タレント・歌手のはるな愛さん(撮影/矢島泰輔)

「こんにちは~! はるな愛です。地元大阪でみなさんとお会いできてうれしいです♪」

 桜色のレースが揺れるミニスカートにポニーテール姿のはるな愛さん(53)が両手を振りながらステージに現れると、会場のムードが一気に華やいだ。

セミナー講師として登壇したはるな愛

ピンチをチャンスにかえる形で思いついた「エアあやや」で大ブレイク

 3月上旬、この日は全日本不動産協会主催のセミナー「自分らしく生きる(LGBTQ)」の講師として登壇。スーツ姿の関係者や中高年の貸主たちが、その第一声に注目する。

 大きなスクリーンに映し出された赤ん坊のころの写真を指さし、はるなさんは笑った。

「これは本名・大西賢治として生まれたとき。男性自身がついていた証拠写真です!」

 参加者たちはたちまち和み、会場に笑いが広がった。

 明るい語り口の裏には、長い葛藤と痛みがある。2月に配信がスタートしたNetflixの映画『This is I』は、そんなはるなさんの半生を描いた作品だ。幼いころから抱えてきた性の違和感、周囲の偏見、家族との距離に悩みながらも、歌とダンスに夢を見いだし、理想の自分“アイ”として生きる道を選び、駆け抜けていく物語。

「LGBTQという重いテーマを扱っているけど、'80年代の歌謡曲を交えながら軽やかに描かれています。同じ悩みを持つ人だけでなく、そのご家族や周りの方にも見てほしいですね」

 講演では、トランスジェンダーであることで、賃貸入居を断られた経験も明かした。

「24歳で上京して、お部屋を内見したとき、大家さんが『あなたみたいなお嬢さんに借りてもらえたら』って喜んでくれてたのに、本名を書いた途端、『えっ、男性なの!? 家族世帯が多いから、そういう人に住んでもらうと困る』って」

 偏見は当時より薄れているものの、今なお残る現実だ。

 はるなさんは、社会への理解を深めようと、テレビに出始めた当時、本名をネタのように明かし、親しみやすさを印象づけた。だが、その立ち居振る舞いを通して、気づかされたこともあるという。

「同じ立場の人から感謝の手紙も届く一方、苦情もあったんです。『あんたのせいで“本名なに!?(笑)”っていじられる』って……」

 そんな経験を明かし、会場に優しく言葉を投げかけた。

「私みたいに前向きに公表できる人もいれば、そっと隠して生きたい人もいる。トランスジェンダー専用トイレも、そこに入ることで周囲に知られるから、使いづらいという声もある。いろんなスタンスで生きている人がいることを知ってほしいんです。
『はるな愛がそうやから、あんたもそうやろ』ってLGBTQを一括りにしないで。それぞれに人生と心があるから」

 締めくくりに歌ったのは、シンガー・KIRAと共作した楽曲『キミトワタシ』。
《キミとワタシって 全然違うから おもしろいのさ》

 語りかけるような歌声に、自然と手拍子が広がり、会場は温かな笑顔で包まれた。

はるな愛が慕う藤原紀香さん

ピンチをチャンスにかえる形で思いついた「エアあやや」で大ブレイク

「どんな状況でも笑顔で、人に愛を届けることを決してやめない人」

 はるなさんをそう表現するのは俳優・藤原紀香さん(54)。はるなさんからは「のり姉」と慕われる存在だ。

 2人の出会いは約25年前、東京・三軒茶屋のスナック。知人に「面白い店がある」と誘われ、訪れたその店を、はるなさんが1人で切り盛りしていた。芸能界で活躍する夢を追いかけていたころだ。

「とても明るくて、その場の空気を一瞬で温かくする愛らしい方でした。男の子として生まれたと聞いたけれど、私は最初から彼女を女の子としてしか見たことがないですね」(藤原さん、以下同)

 はるなさんは生活に余裕がない中で、小さな店で生計を立て、努力を続けていた。

「心にさまざまな葛藤や痛みを抱えていたはずなのに、いつも笑顔でお客様一人ひとりを精いっぱい楽しませていました。私も上京して心が折れそうな日もあったけれど、彼女のお店に行くと自然と元気になれました♪」

 親交が深まると旅行に行き、温泉にも一緒に入る仲に。

 藤原さんは、はるなさんの半生が映画になると知り、「何でも言って。私でよければお手伝いさせてね」と声をかけた。当初は彼女に冷たく当たる役が用意されたが、「どんな些細なお役でもいいから“応援する”役がいい」と切望。アイの才能を見いだすプロデューサー役で愛情出演。完成した作品を見て、彼女のこれまでの歩みが胸に迫り、涙があふれてきたと話す。

「愛が“自分らしく輝く夢”を諦めずに、全身全霊で努力を重ね、一歩ずつ歩んできた時間が凝縮されていた。この映画はきっと、世界中で葛藤と向き合いながら一歩を踏み出そうとしている人の背中を、そっと照らす“光”になると思いました」

北島三郎より、アイドルになりたい!

家族への愛情が人一倍強いはるなさんの幼少期(後列右が本人)

「自分は女の子だ」

 はるなさんのその感覚は、幼いころから揺るがなかった。1972年7月、大阪に生まれ、愛媛出身の両親と年子の弟、親戚が集まるにぎやかな市営住宅で育つ。テレビの向こうで輝くピンク・レディーに心を奪われ、幼稚園では振り付けをまねして歌い踊り、いつか自分もステージに立ちたいと夢見た。

 きらびやかな世界へ誘ったもう1人の存在が、父の姉でストリッパーだった伯母だ。3歳の少年が出入りした楽屋は、スパンコールや羽根飾りがあふれる“非日常の宝箱”。

「きれいなドレスのダンサーたちが、生まれたままの姿で楽屋に帰ってくるんですよ」

 幼い目には刺激的な光景も、ただ眩しく心が躍った。伯母は髪を可愛く整え、赤い服や着せ替え人形を買い与えてくれた。家に戻れば、少年野球の監督だった父に「男らしくしろ!」と言われたが、伯母の家では“ありのままの自分”でいられた。

 別の伯母が営むカラオケスナックも憩いの場だった。演歌を歌うと「賢治くん、うまいね」と褒められた。夢は女性アイドルだったが、歌を称賛されるのがうれしかった。

 一方で家庭は安定せず、父はギャンブルで借金を抱え、取り立てが来ることも。

「ガスが止まって、ろうそくを灯す夜もあって。子どもながらに大変なんやろなって。でも家族を不安にさせたくなくて『誕生日みたいやね♪』って、笑ってたんです……」

 はるなさんは、家族の話に触れると、涙を浮かべて言葉を詰まらせた。

NHK『こどものど自慢』に出演し、五木ひろしさんの歌を熱唱(右から2人目)。左端は、現在アナウンサーとして活躍する駒村多恵さん。当時から、本当は彼女のようなアイドル衣装に憧れていた

 両親は、はるなさんが北島三郎さんのような演歌歌手になることを切望し、苦しい生活の中でもプロの先生のもとへ通わせた。小学3年生からNHKの番組『こどものど自慢』にも出演している。

 きらめく舞台と、決して裕福とはいえない家庭。その両極を行き来する中で、「はるな愛」という存在の原点が少しずつ形づくられていった。

自殺願望を抱える青年を救った理解者

制服に戸惑った中学生のころ

「本当はセーラー服が着たかったんです。学ランなんて嫌で、嫌で……」

 思春期の入り口は、試練の幕開けだった。小学生までは“少し不思議で可愛い子”として受け入れられていたが、中学に入ると、周囲の目は途端に冷たくなる。松田聖子の歌まねでテレビ出演していたことへの妬みも重なり、「女のカッコして気持ち悪い」と心ない言葉を浴びせられた。

 休み時間には追いかけ回され、倒され、蹴られる。体育館裏で石灰を口いっぱいに詰め込まれたこともあった。

「本当の自分を隠すのもつらいし、いじめられるのはもっとつらい。生きる意味なんてあるのかなって、毎日そんなことばかり考えてました」

 担任に相談しても返ってきたのは、「いじめられるのには理由があるんじゃない?」というひと言だけ。

「当時はクラスの人数も多くて先生も大変やったと思いますよ。でもね、その理由が言えないんですよ。変わってると思われるのが怖くて」

 誰にも理解されず、何度も消えてしまいたいと願った。

高校生になると、男らしく振る舞おうと努力した時期も

「気づけばいつも歩道橋の上にいました。でも家族が悲しむ、迷惑をかけるのは絶対嫌やと思うと飛び降りられなくて、また帰る。その繰り返しでした。団地の壁に頭を打ちつけ続けると、口の中に血の味がにじんできて。このまま死ねないかな……って考えたりね」

 そんな暗闇の中で救いとなったのが“新しい居場所”だ。中学2年の冬、母の営むスナックの常連客に連れて行かれたニューハーフの店「冗談酒場」。扉を開けると、照明がきらめき、華やかな衣装の人たちが踊っていた。

「ここでは、みんな自分らしく笑っている」

 胸を射抜かれた。ママのアキさんから「女の子みたいやね。ここでやってみる?」と声をかけられ、はるなさんは初めて自分が肯定されたと感じた。

 家族には「歌の仕事をもらった」と偽り、学校帰りに店へ通うように。4分間のソロステージを任され、フリフリのドレスでアイドルのものまねを披露した。

「ありのままの私がスポットライトを浴びて歌うと、お客さんが拍手をくれる。ずっと求めていた居場所でした」

 小さな自信が、学校での立ち居振る舞いも変えたのか、いじめもぴたりとやんだ。

「いじめっ子も、いじめてもしょうがないと思ったんじゃないですか。自分より弱くて迷っている存在を探していただけでね」

 だが、店で客にちやほやされて浮かれていると、アキさんは厳しく釘を刺した。

「ボケたらあかんよ。あんたは女やないからね。女だと思ったら苦しいよ」

 その言葉は愛情ゆえのものだったが、当時のはるなさんには受け止めきれず、「自分は周囲とは違う」と思い込んでいたという。

 ただ一つ恐れていたのは、両親にバレること。

「居場所を守りたくて、学校には休まず通いました。弟は私の変化に気づきながらも、親には黙っててくれたんです。めっちゃケンカもしたけど、いつも味方でいてくれる唯一無二の存在でしたね」

父親へのカミングアウト、母親からの無視……

上京する直前の20代前半。大阪から東京のテレビ局へ通いながら、「冗談酒場」で流行りの曲を歌って踊るステージを披露していた

「冗談酒場」で初めて男性と恋人関係にもなった。相手は店長。夢中になるうち、学校の欠席が増え、教師に呼び出される。隠し続けるのは限界だった。はるなさんは、父親に近所のファミレスまで来てもらい、腹を括る。怒鳴られ、殴られることも覚悟した。

 ニューハーフとして働いていること、男性と付き合っていること、「女性として生きたい」という思いを伝え終えたとき、父は勢いよくフォークをテーブルに突き立てた。

 しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。

「わかった。おまえが決めた人生や。男やったら貫き通して1番を取ってみろ。絶対に後悔するなよ。お母さんには黙っておくから」

 破天荒で、時に母に手を上げたこともある父が、自分を受け入れ励ましてくれた。その喜びと、息子と父という関係が変わってしまう寂しさが胸に入り交じったという。

 一方、母・初美さんは「うすうす感じ取っていたが、どう向き合えばいいかわからなかった」と本音をこぼす。

「聞くのも怖かったんです。中学のころ『寝られへん』と言い続けていたのに、私は『早く寝なさい』と叱るばかりで。いじめもつらかったはずなのに、私は仕事でいっぱいいっぱいで……自分のことしか考えてなかったと悔いてます」

「私が死んだら親が泣くな……って考えたら、死ねない。でも死にたい……。そんなことばかり考えてましたね。両親はお金がなくて苦労してるのに、いじめられてるなんて、とても言えなかった」と学生時代を振り返るはるなさん(撮影/矢島泰輔)

 父に許しを得た後、「冗談酒場」で、はるなさんは瞬く間に人気者へ。現在、ママを務める竹野町菜々香さん(58)はそのころを振り返る。

「当時はお店のアイドルで、聖子ちゃんの歌まねやお笑いもやってました。誰にでも笑顔で『ありがとうございます』と言えるかわいい子でしたよ」

 上沼恵美子さんの人気バラエティー番組への出演を機に、人気は加速し、ショーは連日満席。母・初美さんはその噂を耳にしても、会話を避けるように無視を続けた。それでもはるなさんは、母の誕生日に贈り物を届けていたという。転機は、はるなさんからの一本の電話だった。

「テレビの取材があるから、家に帰っていい?」

 団地の前に止まった大きな車から、ロングヘアにスカート姿のはるなさんが降り立つ。

「お化粧は今ほどうまくなかったですけど(笑)、その姿を見て思ったんです。この子は女の子として必死に生きようとしている。もう反対ばかりしてたらあかんって」(初美さん)

 母が初めて“賢治”ではなく“愛”と呼んだ日のことを、はるなさんは今も忘れない。アイドルを目指して上京するも芽が出ず、めげそうだった28歳のころだ。母の家に泊まると、脱衣所にピンクのパジャマが用意されていた。

「うれしくてお風呂で泣きました。上がったら『愛、そろそろ寝ようか』って」

 翌朝、母はこう送り出した。

「愛は自分の信じた道を歩みなさい。苦労はきっと報われるから」

一世一代の性別適合手術の後に、大失恋

「苦しんでいた当時の大西賢治に伝えたい。絶対死んだらあかん! たくさんの人たちに生かしてもらえる日がくるよ〟って!」と笑顔を見せるはるなさん(撮影/矢島泰輔)

 19歳のとき。大恋愛の末に性別適合手術を受けた。相手は同じ舞台で踊っていたダンサーのTさん。遊び人だったが、交際後は一途で、大切にされた。同棲も始め、愛される幸せを噛み締めたという。

 週4回のホルモン注射を続け、胸元や身体つきも女性らしく変化していた。15歳で睾丸摘出は済ませていたが、男性器は残ったまま。Tさんとの関係が深まるほど、「もっと本物の女性に近づいて、女として堂々と生きたい」という思いを強めていく。

 だが当時、日本で性別適合手術を受ける道は閉ざされていた。そんな中、「冗談酒場」の常連客だった形成外科医・和田耕司さんに出会う。「先生にお願いしたい」と思えたとき、恐怖より安心感が勝った。和田医師は当初、リスクの高い手術を断ったが、何度も頼みに来るはるなさんの強い思いに応え、“第1号”として執刀。除睾手術から4年後、陰茎を切除し、それを用いて外陰部や膣を形成する独自の手術が行われた。

「長い間私を苦しませてきた男性自身が姿を消し、女になれた喜びが込み上げました」

 その後、はるなさんに続き、600人以上が手術を受け、日本の性別適合手術の道が開かれていく。

 しかし理想の身体を手にした一方、4年続いた交際に終わりが訪れる。初めて訪ねたTさんの実家で、Tさんのいない隙に家族から「愛さんは子どもが産めない。うちの子のために別れてほしい」と告げられたのだ。帰りの車内、Tさんの好きなB'zの曲『ALONE』が流れる中、ぐっと涙をこらえた。

「田舎では、私の存在が認められなくて。彼にも親を嫌いになってほしくなかったから、寝たふりするしかなくて。浮気も見ちゃってたし、やっぱり女の子のとこに行くんだ、アキさんの言うとおりやなって」

芸能界を目指し、スナック経営

「下積み時代は、芸能関係者が集まるパーティーに出かけるときだけ、ブランドの服や小物で着飾って。家ではジャージ姿でカップラーメンをすする……そんな生活。チャンスをつかみたくて必死でしたね」と語るはるなさん(撮影/矢島泰輔)

 '90年代、ニューハーフブームが起こり、はるなさんのテレビ出演も増えていく。番組で親しくなった故・飯島愛さんに「事務所を紹介するよ」と声をかけられ、過去の大西賢治を知る人のほとんどいない東京で、女として生きようと決意。24歳で上京する。

 しかし現実は甘くなかった。回ってくるのはニューハーフ枠の“色物扱い”ばかり。

「深夜番組では水着で盛り上げて、『あの子、実は男の子なんだって』みたいな。私は純粋なアイドルにはなれないのかなって思ってました」

 わずかな芸能活動では生計が立てられず、三軒茶屋に7席の小さなスナックを開いた。やりたかったのは“普通の女の子の店”。しかし客足は伸びず、理想とのギャップに苦しむ日々が続く。

 追い詰められた末、思い切って素の自分をさらけ出し、歌い踊るパフォーマンスを始めると空気は一変。「面白い!」と店が活気づいた。

「避けてきたニューハーフの自分を受け入れた瞬間、道が開けた。認めたくなかった部分こそ、いちばんの個性で、私にしかできない表現なんだと気づいたんです」

 その店には藤原紀香さんのほか、夢を追う同業の若手が自然と集った。お笑いトリオ・森三中の大島美幸さん(46)もその1人だ。深夜ラジオで知り合い、店に遊びに行くようになったという。

「ニューハーフの方と話すのも初めてで、手術の話も明るくネタのように聞かせてくれて、毎回爆笑してましたね。もう売れる気配しかなかった。お金がなくてバイトに追われて、気持ちも荒れがちな時期だったけど、愛さんは人の悪口を絶対言わない。いつも優しかったです。

 星田(英利)さんにも、よくお店に連れて行ってもらって、実際に愛さんとのやりとりを見てたんです」(大島さん)

 映画『This is I』に常連客役で登場する俳優・星田英利さん(54・旧芸名ほっしゃん。)は当時、本気ではるなさんを女性だと思い込み、結婚を前提に告白したそう。

 はるなさんが笑顔で語る。

「ちょっと待って!って。壁の“火元責任者:大西賢治”を指して、これ私なのよと説明したら、後ろに倒れるくらい驚いてました(笑)」

 星田さんが「もう大阪帰ろかな……」と弱音を吐いたときは活を入れたこともある。

「なんで? 東京来たんは売れるためやろ。うちも頑張るから、あんたも頑張り!」

 星田さんは奮起し、のちに『R―1ぐらんぷり(当時)』で優勝。森三中もブレイクしていく。仲間の活躍を喜びながらも、オーディションに落ち続ける現実に、「私はこのまま小さなスナックのママで終わるのか」と胸が締めつけられた。

窮地の“エアあやや”誕生秘話!

2009年、2度目の挑戦にして「ミスインターナショナルクイーン」で優勝

 そんなある日、突然、声が出なくなった。芸能の仕事も店の接客も成り立たない。気づけば、逃げ場を失っていた。

「生きていくために何かしなきゃと悩んでいたとき、店で松浦亜弥さんのライブ映像を口パクでまねして、“エアあやや”が生まれたんです!」

 声を使わない斬新なダンスは芸能関係者の目に留まり、評判が広まる。藤原さんの披露宴では会場を笑いで包み、その存在感を強く印象づけた。

 同じころ、仲間に背中を押され、世界最大級のトランスジェンダー女性の美の祭典「ミスインターナショナルクイーン」に挑戦。タイ・パタヤで不安を抱えつつも舞台に立ち4位に。

「優勝したら1年休むかも!なんて言ってたから、順位を報告するのが気まずくて。でも、マネージャーに電話したら、“この間、出演した『あらびき団』の反響がすごいから、今すぐ帰ってきて!”と言われて。ほんま~!?って」

 それ以降、特番続きで怒濤の日々。3日で1時間しか眠れない日もあった。

 そして2009年、ミスインターナショナルクイーンで優勝。ついに“世界一”の称号を手にする。祝福の中で大粒の涙が頬を伝った。父に「1番取ったで!」と電話すると、「おめでとう。よかったな」と短く返ってきた。

「お父さんらしいなと。カミングアウトした日に『1番取れ』って言われたから、挑戦したんです。これがお父さんの望んだ1番かはわからないけど(笑)、とにかく1番取ったよって言いたかった」

パラリンピック、子ども食堂、被災地支援に奔走

2011年、東日本大震災が発生した際、福島を訪れたことをきっかけに、その後も自然災害の被災地支援を精力的に続けている

「LGBTQに限らず、誰もこぼれ落ちない社会であってほしい」

 はるなさんは今も、そんな強い思いを抱き続ける。

 約10年前、弟が脳梗塞で倒れ、車椅子生活になった。支え合ってきた存在が障がい者となり、社会の不自由さを当事者の目線で痛感したという。

「弟にはいっぱい助けてもらったし、大好きなんですよ。私が仕事柄いろんな場所に行かせてもらっている分、弟にもたくさん景色を見せたくて連れて出るようになって、気づくことが多かったんです」

 男女トイレは多いのに車椅子用は1つだけ。筋力が衰えトイレが近い弟には、あまりに不便だった。そんな経験から「障がいのある人への理解を広げたい」という願いが確かな形を帯びていく。

 契機になったのが東京2020パラリンピック開会式。自らオーディションを受け、笑顔とエネルギーに満ちたダンスリーダーとして出演した。

「振り付けを視覚障害のある人には言葉で、聴覚障害のある人には動きで伝えていきました。さまざまな背景の仲間が同じ目標に向かう姿に励まされましたね」

 被災地支援も熱心に続ける活動のひとつだ。はるなさんは東京で3店舗の飲食店を経営。20年来の仲間である後藤隆志さん(49)はこう語る。

「東日本大震災のとき、スタッフに福島出身の子がいて、お父さんを亡くして家も流されたんです。社長(はるなさん)がすぐ行こうと、救援物資を積んで向かいました」

 避難所では温かい豚汁やお好み焼きを振る舞い、ブースを回ってお年寄りと話し込んでいたという。その後も広島市の土砂災害、熊本地震、能登半島地震へと足を運んだ。

「行くと決めたら、役所に連絡して受け入れ先を確認し、2トントラックをレンタルして、物資でパンパンにして。半分くらい積んでたら“いっぱいじゃないとダメだ”って。全部自分で段取りします。行動力がすごいんですよ」

 さらに、三軒茶屋の創作中華料理店、八幡山の鉄板焼き店の2店舗で月1回、地域の子どもたちに無料で食事と居場所を提供する“子ども食堂”を続けている。はるなさんは言う。

「最初はスタッフから『お給料出るんですか?』とか後ろ向きな意見も出たけど、養護施設の子どもたちからお礼の手紙をもらって、みんなで読んで感動して。『毎月やりましょう!』と言ってもらえた。ボランティアは無理したらダメなんです。自分のできることをやっているだけです」

戸籍を男性のままにする理由

ピンチをチャンスにかえる形で思いついた「エアあやや」で大ブレイク

 インタビューの冒頭から、家族の話になるたび、はるなさんは涙をこぼした。心が揺れた日々の中でも、いつも家族への深い愛があった。母と離婚した父へのわだかまりも、次第に解けていったと明かす。

「今はね、お父さんの子どももみんな私のきょうだいやし、お父さんも一生懸命生きてるんやと思ったら、許せないなんて思わなくなりました」

 母親には毎日電話をする。泊まりに来るときも気遣いを欠かさない子、と母・初美さんは目を細める。

「壊れたドライヤーを見つければ、すぐ新しいものを送ってきたり、よく見てる(笑)。気を使いすぎずにゆっくり生きてほしいけど、性格だから直らないでしょうね」

 その思いやりは友人・知人、仕事関係者にも向けられる。森三中・大島さんは語る。

「下積み時代にお世話になった構成作家さんを20年以上たった今もごはんに誘う。24時間マラソンのコーチとWBC観戦に行く。その義理堅さが愛さんらしいんですよね」

 周囲の裏切りさえ受け止めてきた。結婚詐欺に遭ったことも、お金を持ち逃げされたこともある。

「信用してた人の裏切りなんて山ほどありました。でも全部、自分が踏み出した結果。学べるならムダじゃない。恋も同じで、失敗してもまた好きになる。何もない人生より、いろんな出会いがあったほうがいいと思ってるんです」

 手術後も戸籍を男性のままにしている理由を尋ねると、少し無邪気に微笑んだ。

「大西賢治がいたから、今の私がいる。どちらも事実なんです。好きになった人が『籍入れよう』って言ってくれたら、そのときに考えればいいかなって。その相手が男性か女性かもわからない。それぐらい自由に生きたいんです」

 そして、理想とする人生の最後をそっと明かす。

「大西賢治って本当は人見知りで根暗。でも“はるな愛”という着ぐるみを着ると人と話せるんですよ。こんなに濃い出会いがあるなら、またニューハーフとして生まれたい。最後は『賢治の人生、最高やったな』って笑って目を閉じれたらいいなと思ってます」

<取材・文/森きわこ>

撮影/矢島泰輔。もり・きわこ ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。好きな言葉は「やり直しのきく人生」。