「震災の苦しさを乗り越えたのかどうかは、自分ではわかりません。多分、死ぬまで忘れることはないので結局、今は通過点でしかないんです。だから、前向きに生きていきたいという気持ちだけです」
そう話す千葉清英さんは、子どものころから野球少年。高校生のときはエースとして、全国高校野球・西東京大会のベスト4に残ったこともある。
卒業後に就職した酒類の卸会社で、のちに妻となる美奈子さんと出会う。やがて美奈子さんの実家のある宮城県気仙沼市に移住。義父の営む乳業店、千葉一商事の跡取りとして婿入りする。家の外では従業員を抱える経営者、家の中では家族を支える家長として、忙しくも充実した日々を送っていた。2011年3月11日、あの震災が起こるまでは─。
生き残ったのは2人だけ…前を向くしかない
「あの日、大きな揺れがおさまったあと、私は店の戸締まりをするため、義両親、妻と2人の娘、義妹とその息子の7人に、2台の車で先に逃げてもらいました。私も逃げようとした矢先に、濁流に流され、津波にのみ込まれてしまった。ただ、どうにか橋の欄干にひっかかって生き延びた。学校に行っていた息子の瑛太も無事でした。結局、生き残ったのは私と瑛太だけでした」(千葉さん、以下同)
亡くなった家族7人が見つかったのは、震災から3週間後。葬儀、四十九日を終えたあと、清英さんは乳業店を再開した。
「立ち止まると、いやなことばかり考えてしまうので、とにかく動いていないと気が休まらなかった。私の場合、家族は失ったけれど、従業員が全員生きていてくれたので、彼らの生活を守らないといけないという強い思いがありました。それから息子の存在。この2つが何とか私を前に向かせました」
瑛太くんは当時、小学4年生。気仙沼のリトルリーグで野球をしていたが、震災でメンバーがバラバラに。小学校の野球チームに入るが、練習する場所もなく、保護者も生活の立て直しに追われて指導できない。清英さんは車で1時間半かけて、瑛太くんを岩手県のバッティングセンターまで連れていっていた。
ある日のバッティングセンターからの帰り道、瑛太くんがふと口にしたひと言に、清英さんは直感的に希望を感じた。
「自分はバッティングセンターに連れてきてもらえるけれど、周りの友達は連れてきてもらえない。『みんなが練習できるバッティングセンターが近くにあればいいのに、造ってよ』って言ったんです。私はそれを聞いて、“これだ!”って。よし造ってやろう、と約束しました」
震災3年後、バッティングセンターがついに完成!
しかし、その後は日々の仕事に追われて、気がつけば忘却のかなた。ある日、瑛太くんから「いつ造ってくれるの?」と言われて、「この約束を破ったら一生後悔する」とスイッチが入った。とはいえ、バッティングセンターはそう簡単に造れるものではない。土地の造成から建物の建築、マシン類をそろえると、ざっと1億円は必要。
「いちばんの課題は資金集めでしたが、クラウドファンディングには頼りたくなかった。私は会社の経営者でもあるので、会社を立て直しながら、もう一方で、バッティングセンターを造ろう、二兎追うものは二兎得てやろうと考えました」
そこからは無我夢中。とにかく息子との約束を守りたい。それだけでなく、亡き家族の望みを叶えたいという思いもあった。
「震災の翌年は、会社の50周年だったんです。そこで妻と記念にオリジナル商品を作りたいよね、と話していました。先代の義父もまた、50周年にはお客様に感謝のお礼をしたいと言っていました。
そういう話があったなかで、震災から1年後、気仙沼漁港の近くに復興商店街ができて、そこで『飲むヨーグルト』を売ることになった。それをオリジナル商品『希望ののむヨーグルト』として販売しよう。そして、その利益の50円は、バッティングセンターに投入することにしたのです」
50円×200万本=1億円という試算をした清英さんは、資金の1億円を目指して、全国の講演会場や物産展で営業した。
「1人1本飲んでくれたら楽勝だ、なんて勝手に思っていたけれど、そう簡単ではありませんよね。いつも売れ行き良好というわけではなく、天候が悪いと人足が減り、そのまま商品を送り返すこともありました」
そんなとき、たまたま気仙沼で塩づくりが再開した。観光協会の会長に頼んで分けてもらった塩をもとに誕生した商品が、塩サイダー「海の男と潮騒ダー」だ。
「今まで取引のなかった飲食店や道の駅などで販売してもらえるようになり、利益が増えました。加えて震災支援募金や自己資金、銀行からの借り入れで、資金面はどうにかクリアできるかなと。また、義父の古い友人がゴルフ場の跡地を貸してくれることになり、さらに埼玉県のゴルフ練習場を経営している知人がネットを提供してくれて。マシンや什器を譲ってくださる方がいたりと、バッティングセンターの建設が現実味を帯びてきました」
そして震災から3年あまりたった2014年、ついに「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」が完成。喜んだのは野球少年だけではなかった。
「保護者からは、『子どもたちの遊び場をつくってくれてありがとう』と喜ばれました。また、目の前の仮設住宅に住んでいた人たちも、ここで気晴らしをしてもらえたようです。経営者仲間からも、『おまえが動いてくれたから、俺も前に進むことができた』と感謝されました」
今はすべて「途中の出来事」
何より瑛太くんとの約束を果たすことができて、父子の絆は強まったのは間違いない。しかし、震災当時は小学生だった瑛太くんも成長し、思春期に。父子関係は微妙な局面を迎える。
「仮設住宅で6年間、一枚の布団で一緒に寝ていたんです。最初はかわいい、かわいいで一緒に寝ていましたが、中学生にもなると互いにうっとうしくなる。布団をとるな、こっちに寄るな、なんて言い合うわけですよ。
あれは息子が中学3年生のとき。東京の高校に行くと決めて受験勉強中だったある日、仮設住宅にネズミが出たんです。ネズミ捕りを仕掛けても、なかなか引っかからない。でもある夜、息子と帰ってきたらネズミが引っかかっていた! それを発見したときは、思わず息子とヤッターって手を取り合いました。男と男の握手です。そんななか受験も終わり、合格通知が届いた。そして、息子とここにいるのも、あと何日だってカウントダウンに入ったんです。そのとき、もしかしたら俺たちは世界一幸せな親子なのかなって、突然思ったんです。世間からすると同情しかないかもしれないけれど、当の本人たちからすると、この仮設住宅はすごくいい思い出というか、親子にとって最高の時間だったなと」
このころから千葉さんの中に「今を楽しもう」という気持ちが芽生える。
「息子にもよく言うんです。震災で一生分、嫌なことを味わったけど、このままでは終わらない。今やっていることはすべて、あとから全部いい思い出になる。だから今を楽しもう。とにかく自分のやりたいことを全うしようってね」
震災後15年、今も通過点でしかないと語る千葉さんだが、話すうちに「俺、よくやってきたな」と思わず漏らす。
「やっぱり自分の中で、負けない、諦めないというのがあった。いつかゴールがあるなら、今はすべて途中の出来事。だから、どんなにつらいことがあっても、その先に明るいことが絶対にあるって。そう動いてきた結果、自分が予想もしていなかったことも実現できたんです」
それは、この本の出版もしかりという。
「震災後、いちばん苦しいときに、当時100歳の詩人と呼ばれた柴田トヨさんの詩集に救われて、本の読者はがきに思いの丈を書いて送ったんです。そのはがきを受け取った担当編集の方が、今回、この本を企画してくださった。すごい巡り合いだと思います」
この本は、「すべての人に読んでほしい」と力を込める。
「全世界、悩みのない人はいない。それなのに当時の私は、自分だけがつらい思いをしていると思っていた。でも、みんなそれぞれが悩みを抱えていて、それは比べられるものではありません。だから私は、『一緒に乗り越えよう』と言いたい。今、日本中で災害が起こっていて、これからも起こるでしょう。これまで多くの方からいただいた恩を、今度は次の人に返す“恩送り”をしたいですね」
失ったものも大きかったけれど、得たものも大きかったのでしょうか? 最後に尋ねると、「そう思います」と笑顔で答えてくれた。
取材・文/池田純子
