1985年、『翼の折れたエンジェル』が大ヒットし、女性ロックシンガーとして一躍スターとなった中村あゆみ。当時19歳だった彼女のハスキーでエネルギッシュな歌声は、ほかのアイドル歌手たちとは一線を画し、アウトロー的な雰囲気も魅力だった。
中村あゆみの紆余曲折の人生
「でも、あのころは『この曲で稼いだら、一刻も早く仕事はやめよう』と考えていたんですよ」と中村は笑う。
もともと歌手を目指してがむしゃらに頑張ってきたわけではない。周りから請われるままに歌手デビューをしたら、ヒット曲に恵まれて有名になったのだ。当時は自分で作詞・作曲をしていたわけでもなく、この先、歌手を続けていく自信もモチベーションも持ち合わせていなかった。
周囲から見ると中村はスターのオーラを放つ存在だったが、本人は意外と現実的で、人生経験を積まないままショービジネスの世界にのみ込まれていくことにも不安があったという。
「28歳で結婚したときは、歌手という立場から逃げたいという気持ちもあったと思います」
その後、離婚、再婚、出産。また離婚を経て、中村はようやく「歌手として生きていく」と腹をくくることができた。38歳のときだ。それから20年以上の歳月が流れ、中村は大人のシンガーとして成熟してきた。
大ヒット曲がありながらも自分に自信が持てなかった歌姫が、折れた翼を立て直し、羽ばたいていくまでにはどんな紆余曲折の人生があったのか─。
複雑な生い立ちから振り返っていく。
六本木で噂になり、才能を見いだされる
大阪で生まれ、福岡で暮らしていた中村は、3歳のときに両親が離婚。父親とともに大阪に移り住み、その後すぐに父親が再婚、中学3年までを過ごしたが、新しい母親としっくりいかず、福岡で高級クラブを経営する実母のところへ身を寄せることになった。
「大阪時代は反抗期でやんちゃで通っていましたが、福岡の高校は男子が多かったので、アイドルみたいにちやほやされて。モテモテでした(笑)」
しかし福岡で暮らしたのは半年だけだった。東京に住む作曲家、故・平尾昌晃さんのもとで芸能界を目指すことになったのだ。
「母と平尾さんが知り合いで、母は私に歌手になってほしいという思いがあったんです。平尾さんは当時、歌手やタレントの育成にも力を入れていて。私も深く考えず『なんだか面白そう!』『歌手もいいけど女優になりたい!』といった軽い気持ちで上京することにしたんです」
親の都合に振り回された子ども時代だが、中村には恨み節がない。前を向いてそのときどきのパッションを大切にして生きる。中村は16歳のときからロックシンガーとしての片鱗を見せていた。
平尾さんのところで居候として暮らし、明治大学付属中野高校定時制に編入。ここは芸能人が多く通う高校で、同級生にはシブがき隊、少年隊、三田寛子、石川秀美などがいた。
「でも3か月後には平尾さんのところを飛び出して、一人暮らしを始めました。人がたくさん出入りする環境になじめなかったんです。6畳一間の家賃3万8000円のアパートを借りて、ようやく自分の居場所を見つけられました」
当初は実家からの仕送りがあったが、義父の会社が倒産したことで仕送りがストップ。中村は16歳にして生活費を自分で稼がなければならなくなる。
「昼間は貴金属店で外商のバイトをしていたのですが、営業成績がよかったんです。お金が貯まったので、毛皮を買って、それを着て夕方から登校し、そのあとはディスコやカラオケパブで遊ぶ生活に。ちょうどバブルの時代だったので、華やかな六本木で過ごすのが楽しくて、歌手になることはすっかり忘れてしまいました」
しかしスターになる人はキラリと光るものを隠せない。キュートなルックスにハスキーな声の個性的な女の子がいるという噂はすぐに六本木に広まった。そのときコンタクトを取ってきた一人が、のちにマネージャーとなる元レコード会社のプロモーター・石岡和子氏だった。そこから運命の歯車が回り始める。
「ある日、ボーイフレンドと遊んで家に帰ると、住んでいた部屋が泥棒に入られていたんです。もう怖くて怖くて、電話番号をもらっていた石岡に思わず電話したら『すぐにいらっしゃい』と。石岡のお母さんが経営していたお店に泣きながら駆け込みました。そこにやってきたのがプロデューサーの高橋研さんでした」
高橋氏は当時、THE ALFEEの『メリーアン』の作詞を共作しており、のちに美空ひばりさん、小泉今日子、沢田研二、矢沢永吉といったビッグネームの楽曲も手がけている。中村がカラオケで歌うのを聴いた高橋氏は「あの子はロック歌手として絶対に売れる。僕にプロデュースをさせてほしい」と石岡氏に頼んだという。
一方の中村は「高校に行きながら働いているので歌をやる余裕はない」と最初は突っぱねた。しかし、石岡氏から説得され、高橋氏のレッスンを受けることに。
「歌手になるつもりはなかったのに、自分の反骨心が歌の世界とマッチして、楽しくなってきたんです。デモテープを作ってとんとん拍子にレコード会社も決まり、1984年、18歳でデビューしました」
そこから1年後に発表したサードシングル『翼の折れたエンジェル』が、「カップヌードル」のCM曲に抜擢され、大ヒット。中村あゆみの名前は全国に知れ渡ることになった。
しかし有名人になってもアイドルのように「恋愛禁止」と言われることはなく、相変わらず六本木で遊び、ボーイフレンドも常にいた。当時のことをマネージャーの石岡氏が振り返る。
「サファリパークにいる野生動物のように自由奔放な子でした。私生活を厳しく管理すると、あゆみちゃんのいいところが消されてしまうと思ったので、芸能界のしきたりみたいなものもあえて伝えなかったんです。でも昔から優しい子で、誰からも可愛がられて、スキャンダルになることもありませんでした」
その後もバンドメンバーと恋仲になったりしたが、当時の恋愛から学んだことがひとつだけある。
「職場恋愛は公私混同になって大変だから同業者とは付き合わない。結婚するなら一般人と心に誓いました」
イメージが固定してしまったヒット後の苦悩の日々
『翼の折れたエンジェル』の後もリリースを続け、人気が衰えることはなかった。テレビの歌番組に出演し、ライブも精力的に行っていたが、突然、芸能界に放り込まれた中村は、とうとうパンクしてしまう。
「歌手としてずっと続けていくという強い気持ちがないまま、どんどん仕事が入って、歌を届けるよりも、大きなビジネスに加わっている感じでつらくなってしまったんです」
一般の会社員よりもはるかに高い給料をもらえたが、ほかの世界を知らず、ほかには行けない自分になっていくのも怖かった。
「下積みが少ないまま、いきなり大きなヒットに恵まれると、周りからもちやほやされて自分が偉くなったと勘違いしてしまう。でも勘違いしたままだと芸能界で生き残るのは難しく、業界を去っていく人もたくさん見てきました。
生き残るには、強力な運、ソングライターとしての実力、もしくは飛び抜けて性格がいいといった要素が必要なんです。私自身、デビュー当時は相当勘違いをしていて、あのときもっと謙虚だったら、今見ている景色は違っていたんじゃないかと思います」
シンガーとしての方向性にも迷いがあった。『翼の折れたエンジェル』以上のヒット曲、代表曲が欲しかったが、曲を依頼すると、従来の中村あゆみ像に沿ったものが上がってくる。そこをぶち破るためには自分で曲を作るしかなくなった。
「経験もないし、学んでもいないのに曲を作るなんて、その場その場でサイコロを振って生きているような感覚でした」
最初はコードもわからない状態だったが、周りのミュージシャンに教えを乞いながら、一つひとつ学んでいき、作詞・作曲を続けた中村。このときの状況を石岡氏が振り返る。
「あゆみちゃんにはもともと兼ね備えているアーティストとしてのセンスがありました。移動中の車から見える景色を眺めて、歌詞やメロディーが浮かんでくる人です。日常のあらゆる瞬間が創作の場になっていて、集中力もすごかった。彼女ならアーティストとしてやっていけると確信しました」
こうして自作曲を発表していくようになった中村だが、1994年、1回目の結婚をする。アメリカでのレコーディング中に、素敵な男性が現れ、夢中になったのだ。
「本当に大好きな人が現れたから結婚したのですが、今思えば、超多忙な生活から結婚に逃げた部分があったと思います。当時はまだ武道館で数日間ライブをやっていた時期だったので、絶対事務所に反対されると思っていたら、みんなが祝福してくれて。うれしかったですね。あの時代、ほかの事務所だったら結婚できなかったと思います」
しかし結婚生活は3年で終止符を打ち、2度目の結婚は離婚の翌年の1998年。相手は16歳年上の実業家だった。娘も誕生したころから、音楽活動を休んで子育てに専念することに決めた。
「ちょうど人気にも陰りが出てきた時期で、音楽業界に戻るつもりはありませんでした」
一般人として生きていこうと、夫の会社でスタッフとして働き始めた。ところが2度目の結婚生活にもほころびが出てきてしまう。夫とうまくいかなくなっても、なかなか離婚するふんぎりがつかず、用意した離婚届を何度も破いては、やり直す方法を模索していたという。
「夫と子どものためだけに生きようと、良妻賢母を目指し、本来の自分を押し殺していたんだと思います。でも娘が私が歌っているビデオを見て『ママ、カッコいい』って言ってくれたんです。そのとき再び歌手として生きる覚悟を決めました。家庭からステージへ。神様が『おまえの居場所はそこじゃない』と教えてくれたのでしょう」
38歳で2度目の離婚をし、翌年の39歳の誕生日にニューアルバム『Yes』を発表。自身の経験をすべて歌に昇華させることで、第二の音楽人生をスタートさせた。
「今は、失敗も楽しかったことも良かったことも、苦しかったことも全部ひっくるめて愛しく、消したいページはありません。失敗や苦しかった経験は、今の仲間や場所へたどり着くために必要なプロセスだったんだと前向きに捉えられるようになりました」
小倉智昭さんの助言でゴルフを始める
離婚後、元夫から養育費は受け取らなかったため、生きていくためのお金が必要だった。一世を風靡したとはいえ、ブランクがある中村にすぐに歌手としての仕事が来るわけではない。
「最初は母親がやっている福岡のクラブを3か月だけ手伝わせてもらって生活費を稼ぎました。私が歌えばお店は満員になり、売り上げもアップしたんです」
少しずつ音楽の仕事が増えていったのは、かつて仕事をしていたスタッフから声がかかるようになったからだ。
「デビュー当時、現場を駆けずり回っていたADが決定権のあるプロデューサーという立場になっていたりして、『ぜひ僕の番組に出てください』と、ほうぼうで声をかけてもらえたんです」
さらに『翼の折れたエンジェル』のストロングバージョンがキリンビールのCMに使われたことで、再び中村が脚光を浴びるようになった。
「思えば私の人生は『翼の折れたエンジェル』に2回もステージを与えてもらったことになります」
フリーアナウンサーの故・小倉智昭さんも中村を応援してくれた一人だ。番組に呼んでくれたり、ゴルフを教えてくれたりした。
「『ゴルフはやっておいて損はないから』って言われたのですが、これは本当でした。子育てでストレスがたまったとき、青空に向かってボールを打ち込むことで発散していました。ゴルフでできた友達も多く、みんなライブに来てくださるんです。小倉さんには足を向けて寝られないと思っていました」
一方で子育ては一筋縄ではいかず、悩むことも多かった。娘は小学校6年から大学2年ぐらいまで激しい反抗期が続き、手を焼いたという。
「反抗期の最中は『こんなことを言われるためにあんたを産んだんじゃない。ふざけないで!』と頭にくることも多々ありました。でも後から思えば反抗はママへの愛の裏返しだったのでしょう。どれだけ困らせても、ママは大事にしてくれる、許してくれるという確認が欲しかったんだと思います」
ようやく落ち着いた娘は大学卒業と同時に家を出て、一人暮らしをすることに。
「寂しかったけど、一生手元に置いておくわけにはいかない。人としてちゃんと学ばなきゃいけないことを、私のそばにいたら学べないですから」
今は娘とは親友のような関係で、音楽への助言もしてくれる。
「最先端の音楽を聴いている娘から『ママはラップとかやらないほうがいい。無理だし』と上から目線で言われたり(笑)。子育てで私も成長できましたし、彼女は私を選んで生まれてきてくれたんだなって今は実感しています」
「ママホリ」を主催しプロデューサー業へ
シンガーとして実績を積み重ねてきた中村は、現在、音楽イベントのオーガナイザーとしても活動している。それがいまやライフワークとなった「ママホリ」だ。ママホリは名前のとおり現役のママであるアーティストたちが集う音楽祭で2021年に第1回が開催された。きっかけはコロナ禍だった。
「ライブは当然ストップし、子どもたちはどこにも遊びに行けず、ママは一日中、子どもの世話とごはんの支度に追われ、みんなピリピリとした雰囲気で過ごしていました。この重たい空気をなんとかしたくて、『家族のために頑張るママの休日(ホリデイ)』というコンセプトでコンサートを開催することにしたんです」
実は1987年に発行された本のインタビューで中村はママホリを予言するようなことを話している。《30年後、あなたは何をしている?》という質問に《子供かかえて唄ってるよ、たぶん》と答えているのだ。出産後は引退も考えていた中村だが、ママとなって歌って届けるというイメージは10代のときからあったのだろう。
ママホリでは中村が交流のあるママアーティストに声をかけ、NOKKO、hitomi、MINA&REINA(MAX)、相川七瀬、土屋アンナという豪華メンバーでの開催が実現した。出演者は中村自身がアプローチをする。もちろん事務所を通して正式に依頼するが、必ず自分の手紙を添えた。
「あなたが必要なんです、と私の熱い思いを伝え、素敵なアーティストの皆さんに賛同してもらえました」
ママホリがきっかけで仲良くなった土屋アンナは、中村を“マザー・テレサのよう”とあがめる。
「あゆみさんは好き嫌いがはっきりしていて、私と似ているところがあるんです。面倒見がよくて、誰に対しても見返りを求めず行動する方で尊敬しかありません。いろんな人を紹介してくれたり、身体にいい食べ物をくださったり。愛情が深くて、明るくて、いつもパワーをもらうばかり。まだ何も返せていないので、いつかあゆみさんのために何かできるようになりたいです」
ママホリはその後、2024年まで4回の開催が続いたが、裏方として全力投球してきた中村はイベント後、身体の異変に気づいた。
「髪の毛は多いほうなんですが、あるときバサバサと抜けちゃった時期があって。お金の計算とか、スタッフの手配とか、やったことのない業務がのしかかってきて、身体がびっくりしちゃったんだと思います」
2025年は企画を練り直すため、1年間ライブがない期間ができた。
「それまでは太らないよう食べる量を制限していたんですが、この期間に方針を180度転換し、一生懸命食べて健康な身体をつくることにしました。大豆、亜鉛、タンパク質をとるように心がけて食事をしたら、抜け毛も止まったんです」
こうして身体づくりも万全で、2026年の企画がスタートした。ママホリから『Super Lady Festival 2026 -Season5-』と名前を変え、ターゲット層も広げた。
「ママだけじゃなく、もっと枠を広げてお子さんがいない方にも一緒に楽しんでもらえるイベントにしました。キャッチフレーズは“愛と情熱と頑張る女性”。今回は一青窈さんなどにも参加いただけることになりました」
中村の芸能界での交友関係は広く、坂本冬美、寺田恵子(SHOW-YA)、杏子(バービーボーイズ)、相田翔子、ダイアモンド☆ユカイなど音楽仲間から、芸人のはなわまで、ジャンルを問わず付き合いがある。みんなプライベートでは“普通”なのがいいという。
「おすすめのお店の情報交換をしたり、健康や美容の話で盛り上がったり。セレブ自慢みたいな人はいません。でもステージに上がるとガラリと変わるのが、みんなカッコいいですよね」
プロレスラーの鈴木みのるも中村と親しいことで知られている。1995年、中村のファンだった鈴木が自分の入場曲を中村に依頼したのがきっかけだ。その曲『風になれ』は、世界的には『翼の折れたエンジェル』よりも知られている。鈴木が海外で活躍するにつれ、試合に登場すると「カッゼーニーナレー」と現地の観客から大合唱が起こるようになったのだ。
2021年には、鈴木の試合後、各国のiTunes Store“J-Popトップソング”にランクインし、アメリカでは1位に。リリースから25年以上がたっても世界で歌われる名曲になった。
「鈴木みのる君が私の歌を世界に連れ出してくれました。最高です」
還暦を前にテイクからギブへ。掃除で運気アップも実践
中村は2026年6月に還暦を迎えるが、年齢とともに若いころとは異なる心境の変化を感じている。
「還暦は干支(十干十二支)がひと巡りして生まれた年に戻るという意味。生きているだけで儲けものだし、今、歌えていることが本当にギフトに近いと思っています。このギフトを、どういうふうに自分の中で違う形にできるかが自分の中でのテーマです」
若いころは、あれが欲しい、稼げてうれしい、好きな人と付き合いたいと『テイク』『ちょうだい』というのが多かった。でもこれからは、私が何か役に立てる、必要とされるところに出て行くことも考えていきたいですね」
マネージャーの石岡氏も中村あゆみだからこそ、できることがあるという。
「あゆみちゃんは今もエネルギッシュでみんなの人生を引っ張っていける人。そのエネルギーを多くの人に分けて、幸せになってもらいましょう。私も72歳であゆみちゃんのマネージャーを続けさせてもらっていて幸せです」
前出の土屋も次のように語る。
「ママホリも閉塞感を抱えていたママたちのためにプロデュースされた企画ですし、もともとギブの精神が強いあゆみさんです。気配りも素晴らしいですが、それを義務感ではなく、楽しんでやってらっしゃるのが伝わってくるんです。そんなあゆみさんの姿勢が素敵で憧れます」
パワフルで前向きな中村だが、もちろん落ち込むことも挫折もあった。しかしネガティブな思考が出てきたときは極力それを手放すようにすることも覚えたという。
「ピンチが来たときもチャンスだと思うし、何か良くないことが起こっても、私へのメッセージだというふうに切り替えています」
日々の生活の中ではいらないものを手放し、執着せずに身軽にしていくことも大事だ。
「ただ、ガンガン捨てるのは得意じゃなくて、まだ使えるものは活用したいんです。いらなくなったTシャツは切って、床を拭く布にして、最後まで使い切ってから捨てています。衣料品のリサイクルボックスも使っています。地球全体でゴミを減らすためにも、うまく処理していく仕組みが欲しいですね」
運気を上げるために、水回りと玄関の掃除、整理整頓は欠かさず、部屋の気の流れをよくすることにも努めているという。
「お金持ちのお友達の家に遊びに行くと、どのお宅もものを大事にしていて、整っているんですよ。私も見習っています」
男性と女性、どちらからもモテる存在の中村は、60歳からの人生をどう生きていくのだろうか。
「結婚はもう十分(笑)。若いころは誰かに寄り添って生きていきたかったけど、一人が長くなると、寂しさよりも、自由でいる心地よさを選んでしまいます。年齢とともに買い物も旅行も男の人と行くより、女同士で行くほうが楽しくなっちゃって。結婚という形でなくともパートナーはいたらいいなって思うので、誰にしようかなと今は選んでいる最中ですね(笑)」
自由奔放だけれども優しいエンジェル。中村あゆみはこれからもパワフルに歌を届け続けていく。
<取材・文/垣内 栄>
『Super Lady Festival 2026 -Season5-』 会場:NHKホール(東京・渋谷) 日時:2026年5月10日(日) 開場15:30、開演16:30 出演者:相川七瀬/hitomi/一青窈/土屋アンナ/中村あゆみ(オーガナイザー)and more
オフィシャルHP:https://mamaholi.jp/
問い合わせ:ホットスタッフ・プロモーション 050-5211-6077(平日12:00~18:00) https://www.red-hot.ne.jp

