「特に、記憶に残っている年齢のときに戦争を体験した人は、もうかなり高齢になってきていますので、(略)まだ話してくれる人もいますし、そういう人たちから話を聞くだとか、それから関連する展示を見学するとか、また、書籍などから知識を得るなどして、一人ひとりが平和のことについて考えていくということが大切になっているのではないかと思います」
「先の大戦のことについては、節目の年だけに思い起こせばいいというものではなくて、これが今年は80年ですけれども、81年であっても、82年であっても、折々に思い起こして、過去に学びながら、二度と同じことを繰り返してはいけないということを、一人ひとりが確認することが大事なのではないかと考えました(略)」
還暦の誕生日を迎えた秋篠宮さま
秋篠宮さまは11月30日で60歳、還暦の誕生日を迎えた。これに先立って東京・元赤坂の赤坂東邸で記者会見が行われた。今年は戦後80年の大きな節目の年にあたる。
秋篠宮さまは今も続く世界各地の武力衝突を踏まえながら、前述したように、歴史に学び、戦争を繰り返してはならないと訴えた。
こうした秋篠宮さまの強い思いはこの一年、佳子さまや悠仁さまたち家族がいちばん敏感に感じ取ったのではなかっただろうか。
これは以前、この連載で紹介したことがあるが今年7月、秋篠宮ご夫妻と佳子さま、悠仁さまの家族4人は東京都目黒区にある東京都写真美術館を訪れ、「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を見学した。
この企画展は中国新聞社など報道機関5社の主催で、各社のカメラマンや市民らが撮影した原爆投下直後の写真など約160点と映像2点を公開したものだった。
報道によると、秋篠宮さまは爆心地から2・2キロ地点の写真を見て、放射線が人体に及ぼす影響に触れながら、「かなり爆風が強かったんですね」「やはり核はなくならないといけないですね」などと感想を述べた。悠仁さまは「写真や映像が持つ情報の多さや力を感じました」と語っていたという。
佳子さまたちが訪れた後、私もこの企画展に足を運んだのだが、誰もが真剣な表情で一つひとつの写真に見入っていたことが、強く印象に残っている。
重い空気に包まれた会場で私は、悠仁さまの言葉どおり、写真の持つ情報量の多さや圧倒的な説得力を感じながら貴重な時間を過ごした。そのとき買い求めたカタログには、次のように書かれていた。
《1945年8月6日午前8時15分に米軍が広島市に投下した原爆は、島病院の上空約600メートルでさく裂した。直後に発生した火球の中心温度は摂氏100万度を超え、爆心地周辺の地表は3000度から4000度、爆風波秒速約280メートルに達したとみられている。そこに生身の人間がいた。何が起こったのかも分からぬまま瞬時に焼かれた。爆心地から2キロ以内の建物ほぼ全てが破壊し、焼き尽くされていた(略)》
こうした灼熱地獄の中に無防備の生身の人間がいたら、それはひとたまりもなかっただろうと、改めて私は原子爆弾の持つ非人道性を痛感した。やはり核兵器は、一日でも早く廃絶しなくてはいけない。
戦争の歴史とどう向き合うか
今年2月23日、65歳の誕生日を前にした記者会見で天皇陛下は、戦争の歴史とどう向き合うのかと記者から尋ねられ、「戦争の記憶が薄れようとしている今日、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や歴史が伝えられていくことが大切であると考えております」と答えている。陛下は6月、皇后さまと一緒に広島を訪問した。
宮内庁を通じて公表した陛下の感想には、次のように綴られていた。
《平和記念公園を訪れ、原爆ドームと平和の灯を望みながら、原爆死没者慰霊碑で花をお供えし、80年前の原爆投下により犠牲となられた方々に哀悼の意を表するとともに、これまでの広島の人々の苦難を思い、平和への思いを新たにしました。この後、被爆遺構展示館と広島平和記念資料館を訪れました。一つ一つの展示品や写真から伝わってくる原爆被害の悲惨さに深く心が痛みました》
秋篠宮ご夫妻は、全国高校総合体育大会(インターハイ)の総合開会式に出席するため、7月23日から1泊2日の日程で広島市を訪れ、平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に供花し、拝礼した。さらにご夫妻は広島平和記念資料館で、高校生平和大使を務める被爆4世の甲斐なつきさんらと懇談した。
昨年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞したが、甲斐さんはノルウェーの首都オスロで行われたノーベル平和賞の授賞式に出席し、現地で同世代の高校生と平和を考える授業も行っていた。
「今の若い世代の人たちの平和の継承という意味では、今年の夏に広島に行ったときのことが思い起こされます。広島に行って平和都市記念碑に花を手向けた後に、平和記念資料館で平和な世界の実現のために学習し、活動している人たちと会う機会がありました。
戦争とか核兵器について多くのことを学びながら、そのことを国内外の同世代の人たちと共有し、さらに、国際的な視野を持ちながら課題に取り組んだり、活動している姿を大変頼もしく思いました」
11月の誕生日会見でも、このように秋篠宮さまは今夏、広島で出会った「大変頼もしい」若い人たちの印象を振り返っている。
そして、佳子さまは今年8月、母親の紀子さまと一緒に広島市を私的に訪れ、平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に供花し、拝礼した。また、「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんの生涯を描いたミュージカルを鑑賞したり、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」を訪問して入所者たちと懇談している。
「戦後、日光の疎開先から焼け野原の中にトタンの家の立つ東京に戻って見た状況は、現在の東京からは、とても考えられないものでした。日本がこのように発展することは、当時、誰しも想像できなかったことと思います。国民が互いに協力し合い、たゆまぬ努力を重ねてきたことを忘れることはできません」
これは1993年12月、秋篠宮さまや天皇陛下の父親である上皇さまが、還暦を迎えた際に記者会見で述べた言葉だ。
1933(昭和8)年に生まれた上皇さまは、秋篠宮さまが会見で語った「記憶に残っている年齢のときに戦争を体験した」一人である。
天皇陛下や秋篠宮さまは、上皇さまや一歳下の上皇后さまから米軍機による空襲のすさまじさやひもじかった疎開など、戦時中の生活を繰り返し、繰り返し聞かされ、戦争の悲惨さや平和の尊さを小さいころから学んでいた。今年11月の誕生日会見での秋篠宮さまの発言は、こうした経緯を踏まえたものだといえよう。
親から子へ、そして、子から佳子さまや愛子さま、悠仁さまたち孫の世代へ。こうした「負の記憶」がしっかり継承されることはとても大切なのだ。私たち国民は、上皇ご一家から学びたい。
<文/江森敬治>
