「今日はせっかくなので、東京少年のころに雰囲気を寄せてみました」
笹野みちるは現れて開口一番、屈託ない笑顔で中折れ帽を指さして話した。そこには
'80年代の音楽シーンを駆け抜けた「東京少年」のボーカリストの面影そのままで、懐かしさが込み上げる。
ファンを夢中にさせた笹野みちるのルックス
笹野のルックスは、当時のファンを夢中にさせたファクターのひとつでもあった。
「えー!? いやいや(笑)。いろんな有名カメラマンさんに撮っていただきましたが、篠山紀信さんはどうにか私を脱がそうみたいな感じがありありでしたね(笑)」
と、苦笑いする。
当時、新進気鋭だった映画監督の岩井俊二がすべてのプロモーションビデオを撮影したが、彼の得意とする少女性を押し出すコンセプトに対しても、これは自分ではないという気持ちを抱いていた。
バンドメンバーにはそれらがどう映っていたのか。
「私のためにオーディションで集められたメンバーなので、私とはすごくドライな関係でしたね。『俺たちは笹野のバックバンドだから』というスタンスで、私だけがクローズアップされることに無関心でした」
意外な答えを返した笹野に生い立ちから改めて聞くと、さらに深い話が繰り広げられ、圧倒された─。
母に押しつけられる「矛盾」に葛藤
「両親は共に教師で、ふたりが京都に住んでいるときに私が生まれました。父は同志社香里高等学校の数学教師で、母は同志社大学大学院で法学を修め、いくつかの短大などで憲法学を教えていたようです。あの時代においてすごくリベラルな考えを持つ人でした」
母である笹野貞子は、憲法学者として活躍。夫婦別姓制度導入をいち早く主張していた。
与野党が逆転した1989年に「連合の会」からの強い要請で立候補。トップ当選して参議院議員に。女性議員を増やす活動にも尽力し、2001年まで任期を務めた。
「母が出馬したときは、ちょうどマドンナ議員旋風のころ。テレビのワイドショーにコメンテーターとして出演していたんですが、視聴者の嫁姑問題の相談とかに言いたい放題で、人気だったようですね。リベラルの塊みたいな人で、NHKの朝ドラ『虎に翼』の世界そのまま。だからこそ、あの時代に女性として上り詰められたんだと思います」
リベラルな憲法学者とロックバンドのボーカリストという、社会に一石を投じる者同士として意見交換などはあったのだろうか。
「子どものころからいろいろ押しつけられてきて、ずっと距離を置いてきました。学生時代はとにかく一日も早く家から出たいとしか考えていなかったですね。ただ、母は議員になることは最初考えていなくて、私に相談してきたんです。テレビ出演の影響で関西では主婦層から絶大な人気があったので、そこに目をつけられたんでしょうね。
それで、『普段から女性の地位向上とかいろいろな発言して、力が欲しいと言ってるんだから、国会議員になるのがいちばん早いでしょ』と言ったら、納得していました(笑)。私が後押ししたようなものです」
と、母とのエピソードをあっけらかんと笑い話にして語るが、ふたりの間には長年にわたる大きな溝があった。
「母が教師として見せる、正論を述べる表の顔と、家庭で私に向ける裏の顔の違い。その矛盾にすごく腹が立って。いくら私が正論を話したところで、即座に言葉を返される。ましてや、子どもの私に痛いところを突かれるから、さらにケンカになる。
ただ、母が公に発言しているリベラルな考えや行いは間違っていないと思う。女性の地位向上や男女差別問題、LGBTQ+などの問題解決は絶対に必要。だけど、母は正論を話していても人として何か欠けているものがあるし、絶対的な権威主義を押しつけてくる。親を否定したくないけど、人は自由であるべきだと主張しているのに、わが子を屈服させようとする矛盾に、ずっとモヤモヤしたものを抱えていました」
親のエゴとも取られるような押しつけに悩まされた日々。そんな思春期を、彼女は両親が関わってきた同志社で過ごした。
「女子中学から大学までエスカレーターでした。母が外で発言してきたリベラルな思想には憧れがあり、同志社はその風潮が強かった。親が行っているからではなく、自分で選んだ気持ちが強いですね。母が私にしていることはどうあれ、人は自由であるべきで、その理想は追いかけるべき。だけど、絶対に母みたいな大人にはなりたくないと、常に思っていました」
リベラルな考えを理解することができる前の幼少期には、どのような教育を受けていたのか。
「3歳から、ピアノとバイオリンを強制的に習わされていました。それは何かお稽古事をさせるのがいわゆる“1億総中流”と呼ばれた時代として当たり前の風潮だったし、母は今で言う『意識高い系』で、教養にうるさかったので。ピアノもスパルタでしたが、バイオリンはとにかく嫌で。捨ててしまいたいと何度も思いましたが、楽器に罪はないし」
この葛藤や突き抜けられない自分に対する歯がゆさが、のちにデビューする「東京少年」の歌詞やボーカルに強く表れているのだろう。
「母には“愛”という言葉で置き換えたい、温かさみたいなものがなかったんです。親子のコミュニケーションや一般的な愛情がなかった。子どもの私には、もう虐待やなと思えて。言っても無理と思って諦めて、自分の中でまたたまっちゃって。それが東京少年という形になりました」
ロックに目覚め、中学でバンド結成
クラシックばかり聴かされてきたが、中学のときに初めてビートルズを聴いて衝撃を受け、ロックの洗礼を浴びた彼女は即座にバンドを結成する。
「あのころはMTVが流行り出して、パンクやニューウエーブが台頭し、ポリスやU2にハマっていました。お金持ちの子が多い女子校だったので、だいたいの子がピアノを習っていました。それに簡単に楽器を買ってもらえる家庭ばかりなので、バンドをやろうよと誘うと、やろうやろうっていう感じでしたね。お嬢様といっても、バンカラな子が多い校風でした」
中学生でロックバンド結成という早熟さ。ほかの世間的な流行りとかに興味はなかったのか。
「バブル全盛期だったので、周りの子たちはブランド物に興味を持ち始めていましたが、私は軽薄な感じがして興味がなかったです。それで同級生と中3のときにバンドを組んだのですが、男性ボーカルの曲ばかり歌っていました。男性ボーカルのハイトーンが私の声域に合っていたし」
笹野はそのまま高校、大学と、ライブハウスや学園祭などのステージをこなし、大学在学中に軽音楽サークルの先輩と組んだ「東京少年」が京都のビクターの社員の目に留まったものの、東京少年のバンド名義で笹野のソロプロジェクトとして動き出す。
バンドにこだわる笹野と話し合いの末、笹野が上京して所属事務所の主導で新たにオーディションを行い、新メンバーによるバンドデビューとなった。
「私の好きなブリティッシュロックなどの音楽性を、バンドメンバーも気に入っていて、この音楽性でいこう、という共通認識で活動しました。でも売れない状況が続き、もっとポップにしようと方向転換。私もギターが弾けないし、面構えが不良なわけでもない。でもちょっと化けさせたら可愛いかもね、みたいな話になったんじゃないかな?
デビューして2枚目のアルバムあたりからバブル時代ということもあってタイアップがついたりして、忙しくなってきたんですが、やりたい方向ではないし、辞めたいなという気持ちが芽生えていたかな。それで、解散の1年前に辞めることを告げました」
人気アニメ『らんま1/2』主題歌の『プレゼント』をはじめ、今でも配信やカラオケで愛されている曲がタイアップでたくさん知られるようになった。
また、バンドブームがピークのころで、レベッカや同期デビューのリンドバーグなど、女性ボーカルと男性ミュージシャンのバンドスタイルもブームとなり、日本中の高校生や大学生が、同じ編成でバンドを組むようになった。
その中でも東京少年はヒットに恵まれないながらも知名度が高く、コアなファンが多かった。大きなホールツアーでないことからチケット争奪戦になるほどだった。そんな、これからというタイミングで解散を決めてからは、やけくそで突っ走ったという。
「最後の1年間は、ゴールが見えたから頑張れた。解散のタイミングもバンドのピークだったから話題になったし、ベストアルバムも売れました。でも私はもう自分の中でバランスが取れなくなって、精神的に限界だったから辞めるしかなかった。
それでも、解散を決めてからのレコーディングは、ものすごく熱かった。彼らの中のプロとしての思いがすごくあって。そのドラマの中にいて、やっぱりこのバンドはすごい!と思いました」
最後にバンドの団結力を感じた笹野だったが、実はメンバーたちが彼女と距離を置いていたことに理由があったことを、解散後数年たってから知ることになる。
「メンバーは全員、絵に描いたようなズブズブの乱れたロックミュージシャンの生き方をしていて、私は絶対にあの中に引きずり込まれないようにしようと思っていたので、お互いに境界線を引いていました。
解散後に再会して言われたのが、私がこっち側に踏み込んでこなくてよかったと。もし踏み込んでいたら一緒に破綻していたって。当時は彼らと隔たりを感じていましたが、そういう認識があったんですね。それがわからなかったから、解散を申し出たときに、『なんでだよ。ここまで一生懸命やってきたのに』と言われました」
肉体的にも精神的にも破綻に向かうような生活を続けていたメンバーがひとりずつ病気で亡くなっていき、その都度、残ったメンバーと会うことに。
「解散してからは交流とか連絡とか、ほぼなかったですね。だけど、コメちゃん(ベースの中村英夫さん)が亡くなったときにみんなで追悼ライブをやったり、カフェライブとか何かしら一緒にやる機会がありました。でも、みんないなくなりました。まだそんな年齢じゃないのにね。あのバブルの時代に、よくも悪くもエネルギーを投入し尽くした結果なんですね」
同性への気持ちは「深くつながっている感覚」
'91年に3年間走り抜けたバンドの終焉を迎えた笹野は、休学中だった大学をきちんと卒業したいという思いから、学業に専念。約2年間、音楽活動を停止したのちにソロデビュー。'95年、自伝『Coming OUT!』を発売し、同書の中で同性愛者であることをカミングアウト。大きな話題となった。
同年、ソロアルバムを発売するも、心身の不調により、京都で生活することに。地元でアマチュア時代からの友人らと「京都町内会バンド」を結成し、音楽活動をマイペースに再開した。
まだLGBTQ+という言葉もなく、社会が今のように理解のある時代ではない。世間の好奇な目に晒されて心身が弱ってしまったのかと思いきや、そうではなかった。
「バッシングどころか、ものすごく応援されていました。頑張ってとか、私も誰にも言えず悩んでいましたとか、そういうお便りばかり届いて。事務所も一切隠し事をしないから、届いたファンレターを全部見せてもらいましたが、誹謗中傷はまったくなかったです」
自身の中で、同性に対する気持ちが芽生えたことに気づいたのはいつごろだったのだろうか。
「小学生のころは、恋愛自体がまだ理解できていないから、女子中学校に進学したのが大きかったかも。同志社は、育ちのいいお嬢様ばかりで、性的に好きというよりも、“この人は〇〇がうまくて素敵だな”とか、個性や精神性に惹かれていました。
共学だと恋愛の話題ばかりになりがちですが、女子校だから男子の目を気にせず、自分のことを考える時間が多かった。みんな自分の将来に対してどうすればその夢を叶えられるかとか、恵まれた悩みがあります。そういう話題になると、深い話になっていく。会話が恋愛相談じゃないから、人間的な深さをそこで学んで、本当に信じられる友達ができました」
もしも共学に進んでいたら、また違った人生になっていたのだろうか。それとも、また自分と環境の違いに悩むことになっただろうか。
「どうでしょうね。共学だと男女の恋愛がメインテーマになるから、居心地が悪かったかも、自分には親とのコミュニケーションが欠けていたから、本物の友情や親密さとかが必要だったので。女子校でそれに出合えたことが大きくて。ようやく居場所ができたんです。だからあの学校でよかった」
中3のときに笹野をバンドに誘い、音楽人生のきっかけをつくってくれたMさんが当時を語った。
「彼女とは中3のときの同級生で、おとなしめの別嬪さんでした。声が印象的だったのでバンドに誘ったんですが、熱血で厳しく、いつも放課後にビシビシしごかれました(笑)。バンドメンバーの中で一番人気。彼女の目指す理想は高く、いつも思い悩みながら最後までベストを尽くしていました」
疎遠だった元メンバーが余命宣告を
'03年、笹野は再上京して、吉祥寺に居を構えた。その土地がとても自分にフィットし、今でもこの界隈で暮らしている。
中村さんに続いて、キーボードの水上聡さんも亡くなり、バンドメンバーとして最後に残ったギターの手代木克仁さんとは、'24年に「西東京少年」名義で事実上の再結成を果たした。そのきっかけは、手代木さんまでもが末期がんの余命宣告を受けたからだった。
「西東京少年は、彼が死を前にしたときのめちゃくちゃ初期衝動によるものでした。『俺、死ぬかも』って言われて。死ぬからやろうっていう人間の初期衝動を大事にしなくて、何を大事にするっていう。メンバーがひとり、ふたりと亡くなって、もうあのころに戻れないとか、やっと楽になれてよかったねとか、いろんな気持ちがありました」
再結成にあたって、亡くなったメンバーたちの代わりに旧知の仲間が加わった。東京少年のプロデューサーを務めたホッピー神山(元PINK)は、プロデュースとキーボードを引き受けた。
「カミングアウトは、笹野自身が自分から率先して行動を取ったもの。そういう部分が彼女の等身大なので、重要な部分ではあるんです。世の中から色眼鏡で見られないためにも、強い意志でそのような人間像を取り上げなければいけませんし、私が笹野のカミングアウトのときのアルバムプロデュースを引き受けて、世の中に問う作品づくりをしたのも、いろいろな人種や考えがある中で、当たり前の人間像を映し出したかっただけ。
私が笹野をデビュー時から彼女のパーソナリティーを理解して、音楽的な部分だけではない、笹野自身の人間像をわかりやすく世の中に伝えていこうとしたのは、音楽だけでは語れないと判断しての仕事だったわけです。
私は、よくあるサウンドだけプロデュースする仕事人ではなく、パーソナリティーも十分に音と一緒にリスナーに伝えることによって、音楽というより人としての世界観を音に包んでリスナーに投げていくやり方ですので、やはり自分が笹野のプロデュースを多岐にわたってしたというのは、音楽だけでは語れないところなのです」(ホッピー神山)
再びタッグを組んだ笹野と手代木さんは、バンド活動時は関係が冷めていたので、「あのころにもっと話をいっぱいしておけばよかったな」と話していたという。
そんな手代木さんも、'24年11月に西東京少年最後のライブを行った同月に亡くなった。亡くなる2週間前のお見舞いでは、点滴を打ちながらも穏やかに笑って一緒に過ごせたという。現役時代になかった時間を持つことができたと、笹野は慈しんだ。
「メンバーと初めてつくったセカンドアルバムのタイトルにありますが、“原っぱの真ん中で”向き合って、もう一度彼らとやりたかった」
前出の岩井監督が映像監修した、西東京少年最後のライブ音源と映像作品『西東京少年 Live in 吉祥寺(Limited Edition)』は、クラウドファンディングによって制作された。この作品には、笹野と手代木さんがファンに寄せたメッセージ動画も収めている。
「もうロックバンドを組むことはないけど、東京少年の曲はソロの弾き語りでもやっていきます。ギターは下手なので、最近、一般向けのギター教室に通って練習しています(笑)。
あとは、京都町内会バンドが来年で結成30周年。自分がつらかったときの拠りどころだったので、彼らとは、何かやりたいなと思っています。そこでも一緒にやっているベーシストの有田さとことは『ミチルンサトコ』というユニットも組んでいて、結成21年で昨年初めてアルバムを発売したので、こちらもいろいろやっていきたい。なんか、いろんな節目がいっぺんにやってきて。これって運命なんでしょうね」
初の正社員生活を介護施設でスタート
そんな音楽活動の大きな区切りを迎えた笹野は今、介護士として福祉に従事しており、二足のわらじ生活を続けている。
「東京少年のころから、社会福祉には興味がありました。絶対に必要とされる職業だし、幼いときからずっと、勉強ができればそれでいいというだけの教育で育ってきたから。それでバンド時代の貯金ももうなくなってきてどうしようっていうときに、よくライブに来てくれていた方がグループホームを立ち上げるからちょっとバイトしないかって誘ってくれたんですね。
最初に夜勤を一日体験したんですけど。本当に望んでいたものだと感じました。人との湿度と温度にホッとして。今までこういうことに触れてこなかったなーって」
福祉の世界との出会いのなかで、これから身を投じていこうと決意させる大きな体験があった。
「ホームから施設に通うための送迎車が来るので、車椅子の入居者の方をバス停まで送っていくんですね。建物からは300メートルくらいあるんですけど、ある日、送っていくときに、朝日がバーッて差してきて、その方のうなじに朝日が当たって、照らしたんですね。その情景にめちゃくちゃ感動して。
なんていうか、命が本当に祝福されている瞬間だと感じて。そのとき、心からこの仕事をしたい!と思いました。その女性は言葉を話せないし麻痺もあって自由に動けないんですが、素直な喜びと悲しみっていうものがその人の中から出ていて。
それ以降、出勤を増やして週に2回通うようになり、保育士の免許を取りたいと思って通信教育を受けました。1回落ちて2年目で合格。保育所でも週3日くらいで働いて、グループホームとダブルワークのバイトを3年ぐらい続けました。それでそこの所長さんとのご縁で、今は都内の生活介護施設で働いています。思えば、40代で初の正社員生活ですね」
と、実に生き生きとした表情で語る笹野の目は、安らぎと喜びにあふれていた。笹野と共に働いていた元同僚のTさんが、職場での思い出を語った。
「私が職場体験に行ったときのことですが、東京少年のファンだったので、目の前の上司が『まさか』と、思わず二度見しました(笑)。職場でのみちるさんは、『いやいや、それはちゃうで』とか、真っすぐに自分の気持ちを職員にも利用者さんにも伝える、情に厚い人でした。
施設で歌ってくれたときは、利用者さんも職員も、その場の空気がふわっと温かくなるような時間でした。気取らず、目の前の人のためだけに歌っている感じがしました。みちるさんは、音楽でも福祉でも、人に向き合うときの熱量が変わらない人です。あの時間を一緒に過ごせたことは私の大事な宝物です」
父の訃報も知らせてくれなかった母と─
施設で介護をする日々のなか、疎遠になっていた両親はどうしているのか。
「母と長い間音信不通だったので、父が亡くなっていたことを知りませんでした。親戚との会話の中で知って。両親は別居していたんですが、母が介護されているという話は聞かないので、元気にしているんじゃないですかね」
父に旅立たれて、距離を置いている母はもう92歳。たくさんの経験をしてきて、自身の60代が見えてきた。
「京都町内会バンドや東京の介護の仕事など、ようやく穏やかに暮らせる場所に巡り合えたと感じています。特定の宗教はありませんが、なんというか神様の思し召しのようなものを感じます。大好きなビートルズもバンドが大変なときにインドの精神世界に魅了されたし。
達観なんか全然してないし、これからまだ大変なことがあるかもしれないけど、“自分の奥にある本当の自分”を信じられるようになった。なんていうか、愛が好きなんです。愛以外は興味ないというくらい。愛が何か、わかりたくて仕方ない。うん、趣味が愛です」
たくさんのつらい思いや別れの先に見えたものは、愛だった。今なら母親と向き合えるのでは?
「母はひとりで生きていける人だし、そうであるように磐石の体制を敷いてきて今があるので、私から介護を受けることは絶対にない。でも92歳だから、どこかで会っておかないと、という思いはあります。この取材で背中を押してもらった気もします」
晴れやかに言葉を結んだ笹野。後日、この特集に掲載するための古い写真を探しに久しぶりに京都の実家へ寄ったところ、母とはち合わせしたという。
「相変わらず毒づいて何も変わっていませんでしたが、私も成長したので怒らず聞き流せるようになって、2時間半も話すことができました」
取材当初は、聞く側としても痛々しくて胸が締めつけられたが、こんな素敵な結末が待っていたとは。また、最近は施設で歌うことも増えてきたという。これからの彼女の音楽活動や作品にどんな変化が起きるか、楽しみでしょうがない。
<取材・文/山本 航>

