今年、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、仲野太賀演じる、太閤秀吉の弟・豊臣秀長を主人公に、兄弟がいかに戦国乱世を生き抜き、天下人に上り詰めたかを、弟の視点で描く一風変わった太閤記である。
“燃える闘魂”の異名で日本中を席巻したアントニオ猪木の弟
ここに紹介する兄弟の関係性は、豊臣兄弟と相似している。“燃える闘魂”の異名で日本中を席巻した兄、プロレスラー、アントニオ猪木と、その兄を支え続けた弟の啓介。いわば「猪木兄弟」だ。
昨年で喜寿(77歳)を迎えた啓介は、兄の面影を残した表情で往時を振り返る。
「兄貴が新日本プロレスを旗揚げしたとき、私も入社しました。でも『俺は猪木の弟だ』って殊更に言わなかった。目立ちたくなかったし、兄貴もそれを望まなかった。だから、私のことを弟だと知らない人が大勢いたんです」
希代のプロレスラー、アントニオ猪木について、今さら説明の必要はないだろう。ジャイアント馬場とのコンビで人気を博し、スタン・ハンセンやハルク・ホーガンと激闘を繰り返し、ボクシング世界ヘビー級王者、モハメド・アリとも戦った。また、参議院議員として国政を舞台に活躍。「1、2、3、ダーッ」で波瀾万丈の生涯を生きた、文字どおりのスーパースターである。
「でも、私にとってはスターである前に兄。唯一の弟ですからね。人には言えないことを明かされたり、頼み事の多くも必ず私に。『おまえがやれ』って何度言われたか(苦笑)」
その兄が2022年に他界すると、啓介の立場は激変。「猪木の弟」として後始末を託された。式典やイベントを取り仕切り、マスコミに幾度となく登場。陰の存在から一転、表舞台に立つようになる。
そんな彼の視点から“太陽と月”のような「猪木兄弟」の数奇な歴史を追ってみたい。
11人きょうだい・大家族の末っ子
猪木家は横浜市鶴見区に根を下ろす大家族だった。
父・佐次郎の先妻の子も含めて11人きょうだい。啓介は最も下の7男で、のちにアントニオ猪木となる兄・寛至は、啓介より5歳上の6男となる。
しかし、啓介に父の記憶はない。誕生した翌日に心筋梗塞で急逝しているのだ。よって、母方の祖父と、15歳上の兄・寿一が父親代わりだった。
「ウチは大家族だったけど、暗い人間は誰もいない(笑)。もしかしたら、寛至兄貴がいちばん内向的だったかもしれない。子どものころ、身体が大きくて、嫌な思いもしたらしいから」
そんな兄は、啓介にだけ「将来はオリンピックに出る。それで有名になってプロレスラーになりたい」という胸に秘めた夢を打ち明けていた。
「兄貴は中学のころから砲丸投げをやっていて、よく練習に付き合いました。私は飛んだ距離を計測する係。ランプを持たされて、暗くなるまでやる。おふくろが『いいかげんにしなさい』って呼びに来ると、いつもホッとしてました(笑)」
兄弟がプロレスと出合ったのもそのころだ。
「隣の家が電機メーカーの技師で、自作のテレビを置いてたんです。プロレスの時間になると、菓子折りを持って家族全員でお邪魔する(笑)。当然、力道山の応援ですよ」
そんな、猪木家の横浜での生活にも突如、終止符が打たれた。一家総出でブラジルに移住することになったのだ。
ブラジル移住、裕福な生活から苦役へ
猪木家がブラジルに移住したのは、1957年2月下旬、横浜港に停泊する移民船「さんとす丸」に乗り込み、腹違いの兄で次男の康郎と、長女の千恵子を除く大家族がごっそりと日本を離れた。
啓介は当時の猪木家の事情をこう解説する。
「兄貴はインタビューなんかで『苦しい生活から脱出するためにブラジルに渡った』とか言ってたけど、自宅は600坪の2階建て。大邸宅でした。それに幼稚園も経営して土地の名士。生活に困った記憶なんて全然ないんです」
では、なぜ邸宅を次男の康郎に譲渡してまで渡伯したかというと、長兄・寿一が拓殖大学に在籍していたことと関係がある。拓殖大学は1900年の創立以来、アジア開拓を校是に掲げ、戦後も海外雄飛を説いていた。
「最初はアメリカに移住するって話だった。でも、計画が二転三転してブラジルになった。もし、アメリカに行ってたらどうなっていたか、これも運命の分かれ道でしたね」
しかし、ここから不運に見舞われる。祖父がパナマ運河に位置するクリストバルの港を出港した直後に急逝。
さらに、目的地であるブラジルに到着すると、「楽園」と事前に聞いていた暮らしぶりと、まったく異なる状況に置かれた。「あの衝撃は今も時々思い出す」と啓介は述懐する。
「忘れもしない、サンパウロから600キロ離れたリンスという村に着いたんです。案内された家が粗末な長屋で、隣の家とはベニヤ板1枚。電気も水道も、トイレすらない。それまで邸宅に住んでいたんですよ。あちこちで夫婦ゲンカが起きたりして、あのときほど、愕然とした経験はないもの」
だが、苦難はなお続いた。移民に課せられた仕事は、コーヒー農園におけるコーヒー豆の収穫作業だが、その方法が過酷だった。4メートル以上のコーヒーの木の枝の実をすべて袋に詰めてトラックの荷台に載せる。重さにして1袋約60キロである。
「トラックの荷台が高く積み上がると、力任せに放り投げる。きついなんてもんじゃないです。中学生の兄貴は大人に交じってそれをやっていた。あまりのつらさに、兄貴は4男の快守兄貴と一緒に脱走を企てようとしたくらい。未遂に終わったんだけど」
過酷な労働で手に入れた肉体
作業は奴隷労働に等しく、1年半の契約期間は無断で移動することも許されない。きょうだい全員が酷使された。
「ただ、苦しかったのは事実だけど、今にして思えば、ブラジルに行ったから猪木家の運が開けた気もしますね。例えば寛至兄貴は、過酷な労働であの肉体を手に入れたわけだし、ほかのきょうだいも、横浜にいたら、裕福な暮らしにあぐらをかいて、何もしなかった気がするから」
寛至、啓介共に親交がある力道山夫人の田中敬子さん(84)は、事態が好転した理由を「性格が引き寄せたのかも」と分析する。
「啓介さんの本来の性格は、のんびり屋。でも、のんびり屋さんほど、尻に火がついたら、大きな力を発揮するもの。根拠は私自身がそうだからよ(笑)。そういう環境に置かれて、一家全員がそうなったんじゃないかしら」
その後、1年半の契約期間を終え、70キロ離れたマリリアという農村に移った。コーヒー農園の作業から解放された猪木家は、日系人の農場主から農地を借りて、好きな農作業に従事するようになる。
「最初は綿花を栽培することにしたんだけど、隣人の日系移民に誤った栽培方法を教えられて大失敗。彼らは戦前から苦労してきた先住移民だから、われわれのような新参者を快く思ってなかったんでしょう」
しかし、その失敗した綿花をそのまま土に廃棄したことで、思わぬ僥倖が舞い込む。
「その後、落花生の栽培に取り組んだんだけど、初年度から大豊作。綿花を土に廃棄したら土壌が劇的に良い状態に変わった。ほかの畑の落花生が不作だったこともあって、かなり高値で売れたんです」
落花生栽培で成功を収めた猪木家は、農場を所有するに至る。
生活にゆとりができたこの時期、寛至は砲丸投げの練習を再開させていた。
「ここでも私はランプを持って距離を計測する係。すると、横浜のころとは比較にならないほど距離が伸びていた。当時の世界記録は20メートル程度だけど、15メートルは放ってたと思う」
練習のかいあって、寛至は、砲丸投げより記録を出しやすい円盤投げで「全伯陸上大会」の新記録を打ち立てる。それがブラジル遠征に来ていた力道山の目に留まって、念願のプロレス入りの夢を果たすのである。
スターになった兄の帰省が転機に
兄・寛至だけ日本に帰国したことで、猪木兄弟の絆も切れたかに見えた。
兄の帰国後は都市部で学校に通っていた啓介だが、「いつかは大きな農場を開きたい」という夢があった。広大な農場を持つことが、成功者としての証だったからだ。
しかし、兄・寛至との交流が復活したことで、別の夢を引き寄せる。
「兄貴が25歳ごろにサンパウロに一時滞在したんです。ジャイアント馬場さんとのコンビで人気を博していた時期で、私は20歳。兄貴は身体がさらに大きくなっていて『本当にプロレスラーになれたんだなあ』って感激しました」
その後「アントニオ猪木が案内するブラジルの秘境」なるテレビ番組の企画があった。第2の故郷であるブラジルの奥地を、人気プロレスラーが案内するという構成で、NET(現テレビ朝日)で放映されることになった。そのとき、現地のコーディネートを任されたのが啓介だった。
「当時の日本人はブラジルのことをよく知らない。それで、僕が案内役になった。ここでも『おまえがやれ』って兄貴に命じられて(苦笑)」
この番組に携わったテレビ関係者の一人が、プロレス中継の実況を務めていたアナウンサーの舟橋慶一さん(87)である。
「最初に啓ちゃんと会ったのは、ブラジルのロケのとき。『ウチの弟です』って猪木さんに紹介されたのが最初でした。第一印象は『目の輝いている少年』(笑)。キラキラして澄んだ瞳をしてるんです。でも、われわれテレビのスタッフよりたくましいんですよ。ジャングルに分け入って『頼りになるなあ』ってつくづく感心したりして」
義姉・倍賞美津子と兄の偉大さ
1971年11月、アントニオ猪木は女優の倍賞美津子と結婚。結婚式に列席するため、啓介は母の文子を伴って日本に一時帰国する。14年ぶりに、母国の地を踏んだ。
「結婚式の数日前に、練馬の倍賞家で宴会が催されて。倍賞家も大家族でしょう。人気女優の千恵子さんもそろって、深夜まで大騒ぎ。倍賞家は全員、酒が強くて、思い出しても酔いが回ってきそう(笑)」
そんな幸せの絶頂にある時期に、寛至は日本プロレスを追放され、新日本プロレスを旗揚げ。背景には団体内の権力闘争があった。
兄の苦しい時期を二人三脚で歩んだ倍賞美津子の記憶は、啓介の脳裏に鮮明に残っている。
「美津子さんには『啓ちゃん』って可愛がってもらって、本当の姉のように思ってました。あの人はきっぷのいい人なんです。彼女の存在は本当に大きかった。世間的には人気女優なのに、内助の功で兄貴を支えた。ああいう関係を“戦友”と呼ぶんでしょう」
結婚式後、本来なら、母と一緒にブラジルに帰国する予定だった啓介だが「おまえは東京に残れ」と兄に命じられた。このとき、啓介に託されたのは、「新日本プロレスの営業社員となって、切符を1枚でも多く売れ」という重大任務だった。
「兄貴にとって唯一の弟だから、昔から命令は絶対。でも、チケットを売り歩く営業の仕事は未経験でした。だから、普段は弟であることは内緒にしていたけど、営業のときは『弟』をアピールして、売りまくったものです(笑)」
「猪木兄弟」の天下獲りの物語
ここから「猪木兄弟」の天下獲りの物語が始まる。
スターの挑戦を共に支えることになった、妻と弟の2人が、兄の恐ろしさを思い知った事件がある。
1973年11月5日。この日、啓介は兄であるアントニオ猪木夫妻と新宿まで足を運んだ。啓介の結婚が決まり、美津子の提案で買い物をすることになったのだ。
「所帯を構えると、何かと必要になってくるから全部買ってやる」と兄も言った。「それ以外の理由はなかった」と啓介は言う。兄夫婦の言葉に嘘はなく、衣服や食器類など大量の必需品を購入した。
ところが、買い物を終えて伊勢丹を出た数分後、3人の巨漢が、突如として兄に襲いかかってきた。3人は殴る蹴るの暴行を加えると、すぐさま立ち去った。犯人は、新日本プロレスの興行で来日していたプロレスラーのタイガー・ジェット・シン、ビル・ホワイト、ジャック・ルージョー。プロレス史に語り継がれる「伊勢丹前襲撃事件」は、実は啓介の結婚祝いを奇貨としたものだった。
「何でこんな事件が起きたのかわからない。襲ったシンも実は命じられるがまま………だったのかも(笑)。帰りのタクシーの中で兄貴は黙ってた。ただ、事件が東京スポーツの一面で報じられたから『猪木対シン』の話題が盛り上がって、会場は連日の超満員。兄貴自ら仕組んだのか……真相は今もわからない。すごい話でしょう。妻にも弟にも内緒でああいうことを平然とやってのけるんだもの。同時に、何も聞こうとしない美津子さんもすごいと思ったね」
数年後、啓介が不貞を働いた際、“夫婦タッグ”の畏怖を伴う強さを思い知ることになる。
「私が別の女性と浮気をしたことがバレて、兄貴夫婦の住む代官山のマンションに呼ばれた。説教を食らうのかと思ったら、兄貴がいきなり組みついてきて、美津子さんがバリカンで、私の髪の毛を刈り上げて丸坊主に。あれには参りました(笑)」
'70年代後半~'80年代にかけて新日本プロレスは、アントニオ猪木の魅力が開花したことで、黄金期を迎えた。
前出の舟橋さんは、啓介の獅子奮迅の働きぶりを知る一人である。
「啓ちゃんが営業を担当した地域は、大阪、広島、札幌とか都市部。どこもよく(観客が)入っていました。相当、苦労をしたはず。ブラジル時代の苦しい経験も糧になっていたかもしれませんね。仕事も迅速丁寧。そういうのは意外とできないものだから」
プロレス界という未知の世界に放り込まれた啓介は、その仕事ぶりで周囲の信頼を獲得し、兄が生み出す伝説を支えた。
夢の事業、大失敗の果てに決意
軌道に乗った会社が本業とは別のビジネスに打って出るのは、世の常と言っていい。その利益創出を命じられたのもまた啓介だった。
「その前から僕は輸入販売を手がけていて、ブラジルの珍獣を輸入しては、得意先に売っていた。それが結構な利益になったので設立した会社が『アントン・トレーディング』。さらに兄貴が『スペアリブのうまさを広めたい』という思いから開店したのが『アントン・リブ』。経営から味つけから全部任された。それも『おまえがやれ』のひと言で(苦笑)」
ここでも、啓介に仕事が集中した理由を、舟橋さんはこう解説する。
「あの時代の新日本プロレスは、ずいぶん儲かってましたけど、お金の流れが不透明な部分はあった。猪木さんもうすうす気づきながら、メスを入れる余裕はなかった。そこで頼れるのは『弟しかいない』と。当時の猪木さんの周辺には、社員やスタッフが大勢いましたけど、本当に信頼していたのは、啓ちゃんだけだったと思います」
そんな矢先に手がけることになったのが、後に猪木兄弟の運命を左右する壮大な計画「アントン・ハイセル」である。
そもそもこの計画は、ある人物が「夢のリサイクルに協力してほしい」と持ちかけてきたことがきっかけだった。サトウキビの搾りかすに含まれる不要物質を、微生物の力で分解、発酵させることで、牛の飼料に変えるという画期的なプランである。
ブラジル国内の環境問題のみならず、牛の生産量も飛躍的に増加、世界の環境問題と食糧問題が同時に解決できる夢のプロジェクトに、兄は「やりましょう」と即断した。
「私自身も賛成ではあったけど、最初は様子を見ながら、少しずつ動かしていけばいいと思った。それなのに兄貴は『40億円突っ込む』って言ったんです。耳を疑いました。そして当然ながら『啓介、おまえがやれ』と(苦笑)。私はポルトガル語が話せるから、ブラジル政府の要人に会うときの通訳にもなる。そういう計算もあったと思います」
かくして始まった夢の計画だったが、いくら飼料を作っても、牛が食べようとしなかった。「早い話、全員が素人だった」と啓介は苦笑する。
「どんどんお金だけ出ていく。手に負えない段階まできたときに出会った岡山の林原生物化学研究所の人が『われわれにお任せください』って協力してくれることになった。発酵飼料の試作品が完成すると、今までは食べようとしなかった牛が食べ始めて、肥り始めた。『よし、これで大逆転できる』って思った矢先に信じられないことが起きました。突然やってきたブラジルの軍隊が、牧場にいた牛を一頭残らず持っていってしまったんです」
当時、インフレに悩まされていたブラジル政府が、物価凍結令と食肉強制出荷令を執行したのである。
「そういうことがブラジルでは頻繁に起こる(苦笑)。ただ、今にして思えば、牛にこだわることなかった。羊でよかったんです。何より繁殖力が違うし、国によっては羊のほうが高値で売れる。『これも勉強だなあ』って痛感しましたね」
結果的に「この事業はプロレスの経営にも影響を及ぼす」と判断が下され、新日本プロレスとアントン・ハイセル事業は切り離された。輸入業の「アントン・トレーディング」も、フランチャイズ展開していた「アントン・リブ」も負債整理のあおりですべて売却。
ここで、啓介は決断をする。「この機会に学んできた微生物やバイオの知識をもっと深めたい」と、新日本プロレスを離れ、事業を継続させたのだ。
一連の顛末について、友人である大山公知さん(67)は嘆息しながらこう述べる。
「ハイセルという事業は確かにうまくいかなかったかもしれない。でも、ここから啓介さんの医療とか健康面への探究が始まるわけでしょう。転んでもただでは起きない。つまり、あの失敗がなければ今の啓介さんはいない。そういう強さは、猪木家のDNAかもしれないですね」
これ以降、啓介は日本を離れ、アガリクスの栽培、販売に従事、兄とは異なる道を歩むようになる。その間、兄は1987年に16年間連れ添った美津子と離婚、1989年に別の女性と再婚し、その直後、参議院議員に初当選する。長きにわたって兄を支えてきた啓介だったが「離婚も再婚も当選も落選も全部ブラジルで知った。'90年代の兄貴の行動には直接は関わっていない」と言う。
このまま、別の道を歩むと思われた猪木兄弟だったが、運命はそれを許さなかった。
奇跡の再会、最後のタッグ
兄・アントニオ猪木が再々婚したのは、2017年。相手は2000年代初めに知り合った女性で、兄が2012年に参議院議員に返り咲いた折、公設秘書も務めていた。
ただし、その最後の妻は、古くからの友人のみならず、実弟である啓介さえ遠ざけたため、兄弟仲は自然と疎遠になる。
「僕だけじゃなくて、娘やブラジルに住む姉さえも連絡が取れなくなって『このまま兄貴と会えなくなるのかな』と思ったことはありました。最初は兄貴も『何でもやってくれて楽だ』くらいに思ってたんでしょう。でも、彼女の思惑は兄貴を独占すること。それで周囲を排除するように動いた。でも、本当に独占したかったら、周囲を味方にすればよかったんです」
最後の妻は膵臓がんに侵され、2019年に他界。それを機に猪木兄弟の縁が再びつながった。2021年に再会した兄弟だが、兄はアミロイドーシスという難病に侵され、歩くことさえままならなくなっていた。
身柄を引き取った啓介は、白金台にマンションを用意し、介護のスタッフを充実させ、闘病生活を物心両面で支えた。これが猪木兄弟にとって、最後の二人三脚となった。
「僕にとって、やれることはそれくらいしかなかったから。兄貴が『いつも悪いな』『おまえには迷惑かけた』『ブラジルはどうなってる?』とか言うんです。こうなる前に会って話せたらよかったけど……。ただ『会えないまま一生を終える』状況でなくなったことだけが、唯一の救いでした」
2022年10月1日、希代のプロレスラー、アントニオ猪木は永眠。享年79。啓介にとって最後の闘いが終わったかに見えたが、実際はそうはならなかった。むしろ、ここから新たな闘いが始まったのである。
アントニオ猪木に限らず、超大物が亡くなると、煩雑な権利関係の所在が宙に浮く事例は決して珍しくない。多くは遺産を相続した配偶者が、数々の権利を保有、行使することになるが、前述のとおり、最後の妻は3年前に他界している。美津子との間にもうけた長女も、2人目の妻との間にもうけた長男も、いずれも海外に居住し、日本にいない。
つまり、アントニオ猪木の事後処理を行う適任者は、東京に住む啓介以外いないのだ。
「ある程度は覚悟していたんだけど、亡くなった直後は、マスコミ対応から告別式の準備まで、まあ、次から次へといろんな事案に翻弄された。こればかりは慣れないことだからさすがに大変(苦笑)」
同様の経験をしているのが、力道山夫人の田中敬子さんである。結婚半年、22歳で夫と死別した彼女は、悲しむ間もなく次々と舞い込む煩雑な作業に忙殺された。後を託される労苦を最も知る存在だ。
「亡くなった人の後を託されるって、本当に悲しむ間もないくらい大変なんです。お金のこと、仕事のこと、相続の問題……。その大変さを知ってるから『啓介さんがいてよかった』ってつくづく思った。弟だし、猪木さんの周辺にも明るいでしょう。後を託すのに適役だもの。啓介さん、のんびり屋だから尻に火がついたかもね(笑)」
2025年2月、啓介はアントニオ猪木のライセンス管理会社「株式会社猪木元気工場(IGF)」の代表取締役社長に就任。会社のモットーは「アントニオ猪木を10年、20年、50年先も忘れさせない」という壮大なもの。昨年は、AIによるアントニオ猪木復活が発表されたばかりだ。
「ゆくゆくはAI猪木に人生相談ができるようにしたいんですよ。散々語り継がれてきた人だけど、ファンの方々がまだ知らない兄貴の人間性を今後も伝えていきたいです」
現役プロレスラーにして、現職の我孫子市議会議員という、往年のアントニオ猪木同様、“議員レスラー”である澤田敦士(42)は、現在の啓介の活動の旺盛さに目を見張る。
「はたから見てますと、啓介社長にも、猪木イズムは宿っていると感じます。何より行動力がすごい。啓介社長はまさに、猪木イズムを体現されていると思います」
豊臣兄弟は、弟の秀長が先に亡くなったことで、制御の利かなくなった兄・秀吉が、朝鮮出兵に代表される愚策を繰り返し晩節を汚している。一方、猪木兄弟は、兄が先に他界したことで、弟は膨大な事後処理を託され、それは今も続いている。
「実は自分のお墓はもうブラジルに買ってあるの。『いっぺんにお参りできるように』と、きょうだい全員で買ったんです。兄貴のお墓は日本にあるけど、死後にまた何か頼まれることはないでしょうから、さすがに離れてもいいかなって。でも、まだ墓に入るわけにいかないな。だって、今はまだ兄貴に『おまえがやれ』って言われてる気がしてるんだから(笑)」
<取材・文/細田昌志>

