お笑いコンビ・爆笑問題の太田光さんの妻であり、所属するタレント事務所「タイタン」の社長でもある太田光代さん。
「もともと爆笑問題と同じ太田プロダクションのタレントでしたが、26歳で結婚。その後、太田プロから独立した結果、無所属になった爆笑問題のためにタイタンを作り、経営の世界に飛び込んだんです」(太田光代さん、以下同)
計8年に及ぶ不妊治療
大手事務所からの突然の独立騒動で仕事がなくなった爆笑問題を見事復活させ、徐々に事業を拡大。今や爆笑問題を筆頭に、M-1王者のウエストランドなどを擁する有名タレント事務所に。
敏腕社長として有名な光代さんだが、事務所を軌道に乗せ、拡大しようと奔走していた30代、40代のころ、計8年に及ぶ不妊治療も経験していた。
「夫も私もどうしても子どもが欲しいわけではなかったのですが、夫婦ともに一人っ子だったので、太田の父親が孫の顔を見たいと切実に願っていて……。仕事は忙しかったけれど、やれることはやろうと30代前半で不妊治療を始めました」
まだ不妊治療がマイナーだった'90年代後半に「体外受精」の治療を開始。これは、取り出した卵子に精子をふりかけることで自然に受精させて受精卵をつくり、子宮内に戻す治療法で、月に20日間も通院していた。
「予約ができないため朝早くから病院に並ぶうえ、深夜に排卵を促すための注射を打ちに行くこともあって、仕事との両立は本当にハード。精神的にも追い込まれましたね」
身体への負担も大きかった。卵子を育てるための排卵誘発剤の飲み薬が合わず、“つわり”のような副作用に悩まされた。
「電車に乗ると吐き気がしてひと駅ごとに降りなければならず、服薬する1週間は地獄のよう。その後の採卵は、膣内に採卵針を入れて卵子をとるのですが、当時はより自然な方法でという病院の考えで麻酔なしだったんです。処置台に縛りつけられ、ひたすら激痛に耐えて」
真剣に治療へ向き合うほど心身が削られ、もともと細身の光代さんの体重は42kgから33kgに激減。30代で約6年治療したものの妊娠に至らず、事務所が急成長する時期と重なって仕事との両立は困難に。
「太田の父に治療をやめる報告をするため、医師の診断結果を持って行きました。私の問題に加え、夫の精子の量が同年代より少ないこともわかったので、授かるのは難しいと」
東日本大震災で心境に変化が
義父を説得し治療をやめた後、44歳の時にテレビ番組で不妊治療の経験を話すと、思わぬ反響があった。
「当時は治療を公言する著名人はほとんどいなかったので、『私も治療していますが、誰にも言えなくてつらい』など共感の手紙をたくさんいただいて。それを機に妊活雑誌で相談連載が始まり、同じ境遇の方の役に立てるかもと、不妊治療を再開することにしたんです」
今度は採卵3回までと決め、精子の量が少ない場合に有効な「顕微授精」に挑戦した。体外で受精卵をつくって子宮に戻す流れは体外受精と同じだが、受精方法が違うのが特徴。良好な精子を1つ選び、直接卵子に注入して受精させるのだ。
「そうしたら、30代ではできなかった受精卵が初めてできたんです。写真を見た時、『小さな命が生きてる!』と感激して。でも、移植しても子宮への着床に失敗することが2回続いて……ショックでしたね」
治療は2年ほど続け、3回目も2つの受精卵ができた。しかし直後に東日本大震災が発生し、泣く泣く移植を延期。仕事で震災対応に追われて時がたつうち、心境に変化があった。
「震災で多くの命が失われる状況を見て、深く考え込んだんです。お腹に戻してまた着床しなかったら、今、目の前にある2つの命が消えてしまう。それならいっそ、そのまま残しておきたいなと思ったんです。それで、子宮内には戻さずに受精卵を凍結保存し続けることに決めました」
「らんちゃん」と「らんらんちゃん」と名づけた受精卵を凍結して今年で約15年。その存在が光代さんの心の支えであり、生きがいとなっている。いずれは、自分の棺に入れたいと話す。
「夫には受精卵を保存していることは伝えているけど、何も言ってきません。否定されないのはありがたいですね」
現在、不妊体験者の支援を行うNPO法人「Fine」の名誉会員も務めている光代さん。治療中の方には、根を詰めすぎないようにしてほしいと言う。
「うまくいかなかった時は、夫婦で外食や温泉に行ってリラックス。それが治療を続けるうえで大切だと思います」
「いつでも離婚する覚悟ですよ」
今年で結婚35年、お互い還暦を迎えた。「夫はテレビと違って家ではほとんどしゃべらず出無精で、家事も一切してくれない」という。光代さんの不満はその都度爆発していてケンカはしょっちゅう。
「いつでも離婚する覚悟ですよ。今まで離婚届を何枚も書いて渡したけど、夫が毎回破いちゃう(笑)。うちの事務所の橋下徹弁護士も、番組内で夫の同意がないと離婚はできないって言うし……」
昔は不満がたまると離婚しかないと考えていたが、今は女友達と旅行に行って気晴らしをするなど、自分の時間を楽しむ余裕を持つように。
「でも旅行に行こうとすると夫が『どこ行くの?』と聞いてくる。それならあなたが旅行に連れて行ってよ!と私が怒るのがお約束で(笑)」
太田さんは旅行などの遠出は嫌うが、光代さんの趣味の散歩にはついてくるという。
「ある時、都内の公園でやっている餃子フェスに行こうとしたら、夫が『俺も行く』と。自宅のある阿佐谷から会場の駒沢公園まで歩けると甘く見たのが大誤算で……」
実際は、電車で片道1時間以上はかかる遠さ。散歩の距離ではないと気づいた時には遅かった。
「2人とも方向音痴だから、あっちこっち迷いながら歩き続けて。気づいたら12kmも歩く羽目になっていたんです! やっと着いたら日は暮れているし、餃子もフェスも終わる間際で、疲れ果ててもうヘロヘロ(苦笑)。でも久しぶりに他愛ない話ができたし、いい思い出かな」
光代さんが夫婦関係で大切にしていること
今もときどき、2人で散歩に行くそう。太田さんのように出無精な夫は、散歩を口実に引っ張り出すと夫婦仲を深めるきっかけになるのではと話す。
「健康が気になる年頃なので、あんなマイペースな夫でも、散歩なら『じゃあ行くか』となるんですよ。そのうち、いろんなところに連れて行ってほしいな~という願望もありつつ、まだまだ調教中です(笑)」
離婚の危機は絶えないが、なんだかんだうまくやっている太田夫妻。光代さんが夫婦関係で大切にしていることが2つ。1つは思い出をたくさんつくること。
「結婚35年で数えるほどしか旅行に行けてなくて。将来、夫の介護をすることになっても、楽しい思い出があれば、思いやりを持ってできると思うから。散歩でも外食でも、小さな思い出を増やしていきたい」
2つ目は、相手がいて当たり前の「空気のような存在の夫婦」にならないこと。
「結婚当初はラブラブで、『空気になんてなるわけない』と言っていた夫が、最近、『夫婦は空気みたいなもの』と言っていて、話が違う!と。私が必死に存在感を出しています(笑)」
ゆくゆくは、こんな夢が……。
「社長なのに行ったことがないの?と笑われるのですが、いつか夫とハワイ旅行に行くのが夢なんです」
その旅の思い出話を聞けるのは、いつになることやら!?
おおた・みつよ 1964年、東京都生まれ。モデル・タレントとして活躍した後、1993年に芸能事務所「タイタン」を設立し同社を牽引。近著『社長問題! 私のお笑い繁盛記』(文藝春秋)では、社長として激務をこなしながら「宗教二世」や「不妊治療」など、自身の人生の課題とも戦い続けてきた半生をつづっている。
取材・文/小新井知子
