仲代達矢さんがこの世を去ってから、2025年12月26日に四十九日を迎える。
「1952年に俳優座の養成所に入ってまもなく、圧倒的な存在感から大型新人と評され、たちまち人気役者に。1975年、奥さんの宮崎恭子さんと『無名塾』を立ち上げて、後進の発掘育成にも積極的でした。教え子として、役所広司さんや益岡徹さんなど名だたる役者を輩出しました」(スポーツ紙記者)
2025年5月にも舞台で主演を務めるなど精力的に活動していたが、同年11月8日に肺炎により92歳で急逝。
戦後の演劇界を牽引した巨星の死に、映画プロデューサー・岡本みね子さんは今でも寂しさを拭い切れずにいる。
「初めて仲代さんにお会いした印象は、無口だけど自我が強くて……。これから、こういう役者が日本の映画界に必要になると感じました」
みね子さんは、1959年公開の『独立愚連隊』や1967年公開『日本のいちばん長い日』などで知られる映画監督・岡本喜八さんの妻。仲代さんが新人のころから喜八監督の作品に出演した縁もあって、家族ぐるみで親しくしていた。
“目玉のお兄ちゃん”と呼ばれて
「お互いに若かったころ、仲代さんと一緒に車に乗っていたとき、彼が“俺は映画に出れば舞台屋と言われ、舞台に出れば映画屋と言われて嫌になる”とボヤいていましたね。売れっ子になっても、役者としての在り方を考え続けているような人でしたね」(みね子さん)
仲代さんとの縁は、みね子さんの娘で女優でもある岡本真実さんにも受け継がれる。
「小さいころから可愛がってもらって、私は“目玉のお兄ちゃん”と呼んでいました。私が大人になって女優になるため俳優養成所に通っていたころ、仲代さんの奥さんから私の母に“無名塾に入った新人女優が急に辞めてしまって困っている”と相談があり、話の流れで私に入塾の打診があったんです」(真実さん、以下同)
当時、無名塾に入るには、博識だった益岡が監修した筆記テストや、仲代さんとの面談といった試験などがあったが、真実さんは演技経験が買われて、面談のみで合格。
しかし、かつて兄のように慕った喜八監督の娘でも、仲代さんは容赦しなかった。
「無名塾は集団生活で、遅くまで稽古をし、内外での飲み会も多く、やりがいはありましたが大変でした。私は遠藤憲一さんと同期ですが、彼は入って数日で離脱したので入れ違いでした(笑)」
真実さんが抱いた仲代さんの印象は、母とは真逆だった。
ヘルメットにびっしり落書き
「無名塾での仲代さんは、いつも豪快に笑って、ずっとあれこれしゃべりっぱなし。イタズラ好きなところもあって、私の使っていた原動機付き自転車のヘルメットにビッシリ落書きをされたことも。
当時の仲代さんは黒澤明監督の『乱』の撮影中。過酷なロケでピリピリしていましたから、息抜きで私をからかったのかもしれません(苦笑)」
両家の交流は、2005年に喜八監督が亡くなった後も変わらず。2015年に、みね子さんの初監督作品となる八千草薫さんが主演の映画『ゆずり葉の頃』を撮った際も、仲代さんは二つ返事で出演を快諾。撮影場所として無名塾を貸し出すなど協力を惜しまなかった。
「父の喜八もそうでしたが、仲代さんは、どこまでも人と深く関わるのが好きな方でした。だから、役者も無名塾の塾長も最後まで続けられたのではないでしょうか」
人間と演技を愛し続けた仲代さん。
きっと今ごろ、天国で喜八監督と映画談議に花を咲かせているに違いない─。
