“夢を描いたテストの裏”。それで作られた紙ヒコーキは、それぞれの空に──。
'90年代後半から2000年代前半にかけ、若者にカリスマ的人気を誇ったフォークデュオ『19(ジューク)』。
「彼らの名を世に広く知らしめた'99年リリースの2ndシングル『あの紙ヒコーキ くもり空わって』、2000年リリースでその年に開催されたシドニーオリンピックにて日本代表の公式応援ソングにも選ばれた『水・陸・そら、無限大』。この2曲で『NHK紅白歌合戦』に2度出場。しかし、絶頂期ともいえる'02年3月に解散しています」(音楽誌ライター、以下同)
岡平健治は“実業家”として成功
彼らが解散を発表したのは'02年の2月。解散を発表した後は、ファンのためでもあり、稼ぎ時でもあるため、最後のツアーを開催するアーティストも多いが、19は解散のPR活動などを一切することはなく、3月にラストシングルを発表するにとどまり、ひっそりと“ふたり”での活動にピリオドを打った。
「解散から3年後にベストアルバムをリリースしましたが、すでに当時はそれぞれソロで活動しており、ベストアルバム作成のため当時の所属レコード会社で解散後2人は初めて再会することとなったそうで、接点はまったくなかったようです」
メンバーの1人、岡平健治(46)は解散後バンド『3B LAB.☆(後に3B LAB.☆S)』を結成。もう1人のメンバー、岩瀬敬吾(47)はユニットやバンドなどではなくソロ活動をスタートさせている。
「健治さんは解散後もメディアに登場する機会は少なくなく、それはバンドとしての音楽活動で取り上げられることも当初は多かったですが、近年は、“あの歌手が成功者に!”といった内容が主。19での稼ぎを元に自社ビルを購入。不動産オーナー、スタジオ経営、飲食店経営などの“実業家”として成功している、というものです」(レコード会社関係者、以下同)
10代後半からの4年あまりの稼ぎを元手に、それを活用して富を得た。
「健治さんは、自身の活動は自身で設立したレコード会社に所属してマネージメントをする形でしたが、今年6月から吉本興業とエージェント契約を締結。タレント活動を“再開”しています」
岩瀬敬吾の近況は
一方、片割れの敬吾は。
「敬吾さんのほうは解散以降、ギター1本で音楽活動のみに専念しています。それは愚直なまでに……。'23年末に15年ぶりとなるフルアルバムをリリース。アルバムのリリースだけでなく全国各地をツアーで回っています」
現在、そんな敬吾は東北〜北海道のツアーの真っ最中。そんななか今月初旬に彼の姿は東北・山形にあった。自身のXにて以下のような投稿を行っていた。
《集客力なく ご迷惑おかけしているようで(汗の絵文字) 歌いますので聴きに来て欲しいです♪》
「近年、敬吾さんのツアーの会場はライブハウスなどの施設ではなく、音響設備のあるカフェバーなどがメインとなっています。集客にはかなり苦労されている様子です。単純にライブの本数が多いというのも1つの原因なような気はしますが……。結果的に山形での公演はお客さんが集まらずに中止となっています」
中止となった翌日にも公演があり、そちらも《こちらも集客難しく(汗の絵文字)ぜひ^_^》と呼びかけていた。
敬吾は15年ぶりのフルアルバムリリース時に週刊女性PRIMEの取材に応じ、基本的にメディア出演をしないなか、唯一出演したテレビ番組について次のように話している。
「(岡平)健治くんがたまに出て、お金だなんだって話をずっとしてるので、それに僕も何か言わされるみたいな感じですかね。('20年の番組出演直後)コロナ禍になっちゃったんで、なんかより“出て失敗したな”とか思ったりしました。時期的にお客さんが来れるような状況じゃなかった。出損でしたね、僕的には(笑)」
紅白歌手、20年後の明暗。
「外から単純に見れば、健治さんは実業家としては成功者であり、一方の敬吾さんは自身の音楽を追求し、結果的に今の状況は第三者視点から見れば“ドサ回り”といえるかもしれません。ただ、それはそれぞれが自身の夢、やりたいことをやっているだけのはずですし、どちらが成功してどちらが……ということでもないと思います。19からのファンはまたふたりが並んで歌う姿を1度は見たいとは感じていると思いますが」(前出・レコード会社関係者)
“明日”に投げた紙ヒコーキ、いつかまた交わる日は──。
