「この1週間、ほとんど何も食べていないので、パワーがなくなっちゃった。今はろくに歩けなくなっている状況で、私は医者じゃないのでよくわからないけれど、実感で言うと、そう長く持たないかもしれないな……」
経済アナリストの森永卓郎さん
'25年1月28日に亡くなった経済アナリストの森永卓郎さん。ラジオ番組で、こうした発言をした翌日、自宅で静かに息を引き取った。
「“モリタクさん”と呼ばれ、テレビやラジオで歯に衣着せぬ発言をして、経済界のみならずお茶の間にも親しまれていました。'23年末に原発不明がんを公表してからも、ギリギリまでメディアへの出演を続け、まさに亡くなる前日まで仕事に励んでいました」(ワイドショースタッフ)
森永さんの死から、まもなく1年─。
息子であり、同じく経済アナリストとして活動している森永康平さんに、父親が“がん”になったときの話を聞いた。
「がんになったことを知ったのは、本人が病名を告げられたタイミングでした。メディアに公表する1か月くらい前でしたね。悲しい、というより驚きが勝っていました」(康平さん、以下同)
闘病生活が始まっても、父子の関係性が大きく変わることはなかった。
「離れて暮らしていましたが、病院対応などで私が実家に戻る機会が増えました。ただ、亡くなる前に何かしようというのは意識せず、極力、普段どおりに暮らしていました」
病を患っても、森永さんは仕事をやめなかった。当初は康平さんも「無理をしないでほしい」という思いがあったそうだが、その考えは次第に変わっていった。
「ステージⅣで余命宣告もされており、完治するものではないとわかっていました。休んだからといって、よくなるわけではない。生きられる時間が限られているなら、本人がやりたいように生き抜くのがいちばんだと思い、父のすることに対して止めるようなことはしませんでした」
父との思い出
父との印象的だった思い出について聞くと、
「父は自由な人でした。好きなように生きて、好きなように死んでいった。妻子があっっても、生活は独身男性みたいなもので。父は群れるのがあまり好きではなく、基本的に母と一緒にいるか、1人で仕事をしていました。
いつも家にいなかったので一般家庭のお父さんのように、毎週末にキャッチボールやサッカーをすることはなく、会話も特になかったです」
しかし、'18年ごろから会話をする機会が増えた。
「その年に私が独立をして、同じようなフィールドで仕事をする機会が増えました。番組の収録が前後したりすると、その合間に時事ネタを雑談したり。お互いに政治経済の分野にいるので、株や政治の話といった、いわゆるニュースの話題が多かったです」
余命3か月と宣告されたのは、亡くなる約1年前。家族は覚悟を決めていた。
「亡くなっても泣き崩れるようなことはなかったです。ついに来るべき日が来たか、という感覚でした。本人は、やりたいことをいっぱいやって亡くなっているので、悔いもあまりないとは思います。
ただ、大学のゼミをすごく大事にしており、今のゼミ生の卒業式には出たいと言っていました。悔いがあるとすれば、その卒業式に出られなかったことかなと思います」
康平さんは、過去に父と仕事をしたことがある人たちから「仕事に対する考え方が似ている」と、よく言われるそう。直接、何かを教わったり影響を受けたとの自覚はないが、父子なんだなと感じるときも。森永さんの遺志は、確実に引き継がれているようだ。
