精神科の診察室のドアが、次々と開いては閉じていく。
東京・小平市にある国立精神・神経医療研究センター(NCNP)外来には、この日も朝から多くの患者が訪れていた。
中には数か月待ちで診察を受ける人もいる。
理由はただ一つ。
「この医師に診てもらいたい」
そう願う人が後を絶たないからだ。
社会が目を背けがちな問題に向き合う精神科医
薬物依存、自傷行為、自殺─社会が目を背けがちな問題と、真正面から向き合い続けてきた精神科医、松本俊彦さん(58)。
覚醒剤事件で世間を騒がせた清原和博や、ミュージシャンで俳優のピエール瀧の裁判でも医学的立場から証言し、大きな注目を集めた。だが松本さん本人は、淡々とこう語る。
「有名人も一般の人も、僕にとっては同じ患者さんです」
依存症治療の第一人者となった松本さん。その出発点は、意外なほど偶然に満ちていた。
荒れた中学で過ごした少年時代
松本さんが生まれ育ったのは、城下町の神奈川県小田原市だ。実家のベランダからは小田原城の天守閣が見えた。家業は祖父が創業し、父が拡大させた製麺工場を営んでいたという。
「祖父が戦争から戻り、勤めていた会社もなくなったため製麺工場を始めたんです。小さい工場だったのを父が学生のときから手伝って、その後、引き継いで、大きくしました。そして工場を食品会社に売り、不動産業を始めたんです」
そんな中で年子の妹と、年の離れた弟、きょうだい3人の長男として育った。
「うちは“教育不熱心”でした。でも、僕は変な子どもだったので、中学のときからクラシックとか聴いていたんです。それを親父が嫌がりましたね。『そういうのは金を稼がないやつが聴く音楽だ』って……。僕にとって父は話すのが嫌になる人でした(笑)」
中学校は、漫画やドラマの舞台さながらのヤンキー学校で、校内暴力やシンナーが蔓延するテレビドラマ『スクール☆ウォーズ』のように荒廃していた。警察官が暴れる同級生を羽交い締めにし、パトカーに押し込む場面にも遭遇した。
「クラスの半数がシンナーを経験しているように思ったし、窓ガラスが常に割れているような状況でした」
松本さんは陸上部で長距離走に打ち込みながら、生徒会役員もしていた。校内暴力に直面し、板挟みになったこともある。
「先生と生徒でもめ始めると、生徒会役員が止めに行かなきゃいけない。僕の不良の友達は見境がなく、キレると怖い。間に入ると、両方のパンチが自分のほうにくる。だから、暴動が起きるとお腹がグルグル痛くなって、トイレにこもっていたりしましたね」
高2のころ、大学に進学したらひとり暮らしをしたいと思っていた。
「もともとは新聞記者になりたかった。そして、タバコを吸いながら文章を書く環境を手に入れたかったんです。それには、なんとしてもひとり暮らしをしたかったんです。家業を継ぐことや、地元の狭いコミュニティーに埋没することに強い危機感を抱いていました」
「ここから出なければ、自分はダメになる」
“ここから出なければ、自分はダメになる”という切実な思いがあったという。
「“大学は文学部に行きたい。そして下宿したい”と言ったら、父親に反対されました。“小田原から東京の大学に通える。まあ医学部なら話は別だが”と言われたんです。調べると、医学部は6年で、モラトリアム期間が長い。だから医学部に行きたいと思ったんです。医者になりたいからではなかった」
そんな理由から人気精神科医が誕生したとは。しかも、当時の松本さんの救いは文学だったという。
「高2のとき、よく行っていたのは市立図書館でした」
その図書館は当時、実家から見える小田原城址公園内にあった。
図書館では文学や哲学書を読んだ。そこで精神科医の加賀乙彦の小説『フランドルの冬』に出合う。それが精神科医を目指すきっかけだった。
「全編にわたって憂鬱な感じなんです。精神科医なら陰キャでもできるなと思ったんです。俺でもできるんじゃないか。精神科医は医者っぽくないみたいだし、という発想があった気がします(笑)」
高校卒業後、佐賀医科大学に進学した。かつての首相、田中角栄は一県一医大構想を打ち出した。医学部がない県には単科の医科大をつくり、その流れでできた大学だった。
「僕は数学や物理、化学が苦手だったんです。佐賀医科大は独自に面白い学生を集めようとしていたのだと思いますが、当時の2次試験が、長時間かけた小論文だったんです。だから文系の人でも入りやすいところだったんですよね」
大学ではどんな生活を送ったのか。
「少なくとも僕らの学年までは、出席を取らない、留年生がいない、試験一発勝負で、10年の間に単位を全部取ればオッケーでした。だから僕も本当にあのころ、授業に出なかった」
それでも6年で卒業できた。
「本をずいぶん読めた。時代はバブル期だったんだけど、田舎なんでそんなバブルチックな遊びもできない。当時はレンタルビデオが華やかなりしころで、いろんな映画を見ました」
運命の出会いも果たす。医学部の同級生で、実習で同じグループだった、のちに妻となる女性と出会ったのだ。
「当時彼女だった妻が、いろいろと教えてくれたから落としがちだった単位も途中から落とさなかった。医者になれたのは妻のおかげでもありますね」
熊本出身の彼女と同棲していた松本さん。卒業後に住むところはお互いの第2希望で横浜に決まり、横浜市立大の研修医として働いた。
「このころ、精神病理学や精神分析に関心を持っていたんです。そのため、横浜市立大で脳外科、神経内科、精神科、救命救急センターで、それぞれ半年ずつ研修しました」
じゃんけんで決まった「依存症医師」
松本さんは当初、なんでもこなす一般的な精神科医になろうと考え、チャンスがあったら開業でもしようと思っていた。その後、1年間、総合病院精神科での勤務を経て赴任したのが、神奈川県立精神医療センターだった。
「希望で行ったんです。定年まではここにいたいなと思っていました。この病院は一般の精神科と、精神科救急、つまり、外で暴れて警察官に保護されてくるような人たちを診るところでした」
依存症の担当医が辞めたとき、後任はなかなか決まらなかった。依存症治療は精神科医の間でも人気がない分野だったからだ。
「誰か行ってくれないか」
医局の空気は重かったという。若手医師たちの間に沈黙が流れる。そのとき松本さんが重い口を開いた。
「じゃんけんで決めませんか」
軽い冗談のつもりだった。しかし─負けたのは自分だった。
「あのときは正直、自分のキャリアは終わったと思いました(笑)」
しかし、その偶然が、日本の依存症医療を牽引する精神科医を生むことになる。
「司法関係や自殺関係の仕事をしたりもしたので、若干外れた時期もあったんですが、最終的には依存症の臨床に生かすため、という意識があったのは事実です。丁寧に臨床の研修を積んで、依存症についてもわかった気になっていたんです」
依存症の病院では、これまで学んだことは何も通用せず、無力感にとらわれた。健康被害について説教や叱責をしても無駄だった。患者に薬物をやめさせることができない。担当していた患者が小田原城の天守閣から飛び降り自殺をしてしまったこともあった。
そんなときにモチベーションを高めた出合いがあった。薬物依存から回復し、社会復帰を目指す民間のリハビリ施設「ダルク」だ。依存症から回復した当事者が、新たな利用者をサポートする現場を見てヒントをつかんだという。
「頼まれて、嘱託医になったんです。それがいい体験でした。彼らに引っ張り回されていろいろなところへ行って、当事者の言葉を聞くチャンスが増え、『医者より当事者のほうが治せるじゃん』って思いました」
そのころ、松本さんの臨床に大きな影響を与える出来事があった。
“夜回り先生”として知られる水谷修さんとの出会いだ。水谷さんは、夜の繁華街を歩きながら行き場のない若者に声をかけ、支援を続けてきた教育者である。
ある朝のことだった。病院の玄関には、開院前から水谷さんの姿があった。その後ろには、数人の少年少女が立っている。松本さんはその光景をよく覚えているという。
「水谷先生が、僕を見るなりこう言うんです。『松本先生、よろしくお願いします!』って」
連れてこられた子どもたちは、薬物だけが問題ではなかった。虐待を受けている子。自殺願望が強い子。怒りが爆発すると手がつけられない子。年齢を偽って売春をしていた子─。松本さんが医学部や大学病院で学んだ精神医学では、教えられなかった現実だった。
「この子たちの治療は、それまで自分が教わってきた精神医学と全然違うものでした」
しかし同時に、松本さんは気づいた。目の前にいるのは、診断名ではなく生身の人生を抱えた人たちだということに。その経験は、松本さんの依存症医療に対する考え方を大きく変えていった。
「依存症の人って、失敗すると“全部終わり”だと思ってしまうんです。でも人生ってそんなに単純じゃない。何度失敗しても、またやり直せるようにするのが医療だと思っています」
研究者としての転機
2004年に医療観察法が成立した。精神障害のある人が重大な犯罪を行い、心神喪失や心神耗弱で不起訴や無罪になった場合、専門的な医療や地域社会の援助を受けることになった。それに伴って、NCNPに司法精神医学研究部ができ、常勤の研究者を募集していた。
「不安だったんですよ。九州の小さな大学から来たのですが、それなりに信頼を得て、生きやすい環境を横浜市立大で手に入れたのに、そこを離れることは。根なし草になっちゃうかもと思い、学位をくれた教授に相談したら、『2、3年で戻っておいで』と言われました。僕もそのつもりでした。それなのに、気づいたらNCNPに20年もいます。NCNPに来てみると、こんなに情報あるの?って思って、離れにくくなっちゃった」
'07年には、NCNP内に「自殺予防総合対策センター」が設置された。当時、年間自殺者は3万人台が続いていた。そこで、議員立法で「自殺対策基本法」が制定され、センターの設立はそれを受けたものだ。センターも研究者を公募していたが、特に精神科医が集まらないでいた。そのため、白羽の矢が立った。自殺対策に関わるのも、松本さんが積極的に選択した結果ではなかった。
「そのときも上司に相談しました。『(センターに)行ってきたら』と言われました。でも、複雑な気持ちでした。『俺、要らないって言われているのか』と思っちゃったり。で、妻に相談したら、『いいじゃない』と言われて、センターに行ったんです。最初の1年は、司法精神医学研究部と兼任で、その後、自殺予防と薬物依存研究部と兼任でした」
センターでは、心理学的剖検という、遺族を情報源として、故人の人生や亡くなる直前の様子について聞き取る手法だ。「なぜその人は自殺したのか」を探った。
自傷と自殺研究の最前線へ
実は、自殺予防の仕事に携わる数年前、'00年ぐらいからリストカットの研究を始めていた。今では、依存症の患者と自傷行為や自殺を結びつけることがあるが、当時は、教科書的文献には載っていなかった。のちに、その成果は『自傷の文化精神医学』(金剛出版、2009年)という訳書や、著書『自傷行為の理解と援助』(日本評論社、2009年)に著され、いずれも先駆的な書籍になった。
「'00年当時、依存症の患者さんたち、特に若い女性の薬物依存の人を診ていると、リストカットや自殺も多かった。患者さんから“南条あやさんの『卒業式まで死にません』(新潮社、2000年)という本を読みました?”と聞かれました。
“とにかくあの本を読んでから私に向き合ってください”と言われたことも。このころから、精神科に来る人たちが一気に変わってきたんです。だから客観的なデータで何が言えるかを研究してみようと思って、英語の論文も書いていた。当初は司法精神医学と関係ないと思っていたので隠していましたが、どこかでバレちゃって(笑)」
依存症と自殺。どんなところでつながっているのか。
「今の依存症の治療の考え方にものすごく影響を与えた気がします。依存症の人たちって、多くが亡くなっているんですよ。僕らは過去に『お酒や薬をやめなかったら治療が始まらない』って言っていたんです。でも、その言葉は、亡くなったら意味がない。だから、『やめなくてもいいから死ぬのはやめよう』という考え方につながっていきました」
この考えは「ハームリダクション」と言われている。お酒や薬をやめられないときに、そのダメージを減らすことを目的にした公衆衛生政策理念のことを言う。
「そうした考えは、自殺した人の研究でわかってきました。遺族の話を聞いていると、目標設定を下げてあげれば、そんなに自分を責めなくてもよかった、と思うことはあります。あとは、医療以外の社会資源やネットワークの使い方やつながりはすごいと思いました」
有名人の治療も担う第一人者に
センターでの経験は、物質使用障害治療プログラム(SMARPP)での開発にもつながっていく。失敗を責めるのではなく、なぜ薬物を使いたくなるのかを分析し、より安全な対処法を共に考える手法。テキストを使って、グループで話し合うものだ。
また、全国の精神保健福祉センターとつながっていくときにも役に立った。
有名人の治療をすることも。元プロ野球選手の清原和博の治療にも深く関わった。
「清原さんには逮捕から1年くらいたってから会いました。当時は重度のうつ状態で、自殺の危険があるように感じました。彼が正確にどの段階から薬を使ったか、僕にどこまで正直に言っているかわからないですが、ある段階から、『とっくの昔に彼はうつになっていて、それを抜けるのに覚醒剤がすごくマッチしていたんじゃないかな』と思うことがありました」
また、俳優の高知東生の治療にも関わった。
「彼は、厚生労働省の麻薬取締官に逮捕されたんですよね。その捜査官から僕をすすめられたらしいです。彼もすごいバッシングを受けていたから、もうあちこち逃げ回りながらの生活だったんですよね。でも予約の日にはきちんと来ていました」
そうした依存症者が回復するのを見守り続けるしかない面もある。
「激しいバッシングで、彼自身、世の中の全部を敵に回したみたいな感じに追い込まれていました。あれだけ騒がれた印象があるから、マスコミも使いたくてもできない。依存症が問題なんじゃなくて、お金がなかったり、住む家がなかったり、あと、人生の目標が見つからなかったり……。でもそれって医者がどうこうできなくて」
'20年3月、厚生労働省の依存症理解の啓発イベントに、松本さんのほか、清原と高知も登壇する。啓発の効果はあったのだろうか。
「有名人が『自分も薬をやめるために病院に通っている』と言うと、あ、『俺も行ってみようかな』と思う人が増えるんだなと思いましたよ。最高の啓発です。このときは、患者さんがちょっと増えましたね。有名人はやはり発信力があります。一般の人にとってみればわかりやすい。ただ、そういう(依存症の)看板を背負って生きていくのが本当にいいのかどうか」
'19年にピエール瀧がコカインを使用したとして逮捕された。一時期、診察をしていた。
「裁判の情状証人となって証言台に立ったというつながりがあります。彼にも、イベントでの登壇について打診したことがありました。しかし、彼は断りました。自分は薬物依存症ではないし、回復したとか、反省したとかはやりたくないと。それだけは嫌だと。彼はミュージシャンなので、それが正解だと思います」
一方、高知は「ギャンブル依存症問題を考える会」の田中紀子さんと出会う。そして啓発イベントに登壇したり、'24年に公開された映画『アディクトを待ちながら』で薬物依存から回復を目指す主人公を演じた。
「死ぬのはやめよう」という医療
現代の子どもたちが抱える苦悩の背景には、SNS(Instagramなど)によるものが見え隠れする。
「人と自分を比較する頻度は多くなり、その中で多くの子たちが一般的に見たら可愛いといわれるような部類の女の子ですら、自分の顔の欠点みたいなものをいつも意識してコンプレックスを感じているんじゃないかと思っています。非常にメイクがうまいんだけど、メイクしないと外に出られない」
そうした10代の女性が最初に頼る場所はドラッグストアだという。
「一般の人は、市販薬と聞くと、お医者さんから処方される薬よりも効果はちょっと弱いけど、害が少ないって思っているんじゃないかと。しかし、実際はそうじゃない。医療では絶対使わなくなった薬が売られています。子どもたちが危険にさらされていると思っています」
そんな中で大人はどうしていけばよいのだろう。
「いろんなサインはあると思うんですが、その子らしくない行動があったときに、『何かあるんじゃないか』と、耳を傾けてほしいっていうか。子どもが簡単に話すとは思わないですが、聴く姿勢があるってことを見せることはとても大事なんじゃないかな」
土日は講演などで全国を飛び回る。何もしない日は数えるほどしかない。家にいるときは「寝ているか、何かを書いているか、車を洗っているか」だと話す。また、忙しさのため家族はほったらかしで、育児にもろくに参加できなかったという。そのため、「育児なし(意気地なし)」と苦笑する。
松本さんは長年にわたる愛煙家でもある。
「タバコだけはやめないっていう条件で結婚したんです」
そう言って笑う。依存症の患者の「やめられない苦しさ」を理解しようとしてきた精神科医。自らもニコチン依存を自覚している。
「依存って、人間の弱さでもあるけど、人間らしさでもあると思うんです」
理想論だけでは、人は救えない。だから松本さんは今日も診察室で患者に言う。
「やめられなくてもいい。でも、死ぬのはやめよう」
その言葉に救われる人が、確かにいる。
<取材・文/渋井哲也>

