」に驚く。

「例えば料理教室がある日は、朝8時半から作業が始まって、終わるのが夕方5時ぐらい。その間は立ちっぱなしで、座るのは朝と昼のごはんのときだけ」

 本人いわく、「疲れがたまる」感覚を初めて自覚したのはなんと90歳になってから。

 料理の撮影はスムーズに進んでいたが、ちょっとした事件が発生した。購入した一部の商品をスーパーに配達してもらったのだが、届かないものがあったのだ。

「いや、絶対買ったから」

 まさるさんはそう断言するとスーパーに電話、再配達を要求した。ほどなく荷物が届くと、スタッフを前にして仁王立ちになって言った。

「ついにまさるもボケたかと思っただろう。買ったものは、この頭に入っているから」

 まさみさんが証言する。

「記憶力がいいんですよ。年相応に物忘れはあるんですが、新しいことを話してもすぐに頭に入るし、初めての場所に行っても迷わないんです」

 頭には明るい赤色のバンダナ。後頭部からは頭髪を結んで尻尾のようになった髪がのぞいてユーモラスだ。

 まさみさんのアシスタント歴10年になる中澤久美子さんが言う。

「いつも朗らかで、ムードメーカーです。だからたまたま出かけて不在だと、撮影スタッフの皆さんは、『きょうは“お父さん”いないね』って寂しがるんです」

 まさみさんはじめ、スタッフも“お父さん”の愛称で呼ぶ人が多い。その日のスタッフは約10年、まさみさん・まさるさんと仕事をしてきた。

 ディレクターの香山直美さん(54)は、その「優しさ」に惹かれるという。

「まさみさんが、アシスタントの中澤さんの失敗を少し厳しく注意したことがあったんです。師匠だから当たり前なんだけど、そのときにお父さんが、“いや、それは俺がやったんでいいんだよ”とかばっていましたね」

 スタイリストの坂上嘉代さん(62)が印象深いのは、自分の娘が不登校になったとき、まさるさんが釣りに誘ってくれ、弁当を持って出かけたことだ。そんなエピソードを話しながら、坂上さんがまさるさんの足元を指す。

「ほら、裸足でしょ。真冬でも靴下はかないんですよ」

 まさるさんに聞くと、

「幼いころから親父に、家の中で靴下をはくもんじゃない、寝るときもパンツ一丁だ、と言われて育ったからね。子どものころに住んでいた樺太は零下45℃くらいになるんだけど」

“ネズミ男”から激変!料理研究家へ

秋冬でも一日中、素足で働くまさるさん。スーパーの配達で注文した食材が届かないトラブルが発生すると、すかさず電話を入れ、撮影に影響が出ないよう対処

 まさるさんが、料理の世界に入ったのは70歳のとき。まさみさんのアシスタントになったのが最初だ。カメラマンやスタイリストなど若い人と仕事を共にするうち、気持ちも若返ったのか、雰囲気まで変わっていき、まさみさんを驚かせた。

「1995年に私は結婚したのですが、当時は夫と2人でお父さんのことを“ネズミ男”と呼んでいたんです。グレーのものばかり着るから。眼鏡も昔のおじさんがかけている地味なものでした。私のことは、(背が)“デッカい女”と思ったみたいですけど(笑)」

 高校を卒業後、北海道の炭鉱会社や千葉の鉄鋼会社という“重厚長大”型企業で働いていたが、人生何が起こるかわからない。アシスタントのキャリアを積み、自らも料理研究家としてデビュー。

 昨年10月に、4冊目の単著『92歳、小林まさるの脳トレスープ』を出版し、NHK『あさイチ』やTBS系『マツコの知らない世界』などに出演。今や電車に乗っても気づかれる存在に。

 4年前には、88歳の米寿を機にユーチューバーにも挑戦。ヘッドホンを首にかけたDJスタイルで、悩み相談に乗ったり、餅つきやスイカ割りをしたり、川柳を作ったりしている。フォロワーは1万5000人を数える。

 まさみさんのスタジオの表札には社名「TRY━SURU(トライスル)Company」と書かれたプレートが掲げられている。“挑戦”は小林家の合言葉でもあり、まさるさんはそれを体現する。

「年だから引っ込んでようとか言う人がいるけど、“年だから”と言うのが“年寄り病”のサインなんだよ。年をとったら、もう残された年数は限られているんだから、怖がらずに挑戦して、失敗しても気にせず次にいけばいい」

 まさるさんの人生をたどると、山あり谷あり。しかしずっと続けてきたのは、尻込みせず、挑戦することだった。

終戦後、一家自決の危機に…

全身を真っ黒にしながら炭鉱の現場で働いていたまさるさん

「命がけだったね」

 幼少期は生まれ育った環境から、食べるものにも苦労した。

 まさるさんが、7人きょうだいの長男として生まれたのは1933(昭和8)年4月。北海道の北に浮かぶ樺太である。当時は島の南半分が日本領だった。父親は炭鉱で機械工として働いていたという。

 幼いころから釣りが好きで、
イワナを釣っては、川で大根、にんじん、ジャガイモなどと一緒に焼いて食べたり、みそ汁を作ったりしていた。

 8歳のころだ。やがて戦況が厳しくなり、「戦争勝利」を願って「勝」と名づけられた少年は、自分もお国のために兵隊になると思っていたが、戦争に行くことなく12歳のときに終戦。樺太では、そこからが地獄だった。

 ソ連軍が侵攻してきたのだ。

「殺人、略奪、レイプ……、ひどいもんだった。俺よりも1~2歳上の人も徴兵されたんだけど、この戦いで何人も死んでいった。終戦がもう少し遅かったら自分も兵隊になっていて、もうこの世にはいなかったかもしれないね」

 いつソ連兵に殺されるかわからない。そんな不安な状況に置かれる中、まさるさんの父親は家族を集め、思い詰めた表情でこう告げた。

「恥をかかされるぐらいならみんなで一緒に死のう。おれは手榴弾を持っている。いざとなったら弾のピンを切る」

 まさるさんは当時の心境をこう回想する。

「人間、死ぬとなったらどうなると思う? “無”だよ。今日死ぬのかな、明日死ぬのかな……。何も考えられない。笑顔なんてないよ」

 8月下旬に地上戦は終わったのだが、ソ連が樺太全土を実効支配し、日本が使っていた機械で石炭採掘を始める。ところが修理ができる技術者はいない。そこでまさるさんの父親が、ソ連の技術者を指導することになったのだ。

 だからといって優遇されることはない。困ったのは食べ物だ。配給されるのは1日1㎏の小麦だけ。小麦を塩と水でのり状にしたものを湯に入れ、それを家族9人で分けた。

「弟は腹をすかせて、歩きながら膝から崩れ落ちて、歩けなくなってしまったんだ」

 まさるさんは家族の食料を確保するため、ソ連兵の監視をかいくぐって、川でサケをとったり、パン工場の敷地に忍び込んで、雪の下に埋まっている塩を拝借したりした。サケは持ち帰って食べるが、塩は換金して食べ物などを買った。誤って川に落ちれば、凍傷で死ぬ危険もあった。ソ連兵に見つかって銃口を向けられたこともあった。

「ただ生きることだけを考えていたね。家族全員が食べられるにはどうしたらいいか。人の家に盗みに入ったりはしないけど、食い物がなくなるという極限状態に置かれたら人間って何でもやるもんだ」

 まさるさんが当時よく夢に見たのは、「白いご飯とたくあんを腹いっぱい食うこと」だったという。

シングルファーザー生活の限界

重要な責務を全うし、海外赴任を果たした

 終戦から3年たって、ようやく樺太を脱出、北海道で生活するようになる。ここから20年近くは苦労が報われたように順風の日々だった。

 三井鉱山が運営する美唄の鉱業学校(高校)に入学できたのだ。学生ながら恵まれた環境で、お金まで支給された。ラーメン一杯20円台の時代に、1年生で月500円、3年生で2000円、卒業すると憧れの三井鉱山に入れるため、高い競争率を誇っていた。そんな難関校に見事合格。「偶然うまくいっただけ」と謙遜するが、優秀だったのだ。

 首尾よく三井鉱山に入社。給与もよかった。大卒の給料が1万5000円の時代に、まさるさんたちは4万円。テレビ、洗濯機、バイク、ピアノなどは、全国トップクラスの早さで手に入れた。当時、炭鉱は花形産業だったのだ。まさるさんは家に遊びに来る友達と、飲んだり食べたりする時間を楽しみにしていた。

「そのとき、家の畑に植えてあったほうれん草をとってきて、卵と一緒に炒めてみんなに食べさせた。油揚げがあればそれも一緒にして。酒のアテだったな」

 出世コースを着実に歩み、27歳のとき、ドイツに3年間派遣される。しかし帰国後、人生は暗転する。エネルギーの主役が石炭から石油に転換するタイミングだったのだ。

 私生活もパッとしなかった。'67年、34歳で見合い結婚し、男女2人の子どもに恵まれるが、妻と性格が合わず、4年ほどで離婚してしまう。

 子どもを引き取るも、シングルファーザーではうまくいかず、「子どもがいじめられたらかわいそうだ」という親の助言もあり、結局元の妻とよりを戻すことに。出世頭だったキャリアを捨て、身内のいる千葉に引っ越し、新しい人生を歩むことになる。

妻の闘病中に覚えた料理

「炭鉱や鉄鋼会社で働いていたとき、仕事をスムーズにして安全を保つという意味合いで整理整頓を叩き込まれた。料理撮影の現場でも同じなんだよね。ごみや使い終わった調理器具はすぐ片づけるように徹底してる」と語るまさるさん

 そのとき38歳。鉄鋼会社に転職するも、「遅すぎる新人」は辛酸をなめた。

「若いあんちゃんにアゴで使われてな。あー、悔しかった。家に帰って酒飲んで、布団にくるまって泣いたよ」

 家の近くにあった中山競馬場からファンファーレが聞こえると、それに誘われてついつい馬券を買うことに。負けがこんで炭鉱の退職金の半分を溶かしてしまった。

「これじゃダメだと反省してね。若い社員からちゃんと仕事を教わって、覚えなきゃいけないと」

 しかし一難去ってまた一難。今度は妻の体調が思わしくなくなる。最初は腎臓が悪いという診断だったが、肝臓も不調になり、やがて入退院を繰り返すようになる。まさるさんが50歳を過ぎたころだ。

 それからは、妻に代わって台所に立つことになる。息子の史典さん(56)によると、「食事や弁当のメニューを決めて買い物に行くのではなく、冷蔵庫にあるもので献立を考えていた」という。

 まさるさんに当時のことを聞くと、こう振り返る。

「手の込んだ料理はできないよ。魚を焼いたり、魚ばかりじゃダメだから肉を焼いたり、野菜も炒めて食べさせたり。炭鉱時代に友達に食わせた“ほうれん草の卵炒め”も作ったな。子どもは2人とも育ち盛りだから、栄養のバランスを大ざっぱだけど考えていたね。ミンチの肉を買わないで、買った肉を叩いてひき肉にしたのは、料理へのこだわりではなく、そのほうが安かったから」

 史典さんのイチオシはカレー。市販のルーを使わず、小麦粉を炒めスパイスを入れた自家製ルーで作られていた。

 ただ、弁当にまつわる記憶で今も史典さんの記憶に鮮明に残っているのは缶詰だ。

「2個弁当箱があって、1つにはご飯と卵焼きが入っていて、もう1つには開封されていない缶詰が缶のまま入っていたことがあったんです。親父、酔っ払いながら作ったのか、仕事で疲れていたのかなと思いました」

 史典さんとまさるさんは、普段あまり会話が多いほうではなかったという。進路にも口を出さない放任主義。食事の仕方で身体や心の調子がわかったりするものだが、食事を作ることは親子の数少ない“会話”だったのかもしれない。

 闘病の末に妻が亡くなり、数年後、まさるさんは定年を迎える。定年後は、北海道の田舎に引っ越し、趣味の釣りと狩猟ざんまいの余生をイメージしていた。しかし、息子が結婚するタイミングで人生は大きく転換していく。

 まさみさんは史典さんと交際中、小林家に遊びに行き、まさるさんの手料理を食べたことがある。

「筑前煮やお刺身……と、いろんな手料理が出てきましたね。筑前煮のこんにゃくが手綱にしてあったんですよ。当時、私は料理ができなかったので、すごいなって」

息子夫婦との同居を拒否

まさみさんの動きをよく観察し、阿吽の呼吸で片づけや調理器具の先出しをする

 結婚後、親子の同居を提案したのはまさみさんだった。

「お人よしなので、ダマされそうだなと思ったんです。お父さんとは、最初から緊張せず普通に会話ができましたから、一緒に住むことに抵抗はなかったんです」

 史典さんに同居を打診すると同意してくれ、すぐにまさるさんに話してみた。ところが断固拒否。「1人で気ままに暮らしたい」と言うのだ。

 それでも息子から、「飲んべえだから1人では身体が心配」と説得された。まさるさんは、身体の具合が悪くなってから同居させてほしいというのも虫がよすぎると考え、承諾したという。

 意外な展開だったのは、料理より洋裁に興味があったまさみさんが「調理師学校に通いたい」と言い始めたこと。結婚を機に実母に料理を習い、面白さに目覚めたのだ。

「後でわかったことですが、最初、夫もお父さんも反対していたみたいなんですよ。でも私は思い込んだら一直線のタイプなので、反対の声はまったく耳に入らなくて」

 まさみさんは会社を辞め、学校に通いながら、家の食事も作るようになる。するとちょっとした対立が勃発。まさるさんがこう語る。

「まさみちゃんの実家は薄味なんだ。でも俺は濃い味が好きだからそれじゃ物足りないんだね。最初は遠慮していたけど、我慢できなくて、塩やしょうゆを入れるよ、と断って加える。まさみちゃんは俺の料理にお湯を入れてたよ(笑)。お互い我慢するタイプじゃないから」

 まさみさんは学校卒業後、平野レミさんなどのアシスタントを経て、自著を出版する。'03年発売の『5分10分 15分でよーい丼』である。

 実はそのときまさみさんは、仲間1人にアシスタントをお願いしていたが、人手が足りないことに気づく。どうするか悩んでいたところ、酒を飲んでいたまさるさんが言った。

「そんなの、俺がいくらでもやってやるよ」

 即座にまさみさんは「そういう手があったか」と膝を打ち、洗い物をお願いすることに。いざ撮影が始まると、その働きぶりに目を見張った。

「“これは使える”と思いましたね。アシスタントは言ったことを確実にやってくれる人が助かるんですが、まさにそのとおりで、手際よく片づけてくれたんです。合間に包丁まで研いでくれて」

 それ以降も時々、まさみさんの仕事をヘルプするようになり、アシスタントとしてめきめき腕を上げていく。

 アシスタントデビューから2年後、まさるさんはメディアに出演することになる。

 ムック『うちに帰ってから15分で作れる晩ごはん』の制作開始前、担当のライターに、まさみさんがまさるさんのことを話すと、「お義父さんがアシスタントというのは面白いから、一緒に撮影しましょうよ」と提案された。

 まさるさんの後ろ姿が写り込んだムックがヒットし、「小林まさる」の名前も知られるように。72歳のときだ。

 以来、『はなまるマーケット』(TBS系)にも嫁舅コンビで出演するなど、メディアへの露出が増えてくる。

本音でぶつかる嫁舅コンビ

まさる流!ほうれん草の卵炒め

 やがてまさるさん単独でおつまみの連載がスタート。'11年にはそれをまとめた『まさるのつまみ』を出版。料理研究家としてデビューした。

 キャリアは違うが、一家に料理研究家が2人。私生活では舅と息子の妻の関係。しかもメディアでの共演が多いとなると、ぶつかることも。

 まさるさんがアシスタント専業だったころは、お互い味についてはノータッチだったが、互いに料理研究家になると、プロとして気になるのだろう。まさるさんが試作したものに、まさみさんが軽く意見を言ったことがあった。

「これだけ練り物があると塩分が強いから、しょっぱくないほうがいいんじゃない?」

 内心ムッとしたのか、それまでまさみさんの料理にコメントをしなかったまさるさんも、彼女の試作料理などに注文をつけるようになった。

 テレビ番組でぶつかることもある。原因はほぼ同じ。まさるさんが台本を覚えるのが苦手なことだ。まさるさんによれば、台本のセリフのことが気になって、緊張で手が震えるという。

 例えば、『マツコの知らない世界』の収録のとき、こんなことがあった。楽屋に入って出番を待っていると、まさみさんが言った。「一回練習してみたら」と。やってみると、言おうと思っていたことが思い出せない。まさみさんに、「今になって、そんなこと言ってる」と言われてカチンときた。

「俺だってな。……あー、俺やめた」

「やめたってどうするの?」

「きょうはおまえ1人でやれ」

 いったんは怒りを収めて出演したまさるさんだったが、リベンジに出た。

「本番中に、楽屋でのケンカのことバラしてやった。そしたらマツコさん、大笑いしていたよ。“やめられたら大変だからさ”とか言って」

 同情を誘うそぶりで逆襲することもある。NHK『あさイチ』に出演する朝のことだ。出かける前にケンカをすると、まさるさんは血圧を測り、これ見よがしにまさみさんに数値を見せた。

「“ほら、こんなに血圧が上がっている”と、もう行けないと言わんばかりなんです。普段はそうじゃないのに、時に急に年寄りぶったことを言い出すことがありますね。そういうことはしょっちゅう」

今も「アシスタントが本命」

 そんな2人だが、ベースには「リスペクト」がある。

 まさるさんが、まさみさんから学んだことで、まず挙げたのが、「度胸」である。

「俺は石橋を叩いて渡るタイプなんだ。でもまさみちゃんは、思ったら一気にやるからね。人には一生の間にチャンスは3回巡ってくるといわれるけど、大切なのは来たときにパッとつかむことだね」

 料理も日々、まさみさんから学んでいるという。味で対立することはあるが、いいところはどんどん盗んでいる。「俺たちの若いころは、“仕事は盗め”と言われたもんだよ。鉄鋼会社に入ったとき、若い社員にあれやこれや偉そうにされながらも教えてもらったのは、そのほうが身につくし、結局得だからね。相手が女性であっても同じ」

 一方のまさみさんが、まさるさんから教わったことでいちばん大きいのは「人としゃべるとき、壁をつくらない」こと。

「裏表がないんですよ。だから、みんな“まさるさん”“お父さん”と、人が寄ってくるんじゃないですか」

 そして冒頭でも書いた「気力」と「記憶力」。まさみさんは、こうした能力を保つ秘訣は「仕事」を続けていることだと思っている。

「例えば、北海道旅行でしばらく仕事を離れて東京に帰ってくると、反応が鈍くて、なんか年とったなと思うことがあるんです。でも仕事をすると元に戻ってくるから、あえて買い物などをお願いする。私はお父さんの“パーソナルトレーナー”かもしれないですね」

 知れば知るほど、2人は最強の嫁舅コンビに思えてくる。まさるさんは、まさみさんのアシスタントをやるようになって、自身も料理研究家になった。一方のまさみさんも、まさるさんと一緒にメディアに出ることで、ほかの料理研究家にはないものを得た。まさみさんが言う。

「自分の売りや強みがなんなのかも定まらなかったので、1人で仕事をしていたら、早くから雑誌やテレビで取り上げられる機会も少なかったと思いますし、名前すら覚えてもらえなかったかもしれません。一緒に働いてなければ今の私はないと思っています」

 さて、まさるさんは将来をどうイメージしているのか。

「身体の動く限りは、アシスタントをやっていくつもりだよ。まさみちゃんが“はーっ”と言えば“ほーっ”と返してくれる人がいつもそばにいるのはやりやすいと思うよ」

 当初はスーパーで買い物をすると貯まるポイントがまさるさんの“収入”だったが、ほどなくまさみさんの会社から給料をもらうことになった。

 それにしても、これだけ料理研究家として知られるようになっても、「自分の仕事の本命はアシスタントだ」と答えるところが面白い。

「2番目は料理研究家、自分に対してのサービスだな。ユーチューバー、それは3番目でいいんじゃない(笑)」

 まさみさんも、まさるさんには身体が続く限りずっと横で働いてほしいと言う。

「冗談でよく言うのは、立てなくなって車椅子になったら流しの下をリフォームして、車椅子が入る仕様にするからって。洗い物できますから。そうして自分のやることがあったほうが生きている実感を得られると思うんです」

 まさるさんは元気そうに見えるが、同居を始めて以降3回ほど、狭心症の発作で救急搬送されている。史典さんは「1人で田舎暮らししていたら、もうこの世にはいないよ」と言うが、本人としては、選んだ道が正解だったのか、まだわからないと言う。

「魚を釣ったりして遊んでたほうが楽しかったのかなってね。今は少しは有名になって、料理研究家に毛の生えたような仕事もして、少しは金も入るようになった。どっちがよかったのかなあ。死ぬまでわかんないんだろうけど、わかんなくていいのかな」

 そう言って愛犬ヴァトンにいたずらっぽく目配せをした。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち 奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を描いた『五輪の十字架』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。