燃え殻『母の涙』より 母、妹と三人で大泣きした後、作り直したミートソースパスタ 撮影/矢島泰輔

ある料理を口にすると、どうしようもなく思い出してしまうあの日、あの人を描く―本作は、「味」の記憶に紐づく愛おしい人々との記憶を呼び起こすエッセイ集だ。高橋一生主演でドラマ化が決定したのを記念して、いま一度、燃え殻さんが本作で描いてきた「忘れがたい思い出」の世界を一部抜粋してご紹介!

※書籍の内容から一部を抜粋し、途中を省略するなど編集した形で、エッセイの一部をご紹介しています。

母、妹と三人で大泣きした後、作り直したミートソースパスタ

「母の涙」より

 昔、母がスーパーマーケットで深夜までパートをしていた日のことが蘇る。家では常に妹と僕の二人きり。

 ある夜、いつも通りに缶詰のパスタソースを鍋の中にドボドボと豪快に入れて温めていると、熱くなったパスタソースが鍋ごと足の上にひっくり返る。「熱っ!」

 僕は「お母さん! お母さん!」と何度かつぶやいた後、「痛いよー! 痛いよー!」と叫ぶように泣き出してしまう。「ごはん食べられないじゃん! イヤだ! イヤだあ~~!!」と妹も泣き出す。

 そのときだ。母が、「ただいま~」と陽気に帰ってきた。安堵からか、僕と妹は母の姿を捉えると、さらに声のボリュームを上げて泣き始めた。

 母はキッチンの大惨事を確認すると、なにも言わず、僕と妹を一緒にしてギュウと抱きしめた。その力は、本気で潰されるんじゃないか? と思うほど強く、息ができない。母の身体全体が、おいおいと泣いている。(中略)

 三人の泣き声の大合唱が家中に響き渡っていた。あの夜のことを、忘れることができない。涙が枯れるほど泣いたあと、三人で手分けしてミートソースを作り直し、一緒に食べた。妹が「みんなで食べるとおいしいねえ」と涙目で笑っていた。

「息子に似てるから」と身体気遣ってくれる“姉さん”のポテトサラダ

「ちょっと、上がっていかない?」より

 中国出身の高齢な女性が営むマッサージ店に通っている。いつの頃からか、僕は彼女のことを「姉さん」と呼び、向こうは僕のことを「トシ」と呼ぶ間柄になった。別れた日本人の旦那との間にできた息子が「俊夫」で、僕にちょっと顔が似ているらしい。

燃え殻『ちょっと、上がっていかない?』より 「息子に似てるから」と身体気遣ってくれる“姉さん”のポテトサラダ 撮影/矢島泰輔

 散々僕を揉みほぐした手を洗わずに、そのまま力強く素手でごはんを握る姿を見て、姉さんの豪快さを改めて感じながら、それでも手は洗ってほしいという気持ちが交互にやってくる、不思議な時間を毎回味わう。二人で、おにぎりとみそ汁を食べながら、近況を語り合うのが毎回の施術後の恒例。(中略)

「これも今日は持って行きなさい」

 姉さんがタッパに入った、玉ねぎとレタスがたくさん入ったポテトサラダを出してくる。しっとりマヨネーズを纏ったじゃがいもに混ぜ込まれた野菜のシャキシャキとした歯ごたえがたまらない。

 帰りしな、姉さんに息子の俊夫さんのことを聞いてみた。別れた旦那さんのお母さんが、俊夫さんを育てることになり、ときどきしか会えないのだと教えてくれた。笑顔だったけれど、少し寂しそうに見えた。

電話越しで一緒に食べた深夜のチョコモナカジャンボ

「有名になってどうするの?」より

燃え殻『有名になってどうするの?』より 電話越しで一緒に食べた深夜のチョコモナカジャンボ 撮影/矢島泰輔

「もしもし……」

 電話口の彼女はゴソゴソモゴモゴしながらそう言った。

「なにか食べてるの?」と僕が訊くと、「バレた。チョコモナカジャンボ」と白状する。

 僕は起き上がって、部屋を出る。アイスのコーナーで、チョコモナカジャンボを見つけて、レジまで持っていく。会計を済ませている間、彼女はケタケタと笑っていた。

「わたしさ、有名になりたかったなぁ……」

 彼女がフッとこの世から消えてしまったのは、その電話から数日後。本当にすぐのことだった。(中略)

 答えは常に一つじゃない。右か左か、上か下か、黒か白か、だけじゃない。保留もあれば、逃げもある。それどころか、答えは常に無限だ。

 選択肢がいくつかに絞られて見えたら、一旦全部傍に置いて、どこにもたどり着かない話でもすればいい。答えなんて出なくても、希死念慮を、時間を、強迫観念を、やり過ごせる。それでいい。

 だから、あの夜もどこにもたどり着かない、これから先の話だけをすればよかった。そうすれば、彼女はいまのこの景色を見れたかもしれない。

JAZZよりサザンが好きな喫茶店マスターの浅煎りコーヒー

「読まれたい日記」より

 行きつけの喫茶店のマスターが、昨日亡くなった。

 初めて店に入ったとき、マスターは慌ててジャズのレコードをかけた。僕たちはコーヒーを注文する。店内に程なくして、小さくウディ・ハーマンが流れ出し、美味しそうなコーヒーの匂いが充満した。

 そのとき、彼の奥さんが店に入ってきた。「外からジャズが聴こえてきたから、お客さん来てると思ったわ」と会釈をする。そして、「この人、ひとりのときはサザン聴いてるんです。お客さんが来ると、突然ジャズをかけ始めるの。キモいでしょ?」と手を叩いて笑った。(中略)

 かっこつけで村上春樹に憧れてるのに、ことごとく俗人っぽい彼のことが好きだった。奥さんの趣味のJAZZを一生懸命好きになろうとしているところも好きだった。線香をあげた後、奥さんに手渡されて彼の日記を読んだ。

〈何事もない日だった。来年には忘れてそうなくらい完璧な日。それはとても幸せなことだ。また近いうち、みさこと一緒に来れたらいいな〉

騙されていても良いと思えたものまね風俗嬢のお弁当

「きれいに騙して」より

 僕がテレビ業界にいたときの後輩に、変わった風俗体験をした男がいた。

燃え殻『きれいに騙して』より 騙されていても良いと思えたものまね風俗嬢のお弁当 撮影/矢島泰輔

「いつもプレイが終わったあとに、全裸の彼女がものまねしながら歌うんです。僕は、全裸のままベッドに座って拍手をするのが恒例なんです」

 彼女の工藤静香のものまねメドレーを見るためだけに、彼は毎回延長までしていた。

「本題はここからなんです」

 彼はカバンの中から空の弁当箱をガサゴソと取り出す。

「彼女が毎回、お弁当を作ってきてくれるんです。栄養つけてね! って」(中略)

 なんの変哲もない弁当箱だったが、なんの変哲もないだけに、シチュエーションとのギャップに迫力が出て、目が離せなくなった。お弁当の中身は、いつもだいたい唐揚げと野菜のおひたし、それに二段の海苔弁。

「それで!? それから!?」

 僕はやっと本腰を入れてその話を聞きたくなってきた。

「このお弁当箱を返しに行かなきゃいけないんで、次の予約を入れました。絶対騙されてるって、言われるんですけど、僕はもうきれいに騙されたいんです」

燃え殻さんの新連載がいよいよスタートします。次号、5月26日号(5月12日発売)掲載の初回インタビューにて新連載のテーマを発表! お楽しみに