アルコール依存症だった父、新興宗教の熱心な信者であった母という自らの家族の姿を活写し、2020年には実写映画化されるなど話題となったドキュメント漫画『酔うと化け物になる父がつらい』を描いた漫画家の菊池真理子。
漫画家・菊池真理子
現在は自身の体験をベースに、さまざまな依存症やメンタルヘルス、宗教2世問題、機能不全家族などをテーマとする漫画やエッセイを発表しているが、つらい体験をした人々への取材を続けて心が疲れたり、プライベートでの問題に悩むと、ひとり旅に出かけるという。
「ドーンと落ち込んでも、煮詰まっても、『自然のあるところや山へ行けば大丈夫』と思えたことで、最近ようやく自分のメンタルを安定させる方法がわかったんです」
しかし自分に合った処世術を手に入れるまで、菊池の半生は困難の連続だった。
菊池は1972年、東京・浅草で生まれた。その後、菊池が喘息を患ったことで、父と母、そして生まれたばかりの妹の家族4人で埼玉県に購入したマイホームへと引っ越したが、菊池は当時3歳だったため浅草の記憶はまったくないそうだ。
「両親は共に岩手出身で中学の同級生、上京して、たまたま同じ会社に入って再会したそうなんですが、生徒会長だった父を母が一方的に知っていたくらいの関係だったそうです。でも、あるとき父が身体を壊し、自宅療養している部屋へ母が押しかけて面倒を見たことがきっかけで結婚することになったそうなんですが……詳しい経緯は聞いていないんです」
母は10代のころ、実兄がケガをした際に医師から「歩けなくなるかもしれない」と言われたものの、宗教を信じたことで歩けるまでに回復したことに感銘を受けて入信、家族ぐるみで信仰していたという。実は結婚も「父の入信」が条件だったというが、それは叶わなかった。
「両親の結婚式の写真を見たら、父方の親戚が誰も来てないんですよ。だから結婚には反対していたんだと思います」
菊池は専業主婦だった母から「本当はおまえには2人、お兄ちゃんかお姉ちゃんがいたんだよ」と聞かされて育ったという。
「母は『働きすぎたから流れちゃったの』『お腹の中で死んじゃったんだよ』なんて言っていたんですが、実際どうだったのかはよくわからないんです。おそらく母は、すごくそのことで傷ついていたのかもしれませんね。でも子どものときは『その2人がいたら私と妹は生まれていなかったんだな』とずっと思っていました」
酔って騒ぐ父と、泣く母の“自死”
菊池が小学2年生のとき、父がサラリーマンを辞めて小さな会社を起こした。父はそのころから仕事の付き合いが増え、酒に酔って帰ってくることが多くなったという。
「私や妹が起きている時間には帰ってこないんですよ。それで夜中に酔っぱらって帰ってきて、寝ている私と妹の顔をなで回して起こすんです。それは本当に嫌な記憶ですね。父は朝早く仕事に行くから『行ってらっしゃい』を言うくらいで、平日はほとんど会話がなかったんです。
母も宗教の集まりで夜、家にいないことが多くて、母の作ってくれた食事か店屋ものを妹と一緒に食べる生活でした。今考えると、ネグレクトだったんですよね」
さらに週末になると近所の人たちが菊池家へ集まり、酒盛りをしながら徹夜で麻雀をしていたそうだ。
「麻雀している部屋は、私と妹は入っちゃダメなんですよ。『ここは家族でごはんを食べる部屋なのにな』と不満に思っていました。母はお酒やおつまみを出したり、灰皿を替えたりをずっとニコニコしながらやっているんですけど、部屋から出るとずっと泣いてるんです。父のことで泣いて、宗教の人たちからも仕事を押しつけられたり人間関係が難しかったみたいで、それでも泣いているし……私が小学校3、4年生ぐらいからは常に泣いてました」
父たちが飲んで大声で話しながらジャラジャラと麻雀をする横で、朝晩大きな声で宗教の題目を上げ、泣いている母……その間、姉妹は2階の自室で漫画を描いていたという。
怖そうなお坊さんの名前がホラー漫画に
「私が小学校へ上がるくらいのころ、母と妹、母方の伯母とその家族と一緒に宗教関係の集まりに泊まりがけで行ったことがあって。そこで寝泊まりした施設に怖そうなお坊さんの名前がついていて一緒にいた子どもたちが『なんか怖い』と言い出して。
そうしたら、いとこのお姉さんが施設の名前をタイトルにしたホラー漫画を描き出したんです(笑)。私はそのころ漫画を読んだことがなかったので、彼女からコマ割りとか吹き出しなんかを教えてもらって、一緒に描いて。それが私が初めて描いた漫画なんです」
母は宗教団体が発行する新聞を配る仕事をしながら、自分ではなんと6部も購読していたそうで、菊池は廊下に大量の古新聞が積み上がっていたのを覚えていると語る。
「母は30代後半、婦人科系の病気でホルモンバランスが崩れてしまって、突然来た更年期のような状態になって、メンタルも体調も崩すようになって。私は小学5年生だったんですが、母が退院した次の日にもおじさんが集まってきて、麻雀してたんですよ。母は術後でお腹が痛かったはずだったのに、いつものようにお世話をしていて……かわいそうですよね」
菊池はそんな母を「父のことが大好きだったんです」と述懐する。
「父が仕事から帰ってきた後、仲間と飲むために近所のスナックへ出かけるとき、母もよく一緒に行っていたんです。母は父のことが大好きで、自分のことを見てほしくてしょうがなくって、でも見てくれないから一生懸命お世話をして……母としては、父に入信してもらって、宗教が言う“理想の家庭”をつくりたかったんでしょうね」
しかし母は後に自宅で自殺。菊池が中学2年生のときだった。
エスカレートする父に「死んでくれないかな」
学校では仮面をかぶって明るく振る舞う“校内の3バカ”の1人だったという菊池だが、それは相手を気遣い、誰かに迷惑をかけてはいけない、という生き方をしていたからだった。
「母のお通夜のときに仲の良かった友達が来てくれて、さすがにそのときは泣いたんですが、翌日のお葬式のときには明るくしていたので、友達は『もう立ち直ったんだ、良かったね』とビックリしていましたね。
クラスのみんなは母が亡くなったことは知っているんですけど、本当のことは担任の先生だけが知っている状態で。だから私も腫れ物扱いされたくないから、明るく振る舞っていました」
母の死後、父は酒を飲むことをやめ、週末の麻雀もなくなり、早めに仕事を終えてスーパーで惣菜を買って帰宅する生活になった。それもつかの間、毎晩のように酒を飲んで帰ってくるようになる。
「麻雀は頭を使うから、飲みすぎたらできないんですけど、今度は飲むだけだから足腰が立たなくなるまでベロベロになって帰ってくるんです。ちゃんと家までは帰ってくるんですが、玄関のところでダーッと倒れ込んでしまうから、『スーツがシワになるでしょ』と言って起こそうとするんだけど、起きないので脱がせて、そのまま引きずってなんとかお布団へ入れる、というのを10代からずっとやっていました」
父の飲み方は年々ひどくなり、部屋や衣服を汚したり、吐いた後のトイレ掃除なども菊池と妹の仕事になった。そんな父に対して時折「死んでくれないかな」という気持ちも芽生えたという。
「帰ってきて玄関で倒れていても、無理にお布団に入れることをしなくなったり、真冬に暖房を消して放っておくとか……そんなこともしていました」
漫画家としてデビュー。体当たり取材が持ち味に
菊池は高校卒業後、進学や就職活動をせずにフリーターとして実家にとどまった。
「母が生きていたら、おそらく家を出ていたと思うし、大学にも行っていたかもしれませんね。でも将来の展望ゼロで、なりたいものもないし、勉強する気もないのに大学へ行くってどうなのかな、と思ったりして。本当に未来が真っ暗で、何も考えられなかったんです」
そんな生活が数年続いたころ、友人宅にあった雑誌をたまたま手に取ると、漫画賞の募集が目に入った。
「漫画はずっと趣味で描いていたので、『よし、ここで賞金手に入れるぞ!』と思って、初めて原稿用紙やGペンを買ってきて応募したら、賞に入ったんですよ。大賞ではなかったけど、ちょっとだけ賞金をもらって。
それからいくつか応募したら何回か賞を獲って、4回目に投稿したところでデビューすることになって。24歳のときでした。自分が漫画家になるなんて、まったく思っていませんでしたね」
編集者からの指示で少女漫画を描いていた菊池だったが、まったく芽が出ず、時折読み切りを描きながらアルバイトをする生活が続く。転機は27歳、担当編集者からの「ルポものを描いてみない?」という提案だった。
「それで『描きます、描きます!』って返事して。そこから取材をして描くことが始まりました。最初は浅草のホストクラブ体験記。でも今考えると、なんで歌舞伎町とかじゃなかったんだろう? 生まれた場所に呼ばれたんですかね(笑)」
それからは富士山麓の樹海で寝泊まりして自殺志願者を助けたり、断食修行で危うく死にかける体験をしたり、孤独死した人の家の特殊清掃員の経験を描いたりと、取材は過酷を極めるものばかりだった。
その取材へ同行していたのが、現在も菊池の担当編集者である文藝春秋社の菅原明子さんだ。
「当時は月に1回、一緒にいろいろな突撃取材を続けていました。そしてお互いにサブカル女子で、“だめんず”に引っかかるところも同じでした(笑)」
そして「20年ほど前、取材に来て、初対面とは思えないほど楽しくていろいろな話をした」というのが、今も友人として親しいドラァグクイーンでライター、脚本家として活躍するエスムラルダだ。
「できあがった漫画を見たとき『ここに注目するのか』『あの話とこの話をこうつなげるのか』と、その観察力、発想力、構成力がとても興味深かったですね」
エスムラルダは菊池について「聡明で、あらゆることを面白がり、興味を持ちながらも、自分自身も含めてすべてに対して懐疑的、分析的で、一定の距離感を保って眺めている」と感じ、自分と似たところがあるのではと勝手に思っていると笑う。菅原さんも菊池を「誠実な気遣いの人。自分が好きなこと、心地いいことをわかっている」と評する。
父の死─過去の傷と向き合って
漫画家として活躍していた菊池が40歳になったころ、父のがんが見つかった。
「ある日、突然父がお酒を飲めなくなったんです。それで病院へ行ったら、食道がんで喉がふさがっていて、食べ物や飲み物が入っていかない状態で。検査をしたら肺がんにもなっていて。普通はどっちが原発かわかるものらしいんですが、父が病院嫌いだったことで、どっちが先でどっちが転移先かもわからないぐらい進行していて、余命半年と宣告されたんです」
治療をしながら仕事を続ける父だったが、しばらくして出先から「片足が使えなくなって、車の運転ができなくなった」と助けを求める電話がかかってきた。なんとか駐車場に止めることができたというので、菊池はとにかく救急車を呼ぶように言い、その場所まで電車を乗り継いで出向き、車をピックアップしたという。その出来事以降、父は急速に弱っていった。
「家のことは妹がやってくれたのですが、私は自分の仕事と父の会社の手伝い、父の世話と病院への送迎をやらなくてはいけなくなって……もうメチャクチャな状態で、寝られなくて、『私がおまえのこと嫌いだってこと、わかってから死ね!』と父にひどいことを言ったり、当たったりしてしまいました」
きつい当たり方をした菊池だが、父がこれまで自分たち家族にしたことを謝ってほしかったのだという。それに対して父は「わかったよ」とだけ言ったすぐ後、がんが脳へ転移して言葉を発することができなくなってしまった。このことは菊池を苦しめた。
「10代半ばから25年ほど、父が病気になるまで酔った後の世話をして、病気になってからは下の世話までして。パジャマを着替えさせたりしているときに、『またやってるね、懐かしいね』とか言って……でもね、父は病気になってからお酒をやめたんです。だから『あんなにお酒飲んでたのは、何だったの? 飲まずにいられるじゃない』という虚しさがすごくあって」
治療を始めてから父の実家のある岩手や温泉旅行へ父、妹と3人で出かけ、会社も整理。父は余命半年を乗り越え、がんとわかった2年後の2015年に亡くなった。
父を見送り、肩の荷が下りたはずの菊池だったが、ひどい自己嫌悪に陥ってしまう。
「私がいい娘じゃなかったから父はあんな死に方したんだ、あんなこと言わなければよかった、という思いが強くて……ずっと泣いてるような状態で、めちゃくちゃつらかったですね」
しかし自分を責め続ける菊池に「お父さん、感謝してるんじゃない?」と声をかけてくれた友人がいたことで救われたという。
「私にはその発想がなくて、父が私に感謝することがあると思ってなかったから、そこで『そうだったらいいな』って思えたんです。たしかに何かをすると『ありがとな』とは言ってもらってましたから」
『酔うと化け物になる父がつらい』が反響を呼び
そんな折、菅原さんから「アルコール依存症外来を取材しませんか?」という話が来た。そこで菊池は衝撃的な事実と向き合うことになる。
「それまで私は本当に父が依存症だと思ってなかったし、父自身もそうだったんですけど、『やっぱり依存症じゃん!』と」
菊池にとってのアルコール依存症とは、毎日酒を飲む、手が震える、酒が切れるとすぐに買う、働けずに借金を抱えるといったイメージだったが、酒を飲むとしばしば記憶をなくす、人前で服を脱ぐ、泣いたり、怒ったり、暴れたりするといった酔い方も依存症であることを知り、「毎週末、記憶をなくしていた父もそうだったんだ」と気づいたという。
「家族の話はいずれ描きたいと思っていたんですが、それまで私は母のことをテーマにしようと思っていたんです。でもその取材の後、父がアルコール依存症だったことを菅原さんに話したら、『お父さんのことを漫画に描いてみたら?』と言われたんです」
このことがきっかけとなり、'17年、『酔うと化け物になる父がつらい』を出版、大きな反響を呼んだ。エスムラルダは「執筆時は菊池さんが何かすごい覚悟を持って、今までとは全然違うタイプのものを描いているというのが伝わってきたので、作品が大きな話題になり映画化までされたときは、自分のことのようにうれしかった」と話す。
菊池の漫画家人生にとって大きな転換点となった本作以降、毒親育ちの人たちの体験談をまとめた『毒親サバイバル』、常々感じている生きづらさを綴った『生きやすい』、依存症について取材をした『依存症ってなんですか?』など、現在も取り組んでいるテーマについて発信を続けてきた。
しかし'22年、インターネット上で連載していた宗教2世に関する漫画が突然公開中止となり、そのまま打ち切りとなる。原因は、ある新興宗教団体からの抗議だったという(連載は後に漫画『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』として別の出版社から発売された)。
「このときは連載打ち切りのトラブル、当時付き合っていたパートナーとの関係などにストレスを感じていて、いろんなことから離れたい、距離を置きたいと思ったのと、50歳を前に『残りの人生で身体が自由に動くのって、あと10年くらいかしら?』と思って。それで『この10年で、やりたいと思っていたことをやろう』と決めたんです」
菊池はその年の5月から半年間、長野県・蓼科にある賃貸の別荘を借りて生活した。
「もうめっちゃ楽しかった! ひとりになるってこんなにいいの!? 今の人間関係を離れて、ゼロからスタートの人間関係ってこんなに楽なのかと思いました(笑)。このときに出会った人には今でもしょっちゅう会いに行っているんです」
自然の中で暮らし、山登りや水辺へ出かけることで、菊池の精神は落ち着きを取り戻した。これがきっかけとなり、煮詰まるとひとりで旅に出かけるようになる。この心境の変化は漫画『壊れる前に旅に出た』とエッセイ『アラフィフひとり おためし山暮らし』としてまとめられたが、編集を担当した菅原さんは「突撃レポ漫画から社会派作家になって良かったこともたくさんあるけれど、苦しい場面も多いんじゃないかと思っていて。だから穏やかな時間を過ごしている描写を見て、ホッとしました」と語る。
菊池は別荘暮らしのときにした川遊びが、今も忘れられないという。
「それまではひとりぼっちにならないと安心できないタイプだった私は、いつも暗い過去や、この先どうなるんだろうということばかり考えていたんですが、別荘暮らしで知り合った人たちと川遊びをしたときは完全に現在だけ、本当にただ目の前の楽しいことだけを考えていたんですよね。
だって一緒にいた大学生の女の子が『飛び込め!』と言われて『はい!』って、服を着たままぴょんと川へ飛び込んじゃったんですよ!(笑) この後濡れた服をどうしようとか、そういうことを一切考えずにね。もう理由とかはなくて、私の認識がパーン!と変わる感じでした。
川で一緒に遊んだ人たちは私の持ってないすべてを持っていて、そんな人たちと一緒にいることを心から『この場所にいられてよかったな』と思えたんです。子どものころから他者というのは加害をしてくる存在という認識で、家の中も安全な場所じゃなかった。大人になってからいい人たちと出会って、加害する人ばかりじゃないことはわかったけど、心のどこかで疑っていて、防犯ベルは持ち歩いている、という私の心のあり方を変えてくれた出来事でした」
菊池の中でフェーズが変わった瞬間だった。そのことで、これまで心の中で厳重に蓋をして思い出さないようにしていた過去の“あること”を話せるようになったという。それは、19歳のときに遭ったレイプ被害だった。
問題を抱える多くの人に「一緒に考える人でいたい」
「被害の後、自分に何が起きたのか直視することができなくて……。『なんで家を出なかったの?』と聞かれるんですけど、考えられる状態じゃなかったんですよね。父にも話せないし、生活を変えようとか、そんな力もなくて。それで私は抜け殻になってうつになるのではなく、変に行動的になっていったんです。めちゃくちゃ遊んだんですよ。
はたから見たらすごく元気に見えたでしょうね。後になってそれは『トラウマの再演』というもので、自分が受けた被害は大したことじゃない、と思うための行動だったんだということがわかったんですが、当時はそんなこともわからなくて」
自身のレイプ被害について、そして性加害の問題に向き合った漫画『不同意性交』は昨年、インターネット上で連載され今年、書籍として出版される予定だ。
映画化された『酔うと化け物になる父がつらい』を見ると、菊池は主人公がうらやましくて泣いてしまうという。
「私は『父に謝ってもらえないで終わっている』という思いがあるから、謝ってもらえた主人公を見るたびにうらやましくって。映画化されるときに『漫画にしていないことで、どういうことがありましたか? お父さんに何をしてほしかったですか?』と聞かれたんですが、そのときに『謝ってほしいですかね』と言ったんです。そのことを映画のストーリーに入れてくれたんですね」
メンタルが落ち着いた菊池は最近、父と母の抱えていた苦労や悩みについて考えることがあるという。
「父はサラリーマンのときに“東の菊池”と呼ばれるほど優秀な社員だったそうなんですが、働きながら行っていた夜間大学を中退したので、ボーナスが大卒よりも少なかったことに腹を立てて、お金の入っていた封筒を床に叩きつけたことがあったそうなんです。それは父の死後に同僚だった方に聞いたんですが、そんなこともあって独立したのかなと。
でも独立してすぐに詐欺まがいのことに遭って借金を抱えて、家族に取り立てが来ないように書類上で離婚することも考えていたそうなんです。母の死後は男手ひとつで私たち姉妹のことを育ててくれたし、父なりに家族のことを考えていたのかなと。母も父のことが好きで、でも尽くしても振り向いてくれない。そして一生懸命に宗教を信じていたけれど、人生や家族とうまくいかないことに悩んでいたんですよね。そんな両親にも幸せなときがあったはずだし、彼らも人間として生きていたということなんだろうなぁと思えるようになりました」
時がたち、振り返れば気づけることも、問題の渦中にいるとわからないものだ。問題を抱えた家庭内が高ストレスのかかった圧力鍋の中のような状態の一方、外からは中の危険な状況は見えづらい。だからこそ菊池は当事者と向き合い、ひとりでは声を上げられない人たちの経験を描くことで、
「一緒に考える人でいたい」
と言う。
「私が漫画を描いたことで、自分と同じような思いをした人がいっぱいいることがわかったので、今後も取り組みたいのは、やっぱり家族関係の問題を抱える人たちのことですね。それはずっと描いていきたいなと思っています」
菊池はこれからも悩む人の心に寄り添う作品を、世に問うていくことだろう。
<取材・文/成田 全>

