2017年6月。オダウ川の橋の袂に立った社会活動家でアーティストの長坂真護(まご)(41)は、目の前に広がる景色を見てわが目を疑った。
ギラギラと太陽が照りつける川はヘドロにまみれ、むせ返るような腐敗臭が辺り一面に立ち込めていた。
周囲の反対を押し切ってやって来た。日本のJICA(国際協力機構)や青年海外協力隊も渡航禁止に指定しているエリア。
だからここで引き返しても、誰にも咎められはしない。
しかし、「ここで現実を見なければ、前に進めない」そう自分に言い聞かせ、真護は橋を渡った。すると青空はみるみるうちに黒煙に覆われ、プラスチックやタイヤを燃やす悪臭。腐った果実を貪る家畜やその死骸の臭いが鼻を突き、目眩を覚えた。
「自分は微力だが、決して無力ではない」
しかも見渡す限り、電子機器や家電の廃棄物が地平線を覆うばかりに広がっていた。
ここは西アフリカ、カカオ豆の産地として知られるガーナ共和国。大西洋に面する首都アクラの近郊、世界最大の電子廃棄物の墓場といわれるアグボグブロシーがある。
かつてはマングローブが群生する緑豊かな湿地帯だった川の中州に、先進国から毎年50万トンもの電子機器廃棄物が持ち込まれ、溜まったその量は東京ドーム32個分にもなるといわれている。この街の存在を真護はある経済誌がきっかけで知った。
アグボグブロシーのスラムに暮らす16部族3万人の住民は、ゴミの山から廃材を取り出し、バラックの家を建て、電子ゴミを燃やし、残った金属を売って暮らしていた。だが丸一日働いても500円にもならない。
しかも廃棄物には錫や水銀、ヒ素、カドミウムなどの有害物質が含まれているため、汚染された空気を吸い込み、病に蝕まれ、若くして命を落とす人たちもいる。
大量生産・大量消費社会が生み出すひずみを知ってはいたが、この地の惨状には目を覆うばかり。まさにこの世の地獄である。
'09年から路上画家として、世界で15以上の国と地域を旅してきた。
絵だけでは当然、食べていけない。そのためスマホやiPadを安く仕入れ、日本で売る。つまり“せどり”をしながら生きてきた。ここはそうした電子機器の墓場なのである。この現実から目を背けてはいけない。
「僕がしてきたことがアグボグブロシーの人たちの命を縮めている。その現実を目の当たりにして自分にほとほと嫌気が差しました」
その一方でこの環境をなんとしても変えたい。自分に何かできることはないのか。そんな思いが込み上げてきた。
「自分は微力だが、決して無力ではない」
スラムの現実を描き、世界に知らしめる。そして、もうひとつ。リサイクル工場を造り、雇用を生み出して、この劣悪な環境から必ず皆を救い出す。
真護はスラムの現状を訴える仲間たちに帰国の前日、そう誓った。
成績優秀な姉と比べられた小中学校時代
その翌年3月。真護は東京・有楽町の「東京交通会館」で個展を開いた。
番組『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)でも知られる株式会社トーイズの北原照久さんの推薦だった。北原さんは真護の才能を高く買っていた。ここで、奇跡が起きる。
「たった1日の個展。それにもかかわらず、現地の少年の顔のまわりを電子ゴミで埋め尽くした油絵『Ghana's son』が1500万円の高値で売れたんです」
真護はそれまで水墨画を得意としてきた。しかし油まみれで電子機器を焼き、金属を手に入れる、まさにゴミから糧を得る“スカベンジャー”たちの生命力を表現するには水墨画では弱い。
だが真護はこれまで油絵を描いたことも勉強したこともなかった。それでもアグボグブロシーをなんとかしたい。そんな思いで絵筆を握った。
真護の絵には、これまで1枚20万〜30万円の値段しかついたことがなかった。
「アグボグブロシーと出合って芸術家として一皮も二皮もむけた。そう評価され、素直にうれしかった。その反面、なぜそんな高値で絵が売れたのか、一晩中寝ずに考えました」
行動こそ真実。それが真護のポリシー。その思いから、たった1人アグボグブロシーの橋を渡った。現実から目を逸らさず、電子廃棄物と向き合い、油絵を描いた。
「力を尽くして、狭き門より入れ」
これが運命の扉を叩く瞬間であったことにこの時、真護はまだ気づいていなかった。
恐竜王国としても知られる福井県福井市で1984年、長坂真護は生まれた。小学校に上がる前に両親は離婚。母と祖父母に育てられた。
「2歳上の姉は福井県で一番の進学校に合格するほど優秀でスポーツも万能。おまけにピアノもうまかった。それに比べて僕は、小学校入学当時から、机に座って先生の話を聞くのが苦手。時には算数セットを床に撒き散らして授業の邪魔をする。いわゆる問題児で、母は何度も学校に呼び出されました。中学では野球部に入ったものの集団行動ができず、先輩たちに目をつけられ、呼び出されて何度もボコボコにされました」
持って生まれた性格なのか、何をやっても続かず、優等生の姉と比べられコンプレックスは膨らむばかり。そんな真護の唯一の楽しみは絵を描くこと。小遣いで買った、植物や動物の図鑑をひたすらまねて描いていた。高校に進学すると音楽に目覚めた。ピアノやギター、ベース、ドラムスを演奏できるようになると、ロックバンドのGLAYに憧れ、ライブハウスで腕を磨いた。
「スポーツも万能でテニス部に所属しながら、オリンピックスポーツにもなったBMX(自転車)にもハマり、専用施設で血まみれになりながら練習していました。一度究めたくなったら、とことんのめり込む。長坂は何かしらで有名になると、当時から思っていました。将来は海外で仕事がしたい。そんな思いから月に1度、英語の先生から英会話の個人レッスンを受けていたことも印象に残っています」
中学、高校の同級生・藤井秀成さんは、当時をそう思い返す。工業高校ゆえ、ほとんどの同級生が卒業後、就職していく。しかし真護には自分が就職するイメージがどうしても湧かなかった。そして音楽を理由に故郷を後にする。
「サラリーマンになって、企業のコマとして働くのは自分にはできそうにないと思った。とにかく東京に行きたかった」
自分の才能を信じた真護だったが……
もともとデッサンやファッションに興味があったこともあり、東京の文化服装学院に進学した真護は、たちまち頭角を現す。全国レベルのコンテストで、7回も入選。いつしか“コンテスト荒らし”と呼ばれるまでになっていた。
卒業を間近に控え、進路を決める大事なコンテストが行われた。優勝者はロンドンの服飾専門学校に1年留学することができる。
真護は満を持して応募した。
「デザインのプレゼンテーションはもちろんのこと、ライブペインティングまで披露。驚く審査員たちを見て、これは絶対にイケる。そう確信していました」
ところが蓋を開けてみると、優勝したのは同じクラスの別の生徒。希望に満ちた真護の未来は残酷にも閉ざされた。
「君は実力があるんだから、留学する必要なんてない」
と審査員の1人に慰められたが納得はいかなかった。
その日のうちに母に電話して、「僕には才能がある。だから、ロンドンに留学させてほしい」と懇願した。黙って聞いていた母は突然、大声を上げた。
「あんたが3年間で成長したのは、鼻だけだったのね。天狗になっている!」
それを聞いて、腹が立った真護は怒りをぶちまけた。
「二度と僕の人生に口出しするな。自分の力で行ってやる」
涙があふれ、嗚咽が止まらなかった。
「なんでみんな、わかってくれないんだ」
新宿の街の中に立ち尽くし、
―金を稼いで母を、世間を見返してやる。
そう心に決めると真護の足は歌舞伎町に向かっていた。
誰にも頼らずお金を稼ぐにはもうホストになるしかない。
そう覚悟を決めて真護はホストの道に足を踏み入れた。だがその世界には、途轍もなく過酷な競争が待っていた。
「お客さんとまともに話もできない僕につけられたあだ名は“地蔵”。最初は、1日14時間働いて僕の給料は月にたった4万円。まったく稼げませんでした。しかも初めてついてくれたお客さんにツケを踏み倒され、100万円の借金を肩代わりする羽目になり、さすがの僕も目が覚めました。生まれ変わった気持ちで閉店後に歌舞伎町を行き交う女性たちをナンパしまくり、指名を勝ち取っていきました」
そのかいあって入店8か月後には、ナンバーワンホストになることができた。
「人気のあるホストは、話術が巧みか、絵に描いたようなイケメンかのどちらか。どちらにも手が届かない僕は、お客さまが思わず応援したくなるようなキャラを演じてナンバーワンを目指しました。その結果、1年間で3000万円以上稼ぐことができました」
ところが好事魔多し。世の中は真護が考えているほど甘くはなかった。
「3000万円も貯めたのだから留学ではなく、一足飛びに起業しよう」
ホスト時代の成功体験から高い鼻がまた疼き始めていた。真護は社会経験などまったくないのに、「会社をやっても絶対うまくいく」そう過信し、稼いだお金をすべてつぎ込み、自身のファッションブランドを立ち上げた。そんな脇の甘い世間知らずの“天狗”を騙すことなど、詐欺師にとっては赤子の手をひねるより簡単なことだった。起業を相談した知人から、「君はまだ実績がないからメーカーとの取引ができない。僕の口座を使わせてあげよう」そんな甘い言葉につられ、いとも簡単にお金を全額騙し取られた。販売も行ってくれる約束だったのに、商品が売れる気配は一向になかった。
「わずか1年間で貯金は溶けてなくなり、在庫を抱えたまま、さらに1000万円の借金を背負う羽目になりました」
自分史年表には、「23歳でファッションブランドを立ち上げ、30歳でミラノに支店を出す」そう思い描いていた真護の夢はもろくも崩れ去った。無一文どころか借金まみれになった真護は、このときやっと母の言葉が骨身に沁みた。
“ビッグマウス”でつかみ取った成功
付き合っていた女性に食べさせてもらったり、知人の家を転々としたり、時にはネットカフェにも泊まった。
「僕に何が残っているだろう」
すべてを失い絶望の淵に立たされた。手元に残されたのは数本の筆と墨と越前和紙だけだった。もちろんギャラリーなど借りられる状況ではなかった。
路上なら貧乏人にも金持ちにも平等ではないか。そんな思いから'09年3月6日。真護はホスト時代の白いスーツに身を包み、新宿駅東口に立ち大きなキャンバスに向かって絵筆を走らせた。
「路上でのパフォーマンスは違法だと、警察と何度もバトルになることもありました。中古自動車に画材を積み、車の中で寝泊まりしながら大阪や京都などの主要都市を回ることも。それでも絵はほとんど売れず、中古自動車のローンや経費が重くのしかかってくる」
そんな苦境を見かねて、地元、福井の友人が県会議員を紹介してくれた。
そのおかげで、東京のビッグサイトで行われる福井県のイベントから声がかかった。
「越前和紙に恐竜の絵を描けないか」
恐竜どころか、本格的に和紙に絵を描いたことさえなかったのだが、真護は「できます」と即答し、成功させたのだ。
そんな真護のパフォーマンスが認められ、毎年、延べ30万人が集まる音楽の祭典「サマーソニック」の関係者が、アートのイベント「ソニッカート」に参加しないかと声をかけてきた。参加できるアーティストはわずか10人。候補者リストには100人近いアーティストの名前が登録されていた。真護は恐竜展でチャンスをくれた福井県議に相談。地元の新聞やテレビ局を紹介してもらい自らを強烈に売り込んだ。
「僕はサマーソニックのソニッカートに出演するんです。25歳で最年少。最年少の出場者が福井県から出るんですよ」
そうしたアピールが実り、さまざまなメディアが大きく取り上げてくれると約束してくれた。
そこで真護は決まった番組や新聞、雑誌の一覧表を作り、「ソニッカート」の関係者に提出して畳みかけた。
「費用対効果は膨大なものになります。少なく見積もっても200万人が『サマーソニック』『ソニッカート』を知ることになりますよ」
強気のプレゼンが功を奏して、真護は出演を勝ち取った。時にはビッグマウスも使いよう。言い切ることで、絶対に成功しなければならない。
プレッシャーを自分にかけることもできる。これこそが「真護流の成功術」なのだと胸を張る。この真護のビッグマウスは、さらなる成功を呼び込む。
「『ソニッカート』のパフォーマンスが芸能関係者の目に留まり、テレビ番組で、絵を描く仕事が舞い込んできました」
路上画家だった自分が全国放送で絵画を発表できる。願ってもないチャンス。しかも番組のエンドロールに、毎回自分の名前が流れるなんて。真護はたちまち有頂天になった。しかしこの喜びも長くは続かなかった。
「周りからは成功者のように見られましたが、スタッフの意のままに絵画を描く自分が、まるで手錠をはめられているようで嫌になったんです」
加えて事務所関係者から釘を刺されていることもあった。
「おまえには、人を惹きつける力がある。それは才能だけど、しかしその後がない」
確かに当時、真護が描いていたのは平凡な美人画。器用な人であれば、誰にでも描ける。自分の絵の拙さは、自分がいちばん知っていた。
「変わらなければならない。それならビッグマウスが通用しない海外で勝負してみよう」
'12年、27歳になった長坂真護は、単身ニューヨークへ武者修行に旅立った。
悩む自分をすくい上げてくれた“人”と“月”
しかし現実は厳しかった。毎日路上で巨大な越前和紙に筆を走らせてはみたものの、忙しいニューヨーカーたちは足早に通り過ぎるだけ。
雨が降ると和紙が破れ、墨だらけになることも一度や二度ではなかった。
「ライブを行わない日は、ギャラリーを回って展示会の売り込みにも精を出しました。しかし500店舗ほど回ってみても、どこも作品はおろか話さえ聞いてくれない。これがニューヨークでの現実でした」
このままこの生活が続くと心が蝕まれていくのは目に見えていた。
「どうせ絵が売れないのなら、名画がたくさん残るヨーロッパで武者修行を続けよう」
そう考えた真護は心機一転、1年半に及ぶアメリカ生活を切り上げ、渡航費用を工面するために日本へ一時帰国した。
これが真護に、思わぬ幸運をプレゼントすることになる。神様はまだ、真護を見捨ててはいなかった。
「越前和紙に水墨で女性の横顔を描いた作品を見たとき、めちゃくちゃ良くてビビッときた。この人はこれから絶対世の中に出る人だと思いました」
そう語るのは、リグナ創業者で投資家の小澤良介さん。
アートコレクターでもある小澤さんが家具やアート、カフェなどが入ったライフスタイルショップ『リグナテラス東京』で真護のために個展を開いてくれた。
「最初は絵でお金儲けをしたい人なのかと思った。でも話してみると自分なりの思想を持って取り組んでいる。ただの絵描きじゃないことがわかりました」(小澤さん)
真護の絵を見てただ者ではないと見抜いた人がほかにもう1人いた。世界的なおもちゃコレクターで、現代アートにも造詣の深い北原照久さんだった。
「君の作品には魂を感じる」
北原さんは真護が東日本大震災の後に描いた絵画を気に入り、1枚買ってくれた。それだけではなく神奈川県佐島にある、相模湾を一望できる自身の別荘にも招き入れてくれた。
歴史的な建造物に加え、北原さんが収集し、展示されたさまざまなアート、壮大な海の情景に真護が酔いしれていると、
「これからは夢を現実にしている人間と一緒にいなさい。ネガティブな人間と一緒にいては絶対ダメ。それが現実になってしまうから」
北原さんは、そう夢を実現する心構えを語っていた。そんな真護の忘れられない言葉がある、と彼は振り返る。
「真護君は、当時からアートで世界を変える。世界の3大画家『ピカソ、ゴッホ、真護』になると夢を語っていました」
ビッグマウスはいまだ健在。こうした出会いが真護にさらなる飛躍のチャンスを与えた。30歳を前に訪れたヨーロッパを巡る旅で、真護はあるヒントをつかむ。
「バルセロナでは、サグラダ・ファミリアを設計したアントニ・ガウディの圧倒的なデザイン力と、パブロ・ピカソの卓越したリアリズムを通してたどり着いたキュビズムに圧倒された。この2人の作品を通して、自分はまだ中途半端な表現の世界にとどまっていることを突きつけられました」
画家として先人たちの名作と対峙すること3か月。資金を使い果たした真護は帰国すると福井の実家にこもり、創作活動に没頭する。
そしてヨーロッパ武者修行の成果なのか、美人画の代表作を次々に発表していくことになる。
「大量消費社会への疑問を訴えかけた『無精卵を被る女』、人を産まないための道具コンドームを拳銃にかぶせた『2丁拳銃の女』は高い評価を頂き、その売り上げで築50年のマンションを借りることができました」
だが、ヤドカリ生活に別れを告げたばかりの真護に、ショッキングなニュースが飛び込んでくる。
'15年11月に起きた「パリ同時多発テロ」である。
犠牲者は130人にも上るテロ事件史上最悪の惨劇。生と死や世界平和をテーマにした作品を多く手がけるようになっていた真護は、急きょ再びパリを訪れた。
「いちばん被害に遭ったバタクラン劇場のテロ現場を訪れると、何十発にも及ぶ弾痕が生々しく残されていたんです」
そのころ、反戦のメッセージを込めて『2丁拳銃の女』を描いたばかりの真護は、こんな女性の裸の絵を描いている自分に嫌気が差し、今後の人生を考え直そうとパリの安宿に閉じこもった。
「するとある夜、窓から何げなく見上げた夜空に満月が浮かんでいたんです。もし途轍もない満月が佇んでいたら、その日ばかりは悩みや野心を忘れ、みんな月を眺めるに違いない。そんな日の一瞬に平和が訪れるのではないか」
そんな思いから真護は、『世界平和の空気清浄器、満月』を発表。
当時ギャラリストの間では「今さら月?」「使い古された題材」と酷評されたが、真護の「満月シリーズ」は、今や一点2000万円を超える作品も生まれ、ガーナのゴミを使った作品に次ぐ代表作となった。
芸術で向き合う自然環境と廃棄物問題
真護のパリ再訪は、人気の「満月シリーズ」を生んだだけではなかった。パリ滞在の最終日、画家の真護が社会活動家として羽ばたく、大きなヒントを手に入れた。
それが自然環境を守りながら資源を効率的に循環させる「サステナブル」という考え方との出合いである。
「アーティストの中には社会問題を提示する人たちもいます。バンクシーがその代表でしょう。ただ、現代社会のさまざまな歪みを示してはいるものの、問題自体を解決する糸口はありません。だから僕はもう一歩踏み込んで“問題解決”まで引き受けてやろうと思ったんです」
ガーナ・アグボグブロシーで真護がやろうとしていることが、まさに「問題解決」に迫る壮大な挑戦に違いない。
「電子機器の廃棄物を利用してアートを作る。作品を作れば作るほどゴミは減ります。しかもアグボグブロシーの現実を世界に向けて発信することができる。そしてアートを売ったお金で現地にリサイクル工場を造り、雇用を増やしていく。そのために自分の報酬は売り上げの5%。必要経費や税金を差し引いた後の収益はアグボグブロシーで行う事業に使う。これが、僕が考える持続可能な資本主義『サステナブル・キャピタリズム』です」
初めて訪れてから5か月後。真護は有害物質に汚染された空気から身を守るためにガスマスク250個を持って、再びアグボグブロシーを訪れた。
翌年にはスラム街初となる無料の学校「MAGO ART AND STUDY」を建設。'19年には、電子廃棄物美術館「MAGO E―Waste Museum」を開館。できあがるまでの53日間をエミー賞を受賞したカーン・コンウィザー監督が撮影して、ドキュメンタリー『Still A Black Star』として公開されている。そして迎えた'21年。真護は新たな決意を胸に現地を訪れていた。
「環境、雇用、教育、文化、エンタテインメントといったさまざまな課題を一挙に解決するためには、アグボグブロシー近郊に新しい街を建設して産業を育成する。そんなプランがひらめきました」
その計画を実行するために真護は現地法人を資本金50万ドルで立ち上げ、農業にも着手した。
「オリーブの木やスーパーフード・モリンガの木は二酸化炭素を多く吸収するサステナブルの優等生。農家からモリンガを買って製品化にも着手しています」
'21年末には小規模ながらプラスチックのリサイクル工場も完成。ビーチクリーンからピックアップした衣類から人工ダイヤモンドを作る。さらにバイク好きのガーナ人のために「MAGO MOTORS LTD.」を設立。すでに電気自動車の製造にも着手している。こうした真護の活動に心を動かされた1人が元Jリーガーでバリュエンスホールディングス株式会社社長の嵜本晋輔さんである。
「真護さんが考えている“ゴミをアートに変える活動”はまさに唯一無二。その背景にあるストーリーを聞いたとき、衝撃を受けました。この理念は“地球、そして私たちのために循環をデザインする”という弊社の理念とも合致する。'22年に上野の森美術館で開催された個展もメインスポンサーとしてサポートさせていただきました」
そんな真護を病魔が襲ったのは'24年のことである。現地を訪れた際、ウイルスに感染。日本に帰国後、「長胸神経麻痺」と診断され、右腕の動作が不自由となり、創作活動にも支障をきたしている。そんな真護に北原さんはエールを送る。
「彼は自分の利益を犠牲にしても、他人の幸福や利益を優先する“利他”の人。神の子だから、どんな苦難が与えられても必ず克服する」
'25年、故郷・福井で凱旋個展を行うために真護は、数か月間「森」とともに過ごした。
絵を描く行為そのものを奪われた真護は「表現者として生きる意味」を問うた。すると、
─筆を持てないなら、おまえが筆になればいい。
「森」はそう答えた。
越前和紙を敷きつめ、真護は自らが墨を浴び、命の記録ともいうべき大作『Moon in the Forest』に挑んだ。森の浄化の力に満たされ、真護の中で息を潜めていた創造の炎が再び燃え上がった。
絵を描くというたったひとつの喜び。その喜びこそが、やがて混沌とした世界を平和へ導く力になる。
真護は改めてそう確信した。
取材・文/島右近

