俳優・歌手・モデルの土屋アンナ(撮影/矢島泰輔)

 俳優、歌手、モデルとしてマルチな才能を発揮し、4人の子どもを育てる母親でもある土屋アンナ。ロックな外見から奔放なイメージを持たれがちだが、不良だったことはない。祖父は医療機器メーカーの創業者という家柄のお嬢様育ちだ。

2025年、最愛の母を亡くす

2人姉妹の次女として生まれた。母の眞弓さんと

 2025年、マネージャーを務めていた最愛の母・土屋眞弓さんが膵臓がんで亡くなった。眞弓さんがしていた仕事を引き継ぎ、新しい体制を整えるため、土屋は悲しむ暇もなく東奔西走する日々だ。

 歌手の中村あゆみがオーガナイザーとなり、女性アーティストが集結する「Super Lady Festival 2026」(NHKホール・5月10日)への出演も控えている。眞弓さんが亡くなって4か月が過ぎた今、母との思い出やこれまでの仕事のこと、子育ての苦労、これからの夢を語ってもらった。

 1984年、日本人の母・眞弓さんとアメリカ人の父との間に生まれた土屋。アメリカで暮らしていたが、小学3年生のときに両親が離婚し、母と姉とともに日本で生活をすることになる。母の実家が裕福だったため、母子家庭とはいえ、お金に苦労することはなかったという。ただ母は礼儀作法に厳格で、幼いころは怖い存在だったと土屋は話す。

「箸の持ち方や食事中のマナー、大人が話しているときに口を挟んだりすると厳しく叱られました。ハーフの私たちが将来困らないよう『礼儀作法だけはきちんと教える』という強い思いがあったのでしょう。でも勉強については一切口出しされず、『宿題したの?』と言われたことは一度もなかったです」

眞弓さんや祖父母に厳しくしつけられたという

 子どものころの土屋はスポーツ少女で、フィギュアスケートやバスケットボールに夢中だった。一方、学校では見た目の違いからいじめられることも多かった。運動会の際、「パパが来るかもしれない」と同級生に話したところ、結果的に来なかったことで「嘘つき」と呼ばれたことも悲しい経験だ。

「ママは私を周囲に同調させようとはせず、『違っていいの。嫌なことを言われたって放っとけばいいじゃない』という考えでした。ママのおかげでいじめに負けず、自分を肯定できるようになったんです」

 眞弓さんは言葉だけでなく、自らの行動でも「人は人」であることを示し続けていた。学校の保護者会に真っ黒な服にサングラスという姿で登場し、周りから浮いていてもお構いなしだったという。

「ママは品格はあるのに破天荒なんです。あるとき男の子たちが『アンナのママ、カッコいいよね』と言っているのを聞いて、『違っていることは、カッコいいことなんだ』と捉え方が変わりました」

14歳でモデルデビュー。ロックに目覚め音楽活動

医療機器メーカーの創業者だった祖父と

 土屋の小さいころの夢は「ディズニーランドのダンサー」で、芸能界を目指していたわけではない。ただ歌は大好きで聖歌隊に入ったり、ボイストレーニングを受けたりはしていた。中学生になって、姉がモデル活動を始めたことをきっかけに土屋の運命が動き出す。

「お姉ちゃんは私より背が高くて、顔が小さくて、モデル事務所からスカウトされたんです。その事務所が『アンナも仮で名前を入れとくよ』と、最初はおまけのような形で所属することになったのが転機でした」

 自分がカメラの前に立つ姿など想像もしていなかったが、試しに写真を撮ってみたところ、仕事のオファーが続々と届くようになった。いくつか雑誌のモデルを経験した後、ティーン誌『セブンティーン』の専属モデルになることが決まった。祖父は芸能界で働くことには猛反対だったが、母は娘の可能性を信じて後押ししてくれたという。

 それからはテレビ、広告、ファッションショー、CMと活躍の場を広げ、18歳のときにロックバンドで歌手としてもデビューを果たす。土屋が音楽的な素養を身につけたのは母の影響が大きい。

「うちはテレビをつけない代わりにラジオが常に流れていて、ママの友人にはミュージシャンも多かったんです。だからオールディーズやビージーズ、セリーヌ・ディオンといった洋楽が幼い耳に自然と届いていました」

 ロックとの出合いは、レコードショップで目に飛び込んできたシンディ・ローパーのアルバムジャケットだった。新聞紙でスカートを作り、唇は青く、髪の毛はカラフルに逆立てている奇抜なファッションが目を引いたが、歌はかわいくて哀愁がある。

「これまで聴いてきた正統派の美しい音楽とは全然違うスタイルなのに心が動いて、アルバムをまとめて買い込んだんです」

 さらにロックの深みにはまったのは、母の友人が持ち込んだクイーンのレコードとの出合いだ。『ボヘミアン・ラプソディ』を聴いて、冒頭の「ママ、今人を殺してしまった」という歌詞に度肝を抜かれた。

「リアルな言葉で、感情のアップダウンを全部音楽にしているものがロックなんだとわかって、そこからハマっていったんです」

 同世代の仲間がJ―POPやヒップホップに熱中する中、ローリング・ストーンズやボン・ジョヴィを聴いていた土屋。撮影現場でもロックを流していたところ、スタイリストたちが次々にロックテイストの衣装を持ち込んでくるようになり、ファッションも変わっていった。

「ロック=激しい、反抗といったものではなく、繊細だからこそ自分の鎧をファッションでもつくっていくものだと思っています。ギターリフやドラムを抜けば、ロックのメロディーはきれいなんですよ。だから私のロックは“感情豊かな音楽”という意味なんです」

 この哲学は今も変わらず、土屋の音楽制作の根幹になっている。きれいごとではなく、人間のリアルな感情をそのまま音にする。それは土屋の生き方にもつながるものだ。

 デビュー当初から土屋を知る、ヘアメイクの佐伯エミーさんは「野性的で裏表がないところは昔も今も変わらない」と話す。

「酔っぱらうと泣いたり、ケンカしたりすることも多いのですが、次の日にはすごく反省して謝るので、憎めないかわいい人なんです。便利な機械に頼るのではなく、常に自分の感覚と頭を使って動くところにアーティストとしてのこだわりも感じます」

『下妻物語』で俳優デビュー。20歳で妊娠・結婚

映画『下妻物語』で俳優としてデビュー。日本アカデミー賞新人俳優賞など数々の賞を受賞した

 土屋は19歳のときに俳優としてもデビューを果たす。映画『下妻物語』で深田恭子とともにW主演を務め、ヤンキー少女という個性が炸裂するキャラクターを体当たりで演じた。映画は大ヒットし、日本アカデミー賞新人俳優賞をはじめ8つの映画賞を受賞する。

 土屋が“姉”と慕う歌手の中村あゆみは、土屋の才能に圧倒された一人だ。

「フッくん(布川敏和)が監督を務めた映画『バッシュメント』でアンナを初めて見て、『日本にもこんなすごい魅力のある子が出てきたんだ!』と驚きました。その後、私が主宰するフェスに出てもらうと、歌もめちゃくちゃうまくて観客を魅了していたのを覚えています」

 土屋は映画デビュー後、同じ事務所に所属していたモデルのジョシュアと結婚し、世間を驚かせた。20歳で長男・澄海(スカイ)を出産した後もソロシンガー、俳優として精力的に活動するが、ジョシュアとは2年で離婚。その後、再婚、離婚、再婚を経て、子どもは4人となった。

20歳で長男・澄海を出産。その後も計4人の子宝に恵まれた

「男運はよくないんですが(笑)、子ども運には恵まれました。今、澄海が21歳、心羽(シンバ・次男)が16歳、星波(セイナ・長女)が9歳、虹波(ニイナ・次女)が7歳。さらに6匹の猫と暮らしていて、にぎやかな家庭です」

 普通のママとして子育てをする中で負担となるのは、有名人がゆえに、どこへ行っても視線を集めてしまうことだ。見られることに疲れて「仕事をやめたい」と思ったこともあるという。

 例えば子どもたちを連れて遊園地に行ったとき、行列に並んでいると、好意的な目もあれば、値踏みするような目もある。「あの人じゃない?」と囁き声が耳に届く。本来なら無邪気に楽しみたいのに、目立たないようにと身を縮めてしまうクセがついてしまった。

「モデルをやっていたころは好きな服を着て原宿を歩いていましたが、今は電車に乗るときもバレないように顔を隠しています。本来そういうのがいちばん嫌いな人間なのに、そうしなきゃいけないのはストレスですね」

 それでもやっぱり表舞台に立つことはやめられない。

「あるときライブで歌っていると、70代くらいのおばあちゃんが前まで来て、涙を流しながら聴いてくれたんです。そういう姿を見ると『音楽をやっていてよかった』と心から思います。誰かの人生の何かの瞬間に私の歌が役に立てるのであれば、人から見られようが何を言われようが、気にしちゃいけないなと自分に言い聞かせています」

騙されやすく、放っておけない人

長女・星波を抱く長男・澄海と、心羽

 多方面に才能を発揮している土屋だが、素顔は気さくで、スタッフへの気遣いもこまやかで、誰からも愛される人柄だ。前出の佐伯さんは「360度に目があるかのよう」と土屋を評する。

「自分のことよりも周囲のスタッフをよく見ています。ロケ中、重い機材を持つADに『ごはん食べてないよね? 一緒に食べようよ』と声をかけ、疲れているスタッフがいれば『荷物を持ってあげるよ』と手を差し伸べたりするんです」

 中村あゆみも土屋のことを「本物の笑顔の人」「無条件に大好き」と言ってかわいがっている。一緒に食事をしてプライベートの相談に乗ることも多い。

「私もシングルマザーだったから、自分の若いころとオーバーラップするんです。『アンナがすごく頑張っているのはわかっているよ』と伝えたとき、アンナが泣き崩れたこともありました。私にとってアンナは“若いころに産んだ娘”のような感覚。彼女がこれからの人生を思い切り歩んでいけるよう、自分の持つすべての知識や経験を教えてあげたいと思ってしまうんです」

 なかでも土屋のもろさや騙されやすさを中村は心配し、アドバイスすることも多い。10年前には舞台降板をめぐって裁判になったこともあった。

4人の子どもたちと。ペットの犬や猫もいて、いつもにぎやかな家庭だ

「アンナは人を信じて疑うことを知らない。芸能界には損得勘定で動く人もいますが、アンナにはずるさが一切ないんです。ダメな男に惹かれたり、そこは私とも似ているところで(笑)。人を見極める力を身につけることと、自分の価値を安売りしない仕事の選び方を先輩として伝えています」(中村)

 純粋な土屋を利用しようとする人がいる中、絶対に裏切ることがない母をマネージャーにしたのは正解だった。25歳のときから16年、母・眞弓さんが仕事の管理をしてくれた。

「身内ではない人が自分を正してくれることはなかなかありません。自分に対して一切の遠慮がなく、何でも言ってくれる存在が母だったので、ママをマネージャーに選んだんです。ただ仕事をすると衝突することも多く、いいママだったけど、大嫌いな部分もいっぱいありました(笑)」

 眞弓さんは普通のマネージャーとは一線を画した存在だった。レッドカーペットに着物姿で同行し、時には娘より注目を集めることも。出会った人の顔と名前を決して忘れず、コミュニケーションの達人で、人脈をつくる天才でもあった。

 一方で、土屋の服のセンス、髪の色、話し方と、何かにつけて口を出してくる。大事なライブの直前に言い合いになることもあり、一度は距離を置く決断をし、離れていた時期もあった。しかし、再びタッグを組んだのは、ある現実的な判断からだった。

「私が働けなくなったら、周りのスタッフの家族までつらい思いをさせてしまう。そのリスクを考えたら、身内のママとなら一緒に倒れても問題ないんじゃないかと。私から戻ろうと声をかけました」

家族・スタッフ一丸でがんの母を介護

後ろ盾のない芸能界で、母・眞弓さんとは戦友でもあった

 しかし、眞弓さんがマネージャーに復帰した矢先の2024年、眞弓さんに膵臓がんが見つかった。ステージ3で余命は1年半と宣告される。病状は次第に進行し、やがて自宅での療養となった。土屋は仕事と育児をこなしながら、友人たちの力を借りて献身的に介護を続けた。

「ママを家に一人だけには絶対させないと決めました。長男に泊まり込みをしてもらって、私がごはんを作って届けるなど、動ける家族、友達、スタッフみんなにお願いして。血のつながりがないのにみんな親身になって助けてくれて、本当に感謝しかありません」

 まだ小さい長女と次女には病名を隠し、抗がん剤の副作用で髪の毛が抜けた姿には「これもファッションなんだよ」と伝えた。すると子どもたちは眞弓さんの絵を描いて贈ってくれた。

「金髪のママの絵を描いて、現実を華やかに見せてくれたんです。ママにとっては、孫たちの存在がものすごい力になったと思います」

 眞弓さんは余命宣告されてから著書『人生、あれかこれか』(小学館)を上梓した。土屋は「読みたくなったら読むよ」と伝えたが、眞弓さんは「あんたは読まないと思ってる」と、娘の性格を熟知した言葉を返したという。

「ママが書き残したものよりも、自分がママから何を受け継ぎ、どう生きていくかという実感を優先したいんです。だから今もまだちゃんと読んでいません」

 一度、眞弓さんが「あんたの子どもは自由でいいよね」「私もそんなふうに育てればよかった」と話したことがあった。それまでは、子どもを自由に遊ばせている土屋に対し「なんで言うこと聞かせないの?」と眞弓さんが怒ることもあったという。しかし、病気になり死と向き合う中で、眞弓さんは土屋の子育てに「合格点」を与えてくれた。

「この言葉をきっかけにママとの間にあった壁が完全に取り払われました。私は『子どもは騒いで当たり前』『無邪気なのはいいこと』と考え、他人に迷惑をかけなければ子どもたちがうるさくしていても怒らず、見守るスタイルをとっています。

 今思えばママは親として子どもを正しく導かなければならないという強い鎧を着ていました。シングルマザーでハーフの娘を育てるうえで、それはしょうがなかったのでしょう。ママが私の子育てを全肯定してくれたことにホッとして、本当の意味での世代交代が行われたのだと実感しました

俳優・歌手・モデルの土屋アンナ(撮影/矢島泰輔)

 最期は自宅で静かに旅立った眞弓さん。享年67。土屋が子どものお弁当を作りに一度家へ戻ったとき、長男から連絡が来て、急いで戻ると、まだ手が温かかった。

人は死ぬ間際まで耳が聞こえているというので、一人ではなく、みんながバタバタしてる中で亡くなったのは幸せだったと思っています。言葉でもなく、ものでもなく、人が亡くなるという現実の死について学ぶことを母は最後に残してくれました。

 常に強くあろうとしてきた母親の鎧が、死に向かって剥がれていく過程を見られたのも大切な経験でした。だから悲しみにひたるよりも『サンキュー、ママ』という気持ちで見送ったんです」

 前出の佐伯さんは、毎日のように病院へ通って眞弓さんのマッサージをするなど、家族同然にケアしていた一人だ。

「亡くなった翌日に舞台があり、アンナちゃんは悲しみをこらえて踏ん張っていました。その姿を見て私のほうが泣いてしまって……」

 その後も眞弓さんがやっていた仕事の引き継ぎ、人間関係の整理、事務所の形を変える準備と悲しんでいる暇がなく、嵐のように現実がやってくる。それもまた「ママからのメッセージだ」と土屋は受け取っている。

「この人を大事にしなさい、こういう方向でいきなさいと、母が逝って初めて見えてきたことがあるんです。母の魂はずっと生きていると感じています。今までママが一人でやってきたけれど、私が一人で背負うのは無理。だからみんなで手をつないで部活のように会社を運営していくつもりです」

 現在、事務所の運営をサポートしているのは、土屋と20年来の付き合いがある会社社長・高根紳椰さんだ。プライベートでの友人関係だったのに、「うまく巻き込まれてしまった」と苦笑いする。

「アンナと仕事でからむと、これまでの良好な関係が変わってしまうのではという心配がありました。でも眞弓さんがいなくなった今、放っておけず、支えられるメンバーで運営していくしかありません」

 高根さんと土屋は、若いころ、お酒を飲むと互いに言い合いになり、絶交していた時期もあったという。

「『もう二度といいや』と思うほどケンカをして、半年ほど音信不通になりましたが、アンナから突然『ごめんね』というショートメールが届き、仲直りしたんです。アンナは普段はいい人すぎるほど周囲に気を使っているので、お酒を飲むと緊張から解放されて、たまっていた鬱憤が出てきてしまうのでしょう。

 でも嘘がなく、芸能人ぶることもなく、やっぱりすごくいい子なんです。今はアンナには『忙しいのはわかるけど、ちゃんと返信してほしい!』というのが切実な願いです。先日、『誕生日に何が欲しい?』と聞かれたので、『連絡が欲しい』と伝えました(笑)」

子どもは「褒めるだけでいい」習い事の送迎で大忙し

次女の虹波(左)と、長女の星波。バレエや柔道を頑張っている

 多忙な仕事の中、土屋は4人の子どもを育てているが、完璧を目指さないと決めている。

「家族にはダメなところも、泣いているところも弱さも見せているので、お手伝いもしてくれます。子どもたちが健康で、いろんなことにチャレンジできる環境を整えてあげるのが私の役目だと思っています」

 子どもたちはみんな個性もバラバラで、もちろん苦労はある。長男の澄海は今、モデル、バレエダンサーとして活動中だが、幼いころは言葉で自分を表現することが苦手で、土屋はコミュニケーションに悩んだこともあった。しかし時間がたつにつれ、関係は変化してきたという。

「今は逆に注意されるんですよ。ママのしゃべり方が怖いって(笑)。笑い話にできるようになって、指摘し合えるようになって、ようやく打ち解けられたところがあります」

 一方、次男は柔道一筋の高校生で、オリンピックを目指して頑張っている。

「私は柔道をやったことがないから、彼がどれだけ苦労しているかがわからない。だから褒める役割に徹し、指導は先生に任せているんです。食生活だけは気を配り、身体をしっかりつくっていくサポートはしています」

 長女の星波はバレエに打ち込み、次女の虹波は柔道をやっていて、それぞれの送迎も土屋の役割だ。

「子育ては女の子のほうが大変。男の子はカバンひとつで『行ってきます』と出ていくけれど、女の子は身だしなみや準備に時間がかかります。まだ小さいのに私のメイクにダメ出ししたり、口も立ちますし。4人それぞれの強みを伸ばしてあげたいので、習い事のサポートは欠かしません」

 実は土屋自身もバレエを7年以上続けており、週5〜6回レッスンに通うほどの本気さだ。

「バレリーナがしゃべらず踊るだけで人を涙させるのはどういうことなのかを知りたかったんです。レッスンを受けたときに、運動量の多さとメンタルを保つ大変さがわかって、自分が学んだことない世界だからやってみようと思いました。仕事に役立つかどうかはさておき、リスペクトできることに挑戦してみたかったんです」

 フルタイムで仕事をこなし、4人の子どもたちの世話をし、自分のバレエも欠かさない日々。「気づいたらソファでコップを持ったまま寝ていた」なんてこともざらにある。そんな毎日でも、決めたことは全部やるのが土屋アンナだ。

「子どもたちのせいで自分の何かができないのはイヤなんです。子どもたちのこともやるけど、自分のこともやる。だから疲れます(笑)。周りから『どうしてそんなに詰め込むの?』と言われますが、自分もまだまだ成長したいんだと思います」

一生音楽活動を続けて海辺で暮らすのが夢

俳優・歌手・モデルの土屋アンナ(撮影/矢島泰輔)

 42歳になった今、これからの抱負は「ずっと歌い続けること」だと土屋は言う。今のバンドでの楽曲には、世界のどこかで今も恐怖の中にいる子どもたちへの眼差しが込められている。

「私たちは日本で幸せに生きているけど、世界には戦争や貧困で今日も怯えながら暮らしている子どもたちがいる。じゃあ私たちはどうやって動けば平和につながるかというメッセージを、私が歌うことで考える人が増えてほしいと願っています」

 もうひとつの夢は、海のそばで暮らすことだ。毎年通っている加計呂麻島の漁師・ナツ君との交流が、土屋の心の深いところに根を張っている。元武道家でもある彼は、海にゴミがあれば船を止めて拾い、自分で全部燃やすという。

「毎年彼のところへ海の自然への感謝を学びに行っています。自然界にいると、学校では教えてくれない感謝や苦しさを肌で感じます。そういう人生を最後に生きたいというのが夢ですね」

 東京に戻ってからも、漁師さんのように「今日も陸にあがってこられた」「生きてこられた」「乾杯!」とお酒を飲む。

「これだけ動いていると自分が一服する時間が絶対に必要で、お酒やタバコはオフのスイッチになっています。ママもお酒とタバコが大好きだったけれど、最後の2か月はその楽しみが叶わなかったのは心残りですね」

 別れの悲しみはまだ癒えることはないが、眞弓さんの魂をそばに感じながら、今日も土屋は全力疾走で駆け抜けていく。

<取材・文/垣内 栄>

かきうち・さかえ IT企業、編集プロダクション、出版社勤務を経て、'02年よりフリーライター・編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画・編集・取材・執筆を担当している。