子どもの自立は、親にとって大きなテーマだ。学校を卒業し、就職を機に実家を離れるなど、ひとり立ちの過程で、社会の一員としての自覚や責任を身につけていく。だが、障害のある子どもの場合、親や本人が自立を望んでいても、現実にはいくつもの壁が立ちはだかる。
出産時のトラブルで脳の大半が壊死
大阪に住む新居優太郎さんも、そのひとりであり、両親とともに自立への道を模索している。26年前、優太郎さんは出産時のトラブルにより、脳へ送られる酸素や血液が不足する「低酸素虚血性脳症」を発症。脳の大半が壊死し、現在も、身体のほとんどを動かすことができない。
「予定日を過ぎても生まれず帝王切開になったのですが、呼吸がなく、そのまま産院から別の病院のNICU(新生児集中治療室)へ救急車で運ばれました。深刻な状況でしたが、そのときはどこか前向きに考えていて、1週間くらいで退院できるのでは?と思っていました」(母・新居真理さん、以下同)
しかし、優太郎さんはNICUに1年あまり、その後、小児病棟に移り、結果として約3年間の入院生活を送ることになった。
その間に、両親や祖母などの家族は、人工呼吸器の操作法や、痰の吸引の仕方を練習し、外出時の車の乗り降り、外泊などの練習を重ねた。関東に赴任中だった父親は転職して大阪に戻り、病院の近くに家を借りるなど、退院の日に備えた。
自宅での暮らしが始まったが、家族に休む暇はない。
「家事をしていても目を離すことができず、経管栄養や吸引などのペースをつかむまでは、腰を痛めたり、食事を食べそびれたり、完全に熟睡できない毎日でした」
それでも退院の翌春には、幼児療育園に親子で通い始める。外での刺激を受けることで反応が良くなり、体力も徐々に向上。ただ、人工呼吸器を使う子どもが地域の小学校に通うのは難しいと考え、小学校は支援学校に入学する。
「通学の送迎や医療ケアは親が担わなければならず、そう簡単に負担が軽くなるわけではありませんでした」
そのころから優太郎さんは、どこか大人びたところがあり、真理さんは“ちゃん”や“くん”ではなく、「優太郎さん」「優さん」と呼ぶようになった。
「子ども向けのテレビ番組よりも、大人向けの番組のほうに興味を示し、可愛いものも好きではありませんでした」
気管切開をしているため声を出して話すことはできないが、まばたきで意思表示ができ、しっかりと個性は育ち、学習意欲も芽生えていく。
「ほかの人工呼吸器のユーザーの子どもは、どんなふうに通学しているのだろう?」
そう考えて調べていく中で出合ったのが、人工呼吸器をつけた子どもの親の会である「バクバクの会」だった。
「会員の中には、支援学校ではなく地域の学校に、それも親の付き添いなしで通っている子がいると知り、とても驚きましたね」
そして優太郎さんも、地域の中学校への進学を選ぶ。それは、自立への第一歩でもあった。しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。
定時制高校ではクラブ活動にも参加
学校側には人工呼吸器を使用する生徒を受け入れた経験がなく、「学校ではなく病院にいるべきだ」といった、差別的とも取れる言葉を投げかけられることもあったのだ。
それでも両親は、学校や教育委員会との話し合いを何度も重ねていった。ようやくたどり着いた入学後も困難は続いたが、戸惑う大人たちよりも先に、同級生たちが自然に受け入れていった。
体育祭や校外学習といった学校行事にも参加。やがて教師たちの理解も深まり、親の付き添いは少しずつ軽減されていく。3年生のときには、通学以外は完全に親の付き添いが不要になった。
学生生活を通じて、優太郎さんの中では「クラスメイトと同じように高校に行きたい」という思いが固まっていったそう。高校受験に挑戦し、まばたきを読み取ってもらう形で筆記試験を受けたが、志望校には残念ながら不合格となる。それでもひとりで面接試験に臨み、大阪府立の定時制高校に合格を果たした。
定時制高校は生徒数が少なく、学力や背景もさまざまな生徒一人ひとりにきめ細かく対応しており、優太郎さんのありのままをすんなりと受け入れ、クラスメイトも自然に接してくれた。入学後ほどなくして、介助員や看護師、学習補助の教員によるサポート態勢が整い、親の付き添いなしで任せられるようになる。
優太郎さんは、毎日授業を受けるだけでなく、放課後のクラブ活動にも誘われ、アイデアを出し合って実験を行う科学部に入部。授業は18時~21時までで、週2日のクラブ活動がある日は帰宅が23時を過ぎることもあったが、その生活リズムにも慣れ、体力面でも精神面でもたくましくなっていった。
「科学部の友達や先生とは、高校卒業後の今も交流があり、一緒に旅行に出かけたりしています」
諦めなかったからこそ、優太郎さんの世界は広がり、周囲の理解も深まっていった。高校卒業後も「さらに学びたい」という思いから大学進学を選択する。しかし、受け入れ態勢のある大学はほとんどなく、大学入学共通テストを受けたものの各大学が行う一般入試は断念。面談を経て放送大学に入学した。
こうして一歩一歩、自立への道を歩んできた優太郎さんは現在26歳。より本格的な自立である“ひとり暮らし”を目指している。
「ただ、バリアフリーなどの条件があるため、住まいとなる物件が見つからず実現していません。今は家庭内で独立した形をとり、ヘルパーさんに助けられながら暮らしています」
そして優太郎さんは、自立の重要なピースである“仕事”を始めた。2023年、新居さん家族は、優太郎さんを代表理事とする障害福祉サービスを提供する一般社団法人を立ち上げる。訪問介護や移動・通学支援のほか、イベント開催や講演活動など、事業内容は多岐にわたる。優太郎さん自身の体験から生まれる、支援のあり方に対する意見は、介護人材の育成に活かされている。
障害のある子どもを、親がいつまでも世話し続けることは難しい。だからこそ、社会に託せる仕組みが必要になる。福祉を担う人材を増やすことで、支え合いの輪が広がっていく。
「地域の中学に入学したときのように、動けば波風は起きますが、共感し、助言をしてくれる人にも出会えます。動くからこそ、周りも動くんですよね。なかなか物件は見つからないですが、理解ある不動産屋さんもいるので、希望を持っています」
優太郎さんが目指す自立の先には、障害のある人も、ない人も、高齢者も若い人も、誰もが笑顔で暮らしていける社会がある。今日踏み出す一歩が、その明るい未来へとつながっている。
