フリーアナウンサー・武田真一(58)撮影/山田智絵

 “震度7”を記録した熊本地震から、今年4月で10年が過ぎた。当時NHKアナウンサーだった武田真一さん(58)が、『NHKスペシャル』(以下、Nスペ)の中で語ったコメントは今も人々の心に残っている。

「熊本県は私のふるさとです。家族や親戚、たくさんの友人がいます。そのふるさとで多くの方が犠牲になり、そして多くの方々が絶え間なく続く地震におびえながら、また今夜も明かりのない夜を迎えることを思いますと、胸が締めつけられます。

 被災地のみなさん、そして私と同じように、ふるさとの人たちを思っている全国のみなさん、不安だと思いますけれども、力を合わせて、この夜を乗り切りましょう。この災害を乗り越えましょう」

武田真一さんのふるさとを襲った熊本地震

NHK入局後、初任地になったのが地元・熊本放送局だった

 武田さんは、大地震が熊本を襲った4月14日金曜日、自宅でくつろいでいた。

「あの日は夜7時の『ニュース7』で仕事を終えて、家で『秘密のケンミンSHOW』(日本テレビ系)を見ていたんです。2年間働いた沖縄が特集されていたので。

 ジューシー(沖縄の炊き込みご飯)が出てきて、美味しそうだねって妻と話していたら、“震度7”という地震速報が流れて、これは東日本大震災や中越地震クラスだと。さらに驚いたのは震源地が熊本だという情報でした」

 とにかく仕事に行くために着替え始め、同時に震源地近くに住む妻の両親、そして自分の母の安否を確かめようとするが連絡がつかない。不安を抱えながらスタジオから地震関連のニュースを伝えた。

 親たちの無事を確認できたのは翌日だった。そんな中で発災の2日後、16日に放送予定のNスペの準備をしていたのだが、放送日の午前1時に本震(震度7)が発生。

 編集済みの素材をそのまま使えなくなり、“私たちは被災地のみなさんを見守っていますよ”というメッセージを番組で伝える方針が決まった。それに沿って武田さんが考えたのが冒頭のコメントだった。

「数年前、熊本県のある職員が僕にあのコメントの感想をくださったんです。“東京から離れた場所で起きた災害だと思われるのが一番怖かった。でも東京にいるあなたのひと言で、全国の人がわがこととして地震を受け止めるきっかけをつくってくれた。それがすごくうれしかった”と」

 ただ、災害報道には苦い思い出がある。東日本大震災当日、武田さんが最初に中継したのが津波に襲われる宮城県名取市の様子で、なすすべがなかった。その贖罪の気持ちなのか、毎年3月11日には、名取市閖上地区に出かける。追悼の風船を空に飛ばす行事で黙祷を捧げるためだ。

NHKの看板アナウンサー

熊本放送局の後に赴任したのは四国の松山放送局。台風中継の下読み中のカット

 振り返れば武田さんはNHKの看板アナウンサーだった。NHK時代の先輩で、現在フリーアナウンサーの水谷彰宏さん(62)はこう話す。

「武田君は報道アナウンサーとして、『ニュース7』や国政選挙の選挙速報を何度も任されています。スポーツではバンクーバーとロンドンのオリンピック開会式の司会、芸能では『紅白歌合戦』の司会も担当。報道、スポーツ、芸能、それぞれの頂点の仕事を任されているわけです。これはエースの証。これらの一つも手がけられないままアナウンサー人生を終える人のほうが圧倒的に多いのですが」

 局内で築いたキャリアを捨てるのは相当な覚悟が必要だったはずだ。フリーになって追い求めていたこと、伝えたかったこととは何だったのだろうか。

ファッション、音楽、そして言葉に憧れて

筑波大学4年生のときの学祭でのカット。ボブ・ディランの『AllAlongtheWatchtower』などを演奏したという

 武田さんは、1967年9月、熊本県で5人兄弟の長男として生まれている。

 高校時代の武田さんは、ファッションに興味があり、当時人気があったメンズビギやメルローズといったDCブランドに憧れて、地元のセレクトショップを訪ねていたという。

「ただ、服は高くて高校生の小遣いでは買えないから、安い小物を買ってブランドのデザインが印刷された紙袋を手に入れるんです。それを持つのがステータスで、体育着とかお弁当を入れて、くしゃくしゃになるまで使っていました」

 一方で“パンク少年”でもあった。掃除用具のロッカーにギターを入れ、放課後、近所の貸しスタジオに直行。ザ・スターリン、セックス・ピストルズなどをコピーした。

「髪の毛を無理やり立たせて。あんまり立たなかったんですけど(笑)。ちょっとだけアイラインを引いて悪魔みたいなイメージで、文化祭に出てはギターを弾いたりしていました」

 ライブにもよく行った。RCサクセションや福岡県出身のTHE MODS、特に佐野元春さんの大ファン。チケットを取るために発売前日から行列に並んで夜を明かし、学校をサボったこともあったという。

 実は、のちに妻となる陽子さんとの交際のきっかけは佐野さんだ。陽子さんは次のように回想する。

「主人も同じ硬式テニス部員だったんですが、最初はあまり話さなかったんです。でも3年生のときクラスが一緒になって、2人とも佐野さんのファンだとわかってからは、佐野さんの本を貸してあげたりするようになりました」

 高校卒業後は筑波大学に進んだため、地元に残った陽子さんとは遠距離恋愛に。ただ、佐野さんのライブに一緒に行くなど、交際は続いた。

 武田さんは大学でもバンド活動を続けていたが、音楽を将来の仕事にしようとは考えなかった。

「あのころは糸井重里さんなどコピーライターが憧れの職業で、言葉を扱う仕事に就ければと考えていました」

 大手広告代理店を受けるがうまくいかず、偶然友達に誘われたNHKを受験。志望職欄にはディレクターと書き、アナウンサーは第2志望にしたのだが、これが意外な展開に。

「記者出身のキャスターが担当した『ニュースセンター9時』という番組が注目されたこともあって、当時は、局としてもジャーナリスティックなセンスを持って、自ら企画し、取材するマインドのある人をアナウンサーとして採用しようという時期でした。

 アナウンサー志望以外の人をアナウンサーとして採用するケースが多かったんです」

1年目の秋にミスを犯す

 '90年、初任地は地元の熊本放送局。土地勘のある場所でよかったのだが、1年目の秋にミスを犯す。夜9時55分からの5分間、ラジオの天気予報を読む仕事を任された。ところが違う日の原稿を読むなどひどい出来。誰も聴いていないだろうと高をくくっていたら放送後に外線が入った。

「僕が読んだ天気予報を聴いていた女性からでした。その方は目が不自由で、ラジオ天気予報を参考に翌日の予定を決めているのに、今の天気予報はひどかった、と。カミナリに打たれた気持ちでした。放送とは1度きり、そのときに100%伝えることができなければ意味がないのだ─そういう教訓を得ました」

 とにかくいろいろなテーマを取材した。ゴルフ場の建設問題、産業廃棄物の不法投棄問題、災害……。取材して5分ほどの番組にまとめる仕事を繰り返した。さながら野球の“千本ノック”のようで鍛えられたと振り返る。

 その後の人生を決定づけたのは、'95年の阪神・淡路大震災。熊本に4年間いたあと四国・松山放送局に異動して1年目だった。地震があったその日に震源地である淡路島に入った。その体験が災害報道を考えるきっかけになる。

「報道は、警察や消防や自衛隊、ボランティアのみなさんのように、現場で直接人々を助けられるわけではないけど、報道で人を救うことはできないのだろうかと考え始めました」

 積極的な取材マインドが認められたのか、'97年、東京のアナウンス室に配属される。

 最初は『おはよう日本』の3分間の中継リポートを担当した。早朝なので取材先との交渉が大変だった。

「山一証券など大きな金融機関が経営破綻したとき、“格付け会社”がよく登場しましたが、朝6時にS&Pという会社に行って、1人しか出社していないところでリポートさせていただきました。

 国際宇宙ステーションに、宇宙船内で実験ができる施設『きぼう』ができたときは、防塵用の防護服を着て中継したこともあります。JAXAに朝5時に対応していただけますか、とお願いしたらギョッとされましたけどね(笑)」

 隔週の担当だったので、担当の週は連日泊まり込み。それが1年半続いた。

 その頑張りが認められ、'99年、31歳のとき正午のニュースを土日だけ任されるようになる。それまでは40代以上のアナウンサーが担当していたことを考えると、抜擢である。周囲には大丈夫か? という雰囲気があった。

今、目の前で起きていることを伝えるために

言語明瞭でわかりやすい話し方は、放送でニュースを読み上げている姿と同じ(撮影/山田智絵)

 担当2年目・'00年6月に受けた洗礼を今も覚えている。韓国と北朝鮮の南北首脳会談の中継である。

 武田さんは、史上初の会談に備えてカッコいいコメントをたくさん準備していた。

「南北分断から52年の歴史の中で、初めて両首脳が顔を合わせます」などと。しかしそれらはなんの役にも立たなかった。隣に座っていた国際部デスクが見事に実況したからだ。

《いま金大中大統領がタラップに立ちましたね》
《いま2人は両手で握手しています、笑顔ですね》

「本来、それは僕がやるべきだったんです。でもできなかった。表情やしぐさなどすべてがメッセージなんだと。今、起きていることを切り取り、起きていることの意味を伝える。そこからニュースをひもといていく。頭で考えたコメントなんて要らないんだ。それを学びました」

 その後も武田さんを試すように大きなニュースが続く。昭和天皇の妻である香淳皇后の崩御、「正午のニュース」の平日担当になった'01年はアメリカ同時多発テロ事件、'02年には北朝鮮に拉致された被害者が帰国、'03年、イラク戦争、'05年、JR福知山線列車脱線事故……。

 中でも'04年10月に起きた新潟県中越地震での中継は、武田さんの心に深く刻まれている。

 地震発生から4日目の中継を武田さんは担当した。母親の運転する車で姉と自宅に帰る途中、地震による土砂崩れで生き埋めになった皆川優太君(当時2)。生存の可能性が下がるとされる72時間を経過していたが、懸命の救助活動が続けられ、ついに事故から92時間後、奇跡的に助け出された。その瞬間、武田さんはひと言こう伝えた。
《生存しています》

「本当に声が震えて、不覚にも涙がにじみました。スタジオのスタッフも泣きながら仕事していました。僕にも同じくらいの年頃の子どもがいましたから、親の気持ちにもなって、本当によかった、生きていてくれてありがとうという気持ちでした」

 母親と姉は残念ながら亡くなった。しかし……、

「ニュースというのは基本的に事件で人が死んだ、傷ついたという事実を伝えることがほとんどです。でも1人の命がつながったこと、希望を報じられたのはよかったですね。報道の使命を改めて考えさせられました」

 実はこの後、武田さんは中越地震の災害現場を訪ね、ボランティアを行っている。

「アナウンサーはスタジオを守るのが仕事なんですが、現場を知らなきゃいけないと思ったんです」

 向かった先は観測史上初めて震度7を記録した川口町(現長岡市)。壊れた家からテレビなど電化製品を回収する作業を手伝った。防塵マスクをしているので武田アナだと気づかれることはなかった。

「例えば冷蔵庫を運び出すと、畳一畳分がきれいに片づくんですね。冷蔵庫があったところを家の人が拭くと、“あー、すっきりした”とおっしゃる。そのときに思ったのが、“そうか、これが復興ということなんだ”と。壊れたものを一つひとつ人の手で片づけるという膨大な作業の次に、新たなものをつくっていく。これが復興なんだ、軽々しく復興なんて言葉を使ってはいけないと」

 取材をするアナウンサーとしての時間が長かったためか、武田さんは、じかに目で見たり生身で感じたりして、自分の身体の中を通した言葉で語るプロセスを大事にする。

「すべてに自分のフィルターを通すのは無理です。調べたことの受け売りになってしまうことも少なくありません。でも、自分はどう考えるのかという意識は常に持っていなきゃいけないと思います」

 今やAIがニュースを読む時代である。ただ、アナウンサーが原稿を読む場合でも、淡々と、何も考えなくてよいというわけではないという。

「ニュース原稿の向こうには人々のリアルな苦しみや悲しみ、日々の営みがある。そこに思いを致す、あるいは寄り添う気持ちが声や表情に反映される。そこは大事にしてきたつもりです」

 '06年、希望して沖縄放送局に行ったのも、沖縄戦やアメリカ統治の歴史、そして基地問題を、実際に住むことで知りたいと思ったからだ。

 沖縄で生活してみて、思いもしなかったことにも気づかされる。ある日、スーパーで買い物をしていたとき、ふいに知らない人に呼び止められ、

「テレビでこういうことをやってたね」

 と直接感想を言われたのだ。

「全国ニュースをやっているとなかなか気づかないんですが、放送の原点というのは、右隣にいる人から聞いたことを、左隣の人に伝える─そういうシンプルな営みなのだと再認識したんです。そう考えると仕事が楽しくなり、元気が出ました」

「伝わる言葉」「伝わる話し方」を求めて

NHKの管理職ではなく、アナウンサーの現場に居続けることを選んだ武田さん。「言葉」に対する思いは、まだまだ果てることはない(撮影/山田智絵)

 武田さんの仕事を長年見てきた、前出の先輩アナの水谷さんによれば、若くして大きな仕事を任されるようになった要因の一つは、常に冷静で、正確なアナウンスを心がけてきたからだという。それは日常の努力の積み重ねだと。

「武田君が私に電話をかけてきたことがありました。落語家の立川談志さんが亡くなった原稿を読むんだけど、談志さんだけでなくお弟子さんの名前のアクセントをチェックしてほしいと。私が芸能の世界に多少明るいことを知ってのことなんですが、彼の正確なアナウンスの裏側を見た気がしました」

 開票速報で、政党の幹部にインタビューをするときも、武田さんはひるまず聞くべきことを質問していたと、水谷さんは振り返る。

 そんな肝が据わった武田さんでも、'11年3月の東日本大震災は次元が違った。

 地震発生直後から、ずっとスタジオで地震の番組を担当した。津波に町がのみ込まれたことを伝えたかと思えば、地震発生直後に、被災地の病院で赤ちゃんが生まれたことも伝えた。

 ニュースを伝えながら、武田さんだけでなく、スタッフも泣きながら番組を作っていたという。

 そのころの武田さんのことを妻・陽子さんは覚えている。

「家に帰れない状況が続いていましたね。疲れたという状態を超えたすごい疲弊のしかたでした。震災の現場を言葉にしなければいけないということは、精神的にもこたえたでしょうね。眠れないとも言っていました。

 休みなしで放送していたので、相当喉に負担がかかったのだと思いますが、声帯を痛めて、声が出なくなっていました」

 専門のクリニックで診察を受けたところ、話してはダメと言われた。しかしそれは難しいので、だましだましやっていたという。

 そうした苦労が報われて、NHKの地震報道は一定の評価が得られた。しかし武田さんはそれを喜ぶ気にはまったくなれなかった。

 実は、地震が起きたとき、「大丈夫だ、みんなできる」

 と思っていたという。

 というのも準備をしていたからだ。武田さんが2000年前後から自分用に作った、災害時のアナウンサー用マニュアルを、記者など他職種のマニュアルを参考にしながら何度もバージョンアップし、アナウンサー同士で共有し、練習を重ねていた。

 また技術スタッフに依頼して、パソコン画面で地震の初動対応を練習できるシミュレータも作り、アナウンサーは自主練もしていた。そうした成果が発揮されると思っていたのだ。

「しかしおよそ2万人が亡くなったんですよ。今までの伝え方が間違っていたんじゃないかと思いました。情報を伝えることもそうですが、視聴者の危機感に訴えかけて、避難を呼びかけ、行動を促す情報提供が必要だと」

 アナウンサーの有志や災害担当記者、テレビ・ラジオニュースの部署などの面々が集まり、アナウンスだけでなく、画面の見せ方などを多角的に議論を重ねた。それが'11年11月に完成した。

 アナウンスでいえば、「今すぐ逃げること」という体言止めの、強い呼びかけはそのときにつくられた。また 避難所や公営住宅に移ってから体調を崩して亡くなるケースが多かったので、地震後のフェーズに合わせたアナウンスなども整えた。

 武田さんは、インタビューの中で、何度も「伝わる言葉とは何か?」「伝わる話し方とは何か?」という言葉を口にしたが、その答えを探しながら、試行錯誤してきたのだ。

忙しい仕事の間に見せた“父親”の顔

次男の小学校時代に、ボランティアで行った、読み聞かせの現場

 武田さんがやりがいを感じた仕事の一つに挙げたのが『クローズアップ現代+』である。多様性、ジェンダー、働き方、MeToo運動……世の中の新しい考え方を伝えていく番組は新鮮だった。しかも番組担当者から指示されたことにもハッとさせられた。

「主語は“私たちが”ではなく、“私が”で話してほしい。“私はこう思う”と言ったほうが言葉として強くなるし、人々を動かすと」

 それが如実に表れたのは、〈毒親〉を特集した回。武田さんが、自分の子育て経験を振り返り、子どもに対して「将来のためにこれを勉強したほうがいいんじゃないかと言ってしまう」と話すと、ゲストの1人にそれは押しつけにつながると指摘され、武田さんは、「反省することばかりですね」とひと言。

 それを受けて、ゲストで女優の東ちづるさんが、母親が謝ってくれたおかげてスッとしたという話をしながら、考え込む武田さんを見て、「親って大変ですね」とフォローすると、武田さんの涙腺が崩壊した。

「1人の人間として受け止めるべきことだと思いましたので、本当にいい機会をいただいたと思いましたね」

 “自分”をさらけ出した、見事な「私が」の話法になっていた。ただこう書くと、武田さんが厳しすぎる親のような印象を持つかもしれない。

 しかし2人兄弟の長男、真太郎さん(仮名・30)は、

「割と自由で、放任ぎみで、口うるさくはなかったです」

 と言う。よく覚えているのは、ほぼ毎夜読み聞かせをしてくれたこと。絵本だけでなく『ハリー・ポッター』シリーズなども読んでくれた。

「落語みたいに、登場人物の声色をかえてやってくれました。芝居がかっていて、楽しかったです」

 沖縄から東京に異動したときは、陽子さんが沖縄での引っ越し作業が忙しいので、先に東京で生活を始めていた武田さんが、子どもの入学準備をした。陽子さんが回想する。

「思い出深いのは、上履きや防災ずきんを入れる布袋です。主人がミシンを練習して作ってくれました」

忙しい仕事の合間に、父親として子どもたちとの時間を大切にしてきた武田さん。小学校のPTA親父の会で次男と一緒に田植え体験も。

 次男がサッカーのクラブチームに入っていたので、練習についていくだけでなく、WOWOWに加入し、スペインリーグを何試合も見て研究していた。その熱心さはNHKのスポーツアナも舌を巻くほど。またサッカーに集中するあまり、次男は塾に行けないため、中学受験に必要な教科を武田さん自身が参考書で勉強し、問題を作り、答え合わせと解説をした。結果、難関私立中高一貫校に入学できた。陽子さんいわく、

「主人はこれだと思ったことにグッと集中して覚えたりするのは得意でしたね」

 この受験で父と次男の関係が悪くなることもなく、むしろ次男は父親が大好きになった。

 PTA活動にも積極的に参加していた。息子の友達の母親にも驚かれるほど熱心で、読み聞かせをすることもあった。そんなこともあって、お母さんの友達も多かったという。

 真太郎さんが在籍していた野球チームの練習だけでなく合宿にも行き、父親同士で仲良くなり、ソフトボールチームをつくったり、お酒を飲んだりする仲になることもしばしば。陽子さんはこう話す。

「子どもが大好きで、わが子だけでなくほかの家の子も可愛がっていました。いろんな人と仲良くなるから、気づいたら地域に溶け込んでいるという感じでした」

 武田さんが、『クローズアップ現代+』や、現在MCを務める『DayDay.』(日本テレビ系)で見せる一般の人に近い感覚は、こうした普通の人との触れ合いの中で育まれてきたのかもしれない。

フリーになっても変わらない“現場主義”

「AIがニュースを読む時代、アナウンサーの立場は?」の質問に、自分自身がどう感じて何を思ったのか、そんな気持ちを込めて話すことは人間だからできること、と話す(撮影/山田智絵)

 さて、NHKを辞めるときの話に移そう。

 理由を聞くとこう答えた。

「定年が見えてきて、アナウンサーという仕事の面白さを改めて感じられるようになったんです。管理職の道もあるけど、アナウンサーの仕事をもっと続けたいと」

 まだ見ぬ世界を見てみたいという欲求もあった。例えば民放の世界。CMやドラマってどうやって作っているのか。そうした好奇心もあった。

 ある日、当時大阪に単身赴任していた武田さんから、陽子さんに電話がかかってきた。NHKを辞めたいと言う。

「いいよ、好きなようにすればいいと思うよ、と言った記憶があります。いつも主人は決めたら変えないので」

 フリーになって、大手事務所に所属するのかと思いきや、自分の会社をつくったのも、武田さんらしい判断だった。

「大阪で町工場や商店の方に取材したんです。取引先との交渉も自分でやっていらっしゃる。僕の場合も事務的な業務はすべて所属事務所に任せて仕事に集中するという選択肢もありました。でも、中小企業の取材をして、景気がどうだ、インボイスがどうだと、何の実感もないのに言っていいのかと思ったんです」

息子に「番組を楽しみながらMCをしている」と言わしめた『DayDay.』で、誕生日を祝ってもらい満面の笑み

 '23年にフリーになり、4月から『DayDay.』のMCになった。丸3年たって、変わらないところ、変わったところをチーフプロデューサーの大橋邦世さんに聞いた。

 変わらないところは、「誠実でまじめ、信念を持って時に頑固なところ」だという。

 実は『DayDay.』を引き受ける際、武田さんはある提案を示した。

「3月には地震・防災、8月には戦争をテーマにした番組を放送したい」

 地震・災害報道がライフワークになっている武田さんにとって、フリーになっても貫きたいテーマだったのだ。

「特に地震関連のときには、豊富な現場取材やボランティアの経験を踏まえて、番組作りに助言をくださいます。能登半島地震のときも避難所のトイレの惨状を教えてくださって、それが簡易トイレも含めて深掘りする番組につながりました」(大橋さん)

 最初の印象と違うのは、少年のような無邪気な一面を見せてくれるところだという。例えば『DayDay.』のテーマソングを書いた福山雅治さんのライブに番組の企画で出演したときの表情だ。

「ライブのために、ギターを新たに買って、ものすごくうれしそうに弾いていらっしゃった。それに“みんな盛り上がっているか~”と会場を盛り上げてました(笑)」(同)

 番組の公式TikTokでも、出演者と一緒に踊ったりしている。

 もう一つ意外な一面は、涙もろいところ。特に若者が懸命に頑張る姿に心打たれて涙ぐむ場面がよくあるという。

「番組では、高校生のダンス動画ナンバーワンを決める“LOVEダン”という企画があるんですが、高校生がどんな思いで踊っているのかを撮影したビデオを見て、よく泣かれています。若い世代へのリスペクトを持っていらっしゃるのだと思います」(同)

 そんな愛すべきキャラクターを持ちつつも、ベースには番組の〈お父さん〉的な安心感があると大橋さんはこう語る。

「それによって山ちゃん(山里亮太)や、コメンテーターのみなさんも自由に発言できるところもあると思います。何を言っても、安心と信頼の武田さんがうまく受け止めてくれると」

 長男の真太郎さんは、『DayDay.』で楽しそうにMCを務める父親の姿を見て、よかったなと思っている。真太郎さんはあるとき、父親がフリーになったのは、あの歌が関係しているかもしれないと考えた。小学生のころに家で毎晩のように歌っていた、ニール・ヤングの『Heart of Gold』(『孤独の旅路』)だ。

 真太郎さんはこの曲の歌詞の一節を、〈言葉で言い表せないものが、黄金の心を探し続けさせる〉と解釈し、〈言葉で言い表せないもの〉を探し続けるためにフリーになったのではないかと言う。確かに武田さんの歩みと重なる。おそらくこれからもずっとそれを探し続けるのだろう。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち 奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書には東京五輪出場選手を描いた『東京五輪の残像』(中公文庫)や、中島潔氏の地獄絵への道のりを追った『絵描き─中島潔 地獄絵一〇〇〇日』(エイチアンドアイ)など、多数。