『ザ・ベストテン』や『ニュースステーション』といった伝説的な番組で活躍したアナウンサーがこの世を去った。軽快かつ芯を捉えた語り口で視聴者を夢中にさせたが最後まで守り抜いた恩師の教えがあって―。
“視聴率90%男”と呼ばれた時期も
1月13日、久米宏さんが肺がんにより81歳で死去したことが所属事務所の公式サイトで発表された。妻で専属スタイリストを務めていた麗子さんも、
《自由な表現者として駆け抜けた日々に悔いはなかったと思います。常に新しいことに挑み、純粋な心で世の中の疑問を見つめる人でした》
と、先立った夫を偲ぶコメントを発表した。
「年明けの元日に亡くなられたそうです。'21年に久米さんは自身のYouTubeチャンネルを突然“ヨットで旅をする”と宣言して更新を中断。表立った仕事を避けるようになりました。報道によれば、'21年の春ごろには体調を崩していたようですから、このころから治療に専念していたのでしょう」(ワイドショースタッフ、以下同)
'67年にアナウンサーとしてTBSに入社した久米さん。'75年にスタートしたクイズ番組『ぴったし カン・カン』で全国的な知名度を獲得し、'78年からは黒柳徹子と『ザ・ベストテン』の司会に抜擢されるなど、伝説的な人気番組を次々と任されるようになった。
「当時のアナウンサーには、今よりも原稿を聞き取りやすく正確に読むことが強く求められていました。しかし久米さんは、親しみやすい軽快なトークでお茶の間にも人気のアナウンサーに。彼が司会を務める番組の高視聴率を合算して“視聴率90%男”と呼ばれた時期もありました」
'79年にTBSを退社後は、他局に出演するなど活動の幅を広げる。'85年にはテレビ朝日系で久米さんの持ち味が遺憾なく発揮された報道番組『ニュースステーション』がスタートした。
「番組のコンセプトは“中学生でもわかるニュース”でした。それまでのニュース番組は、その日の出来事を原稿に沿って読み上げるのが中心。キャスター自身の見解を述べることはあまり必要とされていなかったのですが、『ニュースステーション』での久米さんは自身の意見を積極的に述べ、視聴者の疑問を置き去りにしないという姿勢を徹底しました」(テレビ局関係者、以下同)
『ニュースステーション』は、以降の報道番組のスタンダードとなった。
「そういった新しいことができたのは久米さんのアドリブ力、ニュースを“人がわかる言葉”に翻訳する力、権力や世間の風潮に遠慮せず疑問を投げかける胆力があったからです。予定調和を嫌い、スタジオの空気ごと動かしてしまうのが久米さんでした」
テレビやラジオの優れた番組や制作者を表彰する「ギャラクシー賞」の運営に関わっている関係者が週刊女性に明かすには、
「'18年には久米さんが授賞式の司会を務めたのですが、脱線トークが多く、歴代もっとも進行が遅れてしまって。久米さんに、そのことを伝えたら“いいんだよ! 遅れたって”と開き直られてしまいました(苦笑)。
久米さんのことを知的な司会者というイメージを抱いている人も多いかと思いますが、内面を引き出すためにインタビュー相手を怒らせることも厭わない破天荒なところもありました」
演劇プロデューサーになることが夢だった
実際、型破りなアナウンサー人生だった。
「久米さんは早稲田大学に進学し、演劇サークルに所属。当時は自身の劇団をつくって演劇プロデューサーになることが夢だったそうです。TBSに入社直後、あがり症で体調を崩したり、番組を任されてもすぐ降板したり。業界では“番組つぶし”と揶揄されていた時期もあったといわれています」(ラジオ局関係者、以下同)
日の目を見ない時期を過ごしていた久米さんに、転機が訪れたのは'70年。『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』のレギュラーに抜擢されたことだった。
「永さんは放送作家としては'61年に始まったNHKの音楽バラエティー番組『夢であいましょう』、作詞家としては坂本九さんの『上を向いて歩こう』を手がけて、当時の放送界で重鎮といわれた存在。『土曜ワイドラジオTOKYO』での久米さんは、街頭リポーターとしてスタジオにいる永さんに現場の中継をすることでした」
当然、メディアの第一線に立つ永さんが、普通のリポートを面白がるはずもなく、次第に久米さんの持ち前のエンタメ精神に火がつき……。
「横断歩道や歩道橋といった無機物を中継してみせるコントじみたものや、自衛隊駐屯地に潜入してリポートしようとしたりと、かなりむちゃな取材を敢行。そうした場数を踏んだおかげで度胸やアドリブ力が鍛えられたといわれています」
永さんの娘である永麻理さんは、2人の関係について『週刊女性』にこう語ってくれた。
「共通していたのは、恥ずかしがり屋なところ。『土曜ワイドラジオTOKYO』の後に何度も共演していますが、久米さんは父のことを面と向かって恩人などと称えたりせず。父も久米さんが人気アナウンサーになっても褒めることもなく。
いつだったか定かではありませんが、父が久米さんに対して“放送”という言葉をひっくり返すと“送りっ放し”になることから“君の番組は送りっ放しになっていないか”と、チクリと言ったこともあったとか」
2人は表立って打ち解けることなく、'16年に永さんは肺炎で死去。その葬儀で久米さんは別れの言葉を述べることになったが─。
闘病中にもかかわらず、わざわざ手紙で返信
「久米さんは“永さんの具合が悪いのは知っていたが、あの目で睨まれると怖いのでお見舞いに行きませんでした”とスピーチしたんです。でも、最後は震えた声で“ありがとうございました”と深いお辞儀をされました。言葉の裏にある、久米さんの父に対する想いの深さを感じました」(麻理さん、以下同)
以降、麻理さんは久米さんと会うことはなかったが、縁は続いた。
「私の息子である岡﨑育之介は、役者の傍ら映画監督をしているんです。'24年に研ナオコさんが主演した『うぉっしゅ』という映画が完成して、息子は久米さんを試写会に招待しました。そうしたら久米さんから“試写会は行く予定にしていたが、入院してしまったため、次回作はぜひ”と、手紙が届いたそうです」
麻理さんの知る限り、久米さんはまめに手紙を出すタイプの人ではなかった。
「父は筆まめで、リスナーから届いたハガキに直筆で返信していました。私の想像でしかありませんが、父の孫宛てだから久米さんは闘病中にもかかわらず、わざわざ手紙で返してくれたのかなと思いました。
今では確かめようもありませんが、もし久米さんに“放送人の矜持”として父の考えが宿っていたのだとしたら、娘として光栄としか言いようがありません」
久米さんが届けた言葉は、これからも響き続ける。
