河合雪之丞さん 撮影/齋藤周造

二代目市川猿翁のもと、「二代目市川春猿」として歌舞伎の舞台を踏む。現在は新派を中心に活躍している女方役者は、映画『国宝』の主人公さながらの人生を背負っていた─。衝撃の近著『血と芸』では語りきれなかった思いも聞いた。

喜久雄君の実家みたいじゃない?(笑)」

 唯一無二の存在感と、心を揺さぶる演技力で観客を惹きつけてやまない新派の女方・河合雪之丞さん。社会現象ともいえる大ヒット中の映画『国宝』の主人公・喜久雄はヤクザの息子だが、なんと雪之丞さんにも「任侠」の血が流れているとか。

 背中に入れ墨を背負いながら「血」がものを言う歌舞伎界で地位を得て、人間国宝にまで上り詰めた喜久雄。雪之丞さんも一般家庭に生まれ、歌舞伎への憧れから三代目市川猿之助(二代目猿翁)に入門、「二代目市川春猿」の名で活躍した。

映画『国宝』は、私が約30年を過ごした歌舞伎の世界がとても繊細に描かれていましたね。役者の私に大きな影響を与えた祖母は、実はいわゆる任侠の家に育った明治の女だったんです。男物の渋い紬の着物をさらりと着て、真っ赤な帯締めをきりりと締めるような、粋でエレガントな女性でした」(雪之丞さん、以下同)

 雪之丞さんが語る任侠の家とは、「仁義を重んじる家業」のこと。祖母の父親である曽祖父は、京都で大きな建設会社を創設した人物だった。

五条大橋の架け替えをしたり、京都競馬場を造ったりと大きな仕事をしていたそうです。正確に言うとヤクザではない。でも、祖母の幼少期、家の庭にドラム缶が山のようにあって、トタンの蓋がかぶせてある。あるとき開けてみたら、なんとドスが山のように入ってたっていうんだから、なんだか喜久雄君の実家みたいじゃない?(笑)

 でも、私の両親はいたって普通の家庭を築いていました。父はNHKの美術スタッフで、後に家で絵を描いていましたし、母は大学職員でしたから。私は一緒に住んでいた祖母にせがんで、大好きな歌舞伎をしょっちゅう見に行くような子どもでしたね」

「リアル喜久雄」ともいえそうな雪之丞さんだが、映画『国宝』のテーマのひとつ、「血か才能か」に関してはどのような思いがあるのだろうか。

「この映画が感動を与えるのは、名門の家に生まれた御曹司も、後ろ盾がない役者も、それぞれが背負っている宿命や責任、悩みがあることを丁寧に描いたからでしょう。私は師匠(三代目猿之助)に憧れて、師匠のもとで歌舞伎をしたいという夢を叶えるために養成所に行きました。

 そのとき、まさか自分が師匠の相手役をするとか、歌舞伎座で主役をやるなんてことは夢見ることもなかったですね。なぜなら養成所は、暗黙の了解で名題下(主役以外)を育てる場所だからです

 名題下は、普通は立ち回りや腰元の役でセリフがないのは当たり前。数年してようやく二言、三言セリフが言えるようになって、名前のつく役がもらえる。

どちらの立場にも苦しみや葛藤がある

あくまで御曹司の演じる主役に花を添え、際立たせるのが仕事。だから彼らにとってセリフが一言削られたとか、出番が同期より多いとか少ないとかがいちばんの悩みの種ですね

2013年4月、金丸座『京人形』娘おみつ実は井筒姫

 一方で、血筋のある御曹司たちの苦悩にも心を寄せる。

望んでそういう家に生まれてきたわけでもないのに、3、4歳で歌舞伎役者になるかの決断を迫られる。先祖の名前に傷をつけてはダメだし、子どものころから稽古をして名前にふさわしい芸を身につけ、重い責任を負わなくてはならない。どちらの立場にも苦しみや葛藤があって、皆がそれを背負いながら歌舞伎という世界が成り立っているんです

 『国宝』を冷静に分析しつつ、「内」にいた人間だからこそわかるこんな指摘も。

本当によくできた映画だけど、少しだけ言わせてもらうなら(笑)、喜久雄君が中村鴈治郎さん演じる吾妻千五郎さんに『○○屋のおじさん』と呼びかけるでしょう。弟子筋はああいう呼び方はしません。

 あとね、『二人道成寺』まで踊った御曹司が、歌舞伎をやめて地方の芝居小屋を回るとかもないでしょ、って思います。でもエンタメとしての演出だと楽しんで見ました」

 雪之丞さん自身も師匠に入門し、のちに部屋子となり、異例の抜擢を経て、主役の座も射止めている。原作の小説では、喜久雄は紆余曲折を経て新派に移るが、そういった点も似た境遇だ。

たしかに任侠の血が流れているとか、大部屋から部屋子になり次第に抜擢されて主役にとか、共通してる部分は多いなと思いますね。でも私は師匠との出会いがあって、師匠が私を抜擢してくれたということに尽きるんです。これは例外中の例外といえるでしょう

 現在は新派を拠点として活躍する雪之丞さんだが、歌舞伎の舞台と完全に離れたわけではない。最近も人気ゲームを原案とした新作歌舞伎『歌舞伎 刀剣乱舞』で、艶やかな立ち居振る舞いを披露した。

私は師匠の後押しもあって、歌舞伎から新派に移籍しました。歌舞伎が『国宝』効果で人気が出ているようだから、新派も見ていただきたいですね

 歌舞伎・新派という垣根を飛び越えて、若い役者との交流もあると聞く。お酒を飲みながら、彼らと語り合い、時には悩みや愚痴を聞くこともある。

新派の舞台の美も伝えていきたい

若手の歌舞伎役者たちとも仲良くしているんだけれども、息子のような世代の子たちは可愛くてね。御曹司や大部屋の子たちともよく話しますよ。私は大部屋も主役も経験し、両方の気持ちがわかるからこそアドバイスできることがあると思っています

 吸い込まれるような瞳で、ちゃめっけたっぷりに語る雪之丞さんだが、縦横無尽に演劇界で活躍する彼を深く知ることのできる一冊が、2025年11月に発売された『血と芸 非世襲・女方役者の覚悟』(かざひの文庫)だ。

 映画『国宝』の大ヒットによって多くの人が歌舞伎や伝統芸能に目を向けるようになった今、どんな気持ちで同書を記したのだろうか。

「ぜひ、ノンフィクションの『国宝』と思って読んでみてください(笑)。忖度なしに書いたつもりです。歌舞伎の御曹司たちの彼らなりの苦労や、大部屋の役者たちがいるからこそ、歌舞伎の舞台が輝くこともわかるでしょう。

 『御曹司VS大部屋俳優』の単純な格差社会の図式じゃなくて、もっと深いところを伝えたいと思いました。友人の歌舞伎役者からは『ずいぶんギリギリまで攻めてて、なかなかいいじゃない!』って言われましたね(笑)。これを読んで、歌舞伎や新派、そのほかの日本の伝統芸能の舞台にも、若い人たちに足を運んでいただきたいですね

 歌舞伎を「旧派」として明治時代に生まれたのが、雪之丞さんが現在籍を置く「新派」という演劇だ。それでもすでに130年以上の歴史がある。最後にその見どころや今後の展望なども聞いてみた。

「新派の芝居は、表現を削った先にある大切なものを見せていくもの。歌舞伎の間や所作を理解していないとできない演技です。できるけれどやらないって、とってもおしゃれでしょう?

 また、日本語の美しさも堪能できます。『風もないのに 騒々しい 咲いた桜が怯えるわねえ』って、泉鏡花(が原作)のセリフなんだけど、グッときますよね。今後は、そんな新派の作品の素晴らしさを伝えつつ、『女方新派』をもっと復活させたいと考えています。朗読も好きなジャンルですね。好き嫌いをせず、いろいろ挑戦していきたいと思っています

『血と芸 非世襲・女方役者の覚悟』(かざひの文庫 税込み1870円)映画『国宝』の主人公さながら! 希代の女方役者の半生記

取材・文/三尋木志保

かわい・ゆきのじょう 1970年、東京都生まれ。'88年、国立劇場歌舞伎俳優研修を修了し、三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)に入門、二代目市川春猿を名乗る。'94年に三代目市川猿之助(二代目猿翁)の部屋子となり、2000年、スーパー歌舞伎『新・三国志』の彩霞役で名題昇進。'07年、第28回松尾芸能賞新人賞を受賞。'17年、劇団新派へ移籍、「河合雪之丞」に改名(屋号は白兎屋)。古典・新作歌舞伎から新派と、幅広い芸域を誇る希代の女方。