2016年にデビュー後、単行本2冊目の『襷がけの二人』が直木賞候補となり、3冊目の『カフェーの帰り道』で第174回直木賞を受賞した嶋津輝さん。『カフェーの帰り道』は、大正から昭和にかけて、上野のカフェーを舞台に、女給たちの生きる姿を描いた短編集だ。
書き上げるまでに4年も
「女性がわちゃわちゃと集まって働いている小説を書きたかったんです。編集者さんからいただいたアイデアの中に女給という仕事があり、同じころに別の会社の編集者さんから『女給の社会史』という本を頂戴したことも重なって、女給さんのお話を書いてみようと思いました」
本作では時代が大正末期から昭和初期、戦中、戦後と流れる。前作の『襷がけの二人』も同じころの時代が舞台となっている。
「小説なら幸田文や有吉佐和子、映画なら小津安二郎や成瀬巳喜男と、自分自身もそのころの物語が好きなんです。ただ、実際に書いてみると、例えば戦後の魚屋に何が売っていたのかなど、調べてもわからないことがたくさんあり、『襷がけの二人』は書き上げるまでに4年もかかりました。今回の作品もさまざまな資料を参考にして、執筆しました」
第一話『稲子のカフェー』は、とある事情を抱えた稲子が、上野の片隅にある“カフェー西行”を訪れる場面から始まる。
「最初は、当時人気があった竹久夢二の美人画に似た女給さんを主人公にして、その目線で物語が進むという程度のアイデアしかありませんでした。でも、『満足のいく文章を書こう』と思って書き始めたので、一話目の前半は気合が入った文章になっているように思います」
物語は上品な奥様である稲子と竹久夢二の美人画に似た女給・タイ子の視点で交互に展開する。稲子とタイ子の女同士の確執が展開されるのかと思いきや、物語は意外な方向へ進んでいく。
「二人がお互いに敬意を表する関係であることは、意識して書きました。私自身、綺麗な女性や素敵な香りがする女性に接するといい気分になるタイプなんです。タイ子に対する稲子の言動には、こうした私の性質が反映されているような気がします」
第二話『嘘つき美登里』は、遊び感覚で嘘をつく女給・美登里の視点で描かれている。ある日、「女給募集 19歳」という求人の張り紙を見て、自分は19歳だと主張する中年女性の園子が応募してきたのだが─。
「私は起伏のあるお話があまり思い浮かばないので、年齢的にも体格的にも女給さんの枠からちょっと外れた人物を出してみようと思いました。園子は品がいい人なのですが、ちょっとズレている女性なんです」
そんな園子を即採用した店主の菊田は、店名を「カフェー アウグスティヌス」とするつもりが、「アウグイステヌス」と文字を間違えて看板を作成し、看板の前に西行法師の置物を置いてごまかしている。ゆえに店は、“カフェー西行”と呼ばれている。
朝ドラ『虎に翼』の影響を受けた登場人物も
「もともとお店の前に特徴的な焼き物が置いてあるという設定を考えていて、インターネットで見つけたイメージどおりの焼き物が、歌人の西行を模したものだったんです。上野という場所柄、東大の教授などもお客さんとしてやってくるので、菊田さんはカッコいい哲学者の名前を店名につけたつもりだったんですよね。それが図らずも“西行”と呼ばれてしまう」
5編の収録作のうち、唯一、最初から思い描いたとおりに書けたのが第三話の『出戻りセイ』だという。小説家志望だったセイは諸事情により、30代で女給に戻った人物だ。
「セイは第二話の脇役で、厄介な人という印象でした。でも、執筆するなかで私のセイの見方が変わっていきました。本書を読んだ方からも、好意的なご意見をいただくことが多いです」
セイは、客である理容師の向井正一のアドバイスを受け、髪形や服装を変えるうちに自分に自信を持てるようになる。戦時へと移ろう時代の中で、セイと向井の距離は少しずつ縮まっていく。
「向井は私自身、気に入っているキャラクターです。NHKの朝ドラ『虎に翼』の影響もあって、向井のイメージは、そのドラマの戸塚純貴さん演じる轟太一なんです。轟さんの姿を思い浮かべて、胸をキュンキュンさせながら書いていました。ちなみに“向井正一”は、残留日本兵の横井庄一さんのお名前をもとにしています」
第四話『タイ子の昔』では、戦時下のタイ子の様子が、第五話『幾子のお土産』では、これまでの登場人物たちの終戦から5年後の姿が描かれている。
「一話目を書き終えた時点で、二話目から五話目までのイメージをざっくりと決めていました。けれど、どのお話も手探りの状態での執筆となって、四話と五話に至っては予定よりもだいぶ時間がかかってしまいました。最後の段階でかなりの修正を入れたこともあり、本の状態で目にしたとき、『気になる箇所はすべて修正できた』、『恥ずかしくない仕上がりになった気がする』と思いました」
『カフェーの帰り道』というタイトルも、生み出すまでに難儀したそうだ。
いると思うだけで幸せな存在は
「私は小説教室に通って小説を書き始めたのですが、そこで出会った友人に助けを求めるほど、タイトル決めには困りました。当初は『女給日誌』とつけるつもりでしたが、ノンフィクションのような印象を受けるというご意見を頂きまして……。
試行錯誤の末、登場人物たちがいつも、“カフェー西行”からの帰り道に想いを巡らせていることもあり、『カフェーの帰り道』というタイトルになりました。自分では登場人物たちをかなり細かく書き込んだつもりなので、読者の方が愛情を感じる人物を見つけていただけたらとてもうれしいです」
最近の嶋津さん
「三九という名の3歳のメス猫と暮らしています。私は16時ごろから仕事に集中し始めることが多いのですが、その時間に限って、三九に遊びに誘われるんです。知らんぷりをしていると、机に飛び乗ってパソコンの前に横たわるので、覆いかぶさるようにしてキーボードを打つことも(笑)。外出をしていても、家に三九がいると思うだけで幸せです」
取材・文/熊谷あづさ
嶋津 輝(しまづ・てる)/1969年、東京都生まれ。2016年、『姉といもうと』で第96回オール讀物新人賞を受賞。2019年、同作を含む短編集『スナック墓場』で単行本デビュー(文庫化にあたり『駐車場のねこ』と改題)。2023年刊行の長編『襷がけの二人』で第170回直木賞候補に。2025年刊行の『カフェーの帰り道』で第174回直木賞受賞。『猫はわかっている』『私たちの特別な一日 冠婚葬祭アンソロジー』などの選集にも作品が収録されている。

