派遣社員から30代で起業後、多額の赤字や従業員から訴訟を起こされたりと幾度となく困難に見舞われながらも、一代で会社を大きく成長させた板橋理恵さん。敏腕女性社長として活躍する中で、50歳のときに乳がんのステージIIAにより、右胸の全摘出を経験。55歳で初婚と50代が大きな人生のターニングポイントに。年齢にとらわれず、仕事の成功も結婚も自身でつかみ取り、彩りある人生を歩む板橋さんの人生観とは─。
上手くいかない理由を周りのせいにしてきた
「人生には早すぎるも遅すぎるも、正解も不正解もないと思うんです。実際、私の人生、もう山あり谷あり。転んだり、壁にぶつかったりの繰り返しでしたから(笑)」
そう話すのは、MTコスメティクス代表取締役の板橋理恵さん。年商23億円を誇る、敏腕女性社長である。
その道のりは波瀾万丈で、「どうやって生きていけばいいんだろうって、ずっと迷ってました。もともと長いものに巻かれたくないタイプ。学生時代はすごく悩んだし、就職してもなかなかうまくいかなくて」と振り返る。
大学卒業後、百貨店に就職するも、半年で退社。大手旅行代理店、議員秘書と仕事を転々とし、その後は派遣社員として働いた。
何をしても長くは続かず、ふと気づけば20代後半になっていた。周りの友人たちはおのおの職場でキャリアを重ね、責任ある仕事を任されるように。
「けれど私は何も実績が積めていない。ひょっとしたらこのまま自分に合う仕事に出合えないんじゃないか、路頭に迷うのではないかと思って、すごく焦ったし、不安でした」
落ち込むところまでとことん落ち込み、自身のあり方を改めて省みた。
「結局のところ、私は周りのせいにしてきたんです。上司が悪い、これは自分が本当にやりたい仕事じゃないと言っては辞めてきた。積み上げているものがないのは、諦めて投げちゃうからだと気づきました。それで、諦めないと決めた。言い訳ができないように、自分の足で立っていこうと」
そして、起業を決意。30代でサプリメント通販会社を設立する。サプリブームのはしりで、ハワイでサプリメントの販売をスタート。これがMTコスメティクスの前身となった。しかし、起業は甘くない。早々に壁に突き当たる。
最初の5年間はずっと赤字だった
「1年目、2000万円の赤字を出してしまって、どうやって会社を回していこうかと……。でもそれはまだ始まりでした」
会社が大きくなるにつれ、立ちはだかる壁も大きくなっていく。アメリカの従業員に集団訴訟を起こされたこともあった。弁護士と手を組み、法の穴を突く常套手段で、脇の甘い日本企業が狙われた形だ。
通販サイトが運営停止に追い込まれ、売り上げがゼロになったこともある。それでも諦めないと決めたからには、投げ出すことはできない。スタッフの生活もかかっている。
「一つひとつ真剣に向き合いました。小さいことでも、大きいことでも、逃げないで。不思議なことに、一生懸命考えていると、ちゃんと答えが出てくるんです」
サプリ会社設立の5年後、2005年にMTコスメティクスを設立。アメリカでドクターズコスメが台頭してきたころで、日本ではまだあまり注目されていなかったエイジングケアにいち早く目をつけた。
「それでもやはり最初の5年間はずっと赤字でしたね。サプリ事業の資金を使って、なんとか回していた感じです」
商材は美容クリニック・エステティックサロン専売アイテムで、一軒一軒地道に開拓を続けた。休日返上で働き、仕事ひと筋で邁進してきた。
起業20年を迎えた今、会社は大きく成長を遂げた。取引先はこれまで国内約6500件に拡大し、海外展開も果たしている。
「何でも放り出していた私が、修羅場をいくつも乗り越えてこれた。修羅場も数をこなすと慣れてきて、メンタルも強くなる。どうすればいいかノウハウの引き出しが多くなる。どれだけ修羅場を越えたかということが、成長につながったと思っています」
再び大きな試練が訪れたのは、50歳のとき。胸のしこりに気づき、診察を受けた。結果は、乳がんのステージIIA。
「まさかという感じで、びっくりしました。もともと身体は丈夫で、病気知らず。ちょっとしこりが気になったけど、きっと問題ないだろう、大丈夫だってお墨付きをもらうために病院へ行ったので」
乳腺で広がったがんが、腋窩リンパ節に入る手前まで浸潤していた。右胸の部分切除か、全摘かの選択を迫られる。
人生って有限だということに改めて気づいた
「悩みました。部分切除だと胸の形が崩れて、放射線治療に一定期間、毎日通わなきゃいけない。それを考えたら、全摘して再建したほうが楽かなと思って。それで、好きな形にしちゃおうと(笑)」
右胸の全摘に臨み、手術は無事成功。翌日からリハビリに取り組んでいる。
「でもちょっとやりすぎたみたい。病院内を1万歩歩いて、看護師さんに、汗かいてますよって言われちゃいました(笑)」
1週間の入院と、1か月の休養を経て、仕事に復帰。闘病は人生を見直すいい機会になった、と話す。
「人生って有限だということに改めて気づきました。限られた人生を私はどう送りたいのか、自分に問いかけてみたんです。そこで、満足できる人生を送りたいと考えて」
50歳過ぎまでシングルを貫いてきたが、初めて結婚を真剣に考えた。まずお相手の条件をリストに書き出している。
「若いころは純粋に好きだからで結婚すればよくても、年齢を重ねるとそうもいかなくなる。失敗したケースを見ていると、やっぱりもともとの原因があるんですよね。じゃあ私にとってこれは譲れないということは何だろうと─」
リストアップした数、計10項目。なかでも一番の条件は、「料理ができること。私だって仕事で忙しいのに、家で待っていられて、『ごはん作って』なんて言われたらすごくイヤじゃないですか(笑)」
そんななか、友人たちと海へ行き、1人の男性と出会う。男性は免疫学の研究者で、板橋さんの4歳上。前妻を病気で早くに亡くし、2人の娘を男手ひとつで育てていた。彼女にとって、理想の男性だったよう。
「彼はリストをほぼクリアしていましたね。△の項目はいくつかあったけど(笑)」
交際がスタートし、右胸の全摘を告白している。がんと聞き、彼がどう受け止めるか、躊躇もあったというが。
「いざ伝えたら、『そうなんだ。乳がん、最近多いよね』であっさり終わりました(笑)」
彼の娘たちからの反対はなかったのだろうか。
人生はいつからでも書き換えられる
「成人前はいろいろ思うところもあったみたいだけど、大人になっていくにつれ、父親がこのまま1人でいたらマズイと思ったみたいです。頑固じじいの面倒を誰が見る、なんて感じになって(笑)」
3年の交際を経て、55歳で結婚。結婚式では、娘たちからの手紙が読み上げられた。
「大きいこぶが2個あったパパをもらってくれてありがとう、と。うれしかったですね」
娘たちは成人し、現在は夫と2人で暮らしている。
「夫は料理ができるので、お弁当を作ってくれることもあります。相棒がいるのは楽しいですね。時には諍いもあるけれど、たいていあちらが折れます。家の中では女性が強いほうがうまくいくからねって、常々教育しているので(笑)」
仕事の成功も、結婚も、一つひとつ自らの手でつかみ取ってきた。諦めない、は彼女の大切なモットー。もう年だからと諦めないで、と世の女性たちにエールを送る。
「人生っていつからでも書き換えられると思うし、何かを始めるのに決して遅いということはない。40代、50代でも諦める必要はないし、諦めないでと伝えたい。何がしたいか、自分がどういう人生を送りたいか。それが一番大事なことだと、私は思っているんです」
取材・文/小野寺悦子
いたばし・りえ 日本大学を1か月で退学後、浪人して立教大学に入学し、卒業。新卒で入った百貨店を半年で退職後、職を転々とする。派遣社員から30代で起業。年商23億円の企業を一代で築き上げた敏腕女性社長。
