落語家・道心寺住職、露の五九洛さん(撮影/伊藤和幸)

 つるつる頭の落語家・露の五九洛さん(39)の鉄板ネタといえばこれである。

「こんな頭で出てまいりまして、ビックリされた方もおられるかもしれませんが、私、落語家でありながら、比叡山延暦寺に総本山がございます天台宗のお坊さん、住職でもあるんですね。ただ、本職は落語家でございますから、落語家としては“プロ”なんですが、お坊さんとしては“アマ”なんです」

落語家と僧侶、二刀流の住職が務めるお寺

コンクリート打ちっ放しの現代的な建物の2階に本堂を構える道心寺

 落語家と僧侶─二刀流のこの人が住職を務めるお寺は「道心寺」。兵庫県尼崎市にある。どこまでも「アマ」がついて回るが、この寺は珍しい造りになっている。以前は日本料理店だったコンクリート打ちっ放しの建物の2階が本堂で、扉を入ると右手にご本尊など祭壇が見える。驚くのが左手にしつらえられた落語の高座である。

「不思議に思われますが、私たち“露の一門”の初代露の五郎兵衛は、上方落語の祖の1人といわれていまして、実はお坊さんでもあったんですね。歴史をひもとくと、落語の起源は、仏教の難しい教えを面白く退屈させないよう聞かせるものだったそうです」

 月3回、「3」のつく日は「縁日寄席」が開かれ、取材当日も、午前10時前になると、40人近くがお参りに来ていた。

 まず五九洛さんを導師に、参拝者全員で般若心経の読経。そのあとにミニ法話、質問コーナーがあり、縁日寄席が幕を開ける。

 桂りょうばさんの落語、シンデレラエキスプレスの漫才に続き、五九洛さんが高座に。マクラでは、五九洛さんのお腹にできものができて部分麻酔で手術を受けたときの話を披露した。執刀医がメスを入れようかという直前に「うちは曹洞宗、嫁はんの実家は臨済宗、これ、お墓一緒にしてもええかな?」という仏事相談を始めたという場違いな話で客席は爆笑。

 その流れで、これまた別の宗派「日蓮宗」の「南無妙法蓮華経」を唱えて命乞いするシーンがある演目、『無妙沢』へと入った。

「うちのお寺は檀家さんを持たない“信者寺”なんです。寄席を目的に来られて、仏教にも触れて親しみを持ったり、悩みの相談をしたり、宗教とお寺をもっと身近に感じてもらうきっかけになればと思っています」

 縁日寄席が終わると、ひと息つく暇もなく、神戸市内にある寄席「喜楽館」へ。合間に寄席の告知をXに投稿した。

 その日の演目は古典落語『お血脈』。舞台は信州・善光寺。「血脈の印」を額に押してもらうと、どんな者でも極楽往生できるというのだが、割を食って閑古鳥が鳴く地獄の閻魔さまが、大泥棒・石川五右衛門に、ある依頼をする……。

 五九洛さんは見事な語り口で観客を引き込んだ。

新人のころは「二兎を追う者は一兎をも得ず」

道心寺では同じ室内に、ご本尊などの祭壇と落語の高座が設けられている

 今でこそ二刀流は、メジャーリーガーの大谷翔平選手の例もあって、ポジティブに捉えられることが増えたが、五九洛さんが新人のころは、「二兎を追う者は一兎をも得ず」とネガティブなイメージが強かった。

「前例がない。だからやる」

 これは社員教育の仕事をする父親がよく口にしていたアサヒビールの樋口廣太郎元会長の言葉だ。五九洛さんは、この教えを胸に、迷わずわが道を突き進む。

 本名は「鳴海ハトル」。NHKのドラマ『中学生日記』に出演していたので、この名前に覚えがある読者もいるかもしれない。1986年、静岡県で三姉妹の末っ子として生まれ、3歳からは愛知県で暮らした。

「小学4年のころ、国語の授業で狂言の一節を音読したら、先生から褒められたんです。そんな私に、劇団ひまわりの募集広告を見つけた母が、どう?とすすめてくれました」

 3年間、ドラマや舞台に出演したが、ある出来事を機に別の道を模索し始める。

「舞台で誰かがセリフを忘れると、責任のなすりつけ合いになることがあって。私は自己責任でできる仕事がいいなと思うようになったんです」

 まだ高校生だが、持ち前の行動力と切り替えの早さで、道を切り開こうとしていく。まず飛び込んだのが吉本興業の養成所NSC。だが、すぐ自分には合わないと悟る。次に浮かんだのが落語家だった。落語が大好きな両親の影響で、テレビでよく見ていたのだ。

 落語の世界を知りたいと、高校に通いながら単身、名古屋・大須演芸場の門を叩き、「寄席の手伝いをしながら勉強させてほしい」と頭を下げた。学生の熱意に押されたのか、席亭(経営者)も承諾。寄席の座布団など道具類を運んだり、客の呼び込みを買って出ることも。

 ところが高校2年生のとき、思わぬ問題に直面する。

 ある日、ネットカフェで落語のことを調べている合間に、自分の名前を検索したところ、「鳴海ハトル」という同姓同名の作家がいることを知ったのだ。しかもその作家、男性同士の性愛を描いた作品を出版しているではないか。

「いちばん大事にしてきたもの(名前)を汚されたみたいで、すごくショックでした」

 意を決し、出版社に自ら電話。著者の連絡先を聞き出し何度も抗議するが、家族から「うるせえんだよ、バーカ」と罵られる始末。弁護士に相談した結果、裁判をすることに。

 中学校の部活で、女子部員が男子部員にお茶くみをしなければならない決まりに抗議したハトルさんである。理不尽な問題を前に、黙ってなどいられなかった。

 この裁判、結局は和解となるのだが、心に負った傷は深く、“この名前でずっと生きていかなければいけないのか”と苦悩した。

 ふさぎ込む様子を心配してくれた友達にわけを話すと、「知ってたよ、ハトルちゃんはああいうことを描くんだと思ってた」と言われる。

「ショックでしたね。友達にもずっとそんな目で見られていたんだ、と。人間不信になりました」

 やがて死にたい、と思うようになる。その状態は1年ほど続いた。と同時に名前をつけた親に対しても否定的な感情が募っていく。当時、自殺予防の電話相談ボランティアをしていた母親に対しても。

「夜勤で出かける母を玄関で見送るんですが、死にそうになってる娘を目の前にして、あなたはほかの死にそうな人の話を聞くんだと、怒りとか悲しみみたいな感情がありました。口にすると親に心配かけるし、悩みは打ち明けていないので、当然母に伝わらないのはわかっているんです。でも、娘のことに気づかないのも、どやねん?と」

「私にとって、お釈迦様はアニマル浜口だ!」

高校時代。卒業後は、住み込みで落語の修業を3年間経験

 そんなどん底を救ってくれたのが仏教だった。ふと、自分の小遣いで買った仏教書が目に留まったのだ。宗教に関心を示すきっかけは、3歳のときに祖父が亡くなったことだった。

「死んだら火葬場で焼かれますよね。めっちゃ怖いなと思って、夜、寝ながら泣いていたんです。その問題を解決したくて宗教の勉強を始めました」

 久々に仏教書を読み返すうち、あることに気づく。

「自分とお釈迦様との関係は、当時活躍していた女子レスリングの浜口京子選手と、父親のアニマル浜口さんの関係と似ていると思ったんです。アニマル浜口さんは“気合だ!”と娘を励ましながら、試合中もずっと声をからして声援を送る。私も同じように、お釈迦様からずっと応援されてきたと思ったんです。私は、お釈迦様の弟子だなって」

 さらにこう思った。

「今、自分が死んだらお釈迦様が悲しむんじゃないか。だから、死ぬのはやめようと」

 自殺を思いとどまってから、両親への悪感情も潮が引くように消えていった。

「そのころからです。私もお坊さんになろうと考えるようになったのは。自殺を思いとどまらせてくれた仏教を多くの人に知ってもらおうと」

 まず落語家を目指し、のちにお坊さんにもなろうと決意。

「そのことを心の中でお釈迦様にお伝えしましたら、“そう(僧)”とおっしゃいました(笑)」

 行動は早かった。高校3年のとき、初代が落語家で僧侶でもあった露の五郎兵衛の門下、露の団四郎(現・五郎)師匠に弟子入りを志願したのだ。しかし最初は断られた。弟子入りを許してくれた両親を伴って交渉しても、答えは同じ。それでもなお頼んでいると、熱意が通じ、ついにお許しが。2005年3月、高校卒業後、すぐに入門した。

 芸名は「団姫」に決定(以下、五九洛に改名するまで団姫と表記)。当時は昔ながらの修業の名残があった。今なら「ブラック」と言われそうなことが日常的に起きたのだ。

 住まいは師匠の自宅の隣のアパート。掃除、洗濯、炊事など身の回りのこと、師匠の子どもの送り迎えもした。夜中でも携帯電話に連絡があり、怒られることもしょっちゅう。

「喜楽館」の楽屋にて、落語家の桂ぽんぽ娘さん(右)と

 団姫さんと親しい落語家の桂ぽんぽ娘さん(46)は、当時のことをよく覚えている。大須演芸場で、団四郎師匠が作った料理を、団姫さんとぽんぽ娘さんが配膳したときのことだ。

「師匠が“団姫!”と、めちゃくちゃデカい声で呼ぶんです。彼女はヒャーって風のように走っていって、すっごく謝っている。まだ仕上げていないおかずを運んだと怒られているんです。犯人は私だったので師匠に謝ると、優しい声で“なんや、おさなぎ(色=当時の芸名)か、ほんならエエねん”っておっしゃって、その瞬間、“怖~っ!”と思って。団姫姉さんは“それ私じゃないです”と言いたい気持ちを抑えて、えらいなと。と同時に、これから3年間の修業、大変だなと」

社会から遮断! 「浦島太郎」のような修業時代

25歳のとき、比叡山での修行が決まり、出家前日に剃髪

 修業が3か月を過ぎたころ、大師匠で、二代目露の五郎兵衛さん宅に移り、住み込みで修業することになる。当時73歳の大師匠の家事手伝いや身の回りの世話、通院の送り迎えなど、一層忙しくなった。

「あのころは社会と完全に遮断されていました。親には連絡できないし、テレビや新聞も見ることができません。3年の修業期間に人気だった歌やドラマはまったく耳に入らない、完全な浦島太郎状態でした」

 唯一の発散場所は「日記」だった。感じたことを毎日書き連ねたが、読み返すと、師匠の悪口やネガティブなことばかり。「こんなのを持っていたらロクな人間にならへん」と思い、のちに廃棄した。

 面白いのは、子どものころは、スイミング、ピアノ、書道、英語……、何ひとつ長続きしなかったことだ。

「なのに、落語の修業が続いたのは、やれないことが多すぎて、やっと見つけた“これだ!”というものに必死にしがみついたからだと思います」

 修業に耐えたご褒美なのか、光が当たり始める。'07年10月から放送されたNHKの朝ドラ『ちりとてちん』の“モデル”といわれるようになり、名が知られていく。

 さらに3年の修業が終わろうとしていた'08年の初め、関西の人気番組『おはよう朝日土曜日です』(朝日放送)からレギュラーの出演依頼が届く。

 聞けば、修業3年目のとき、上方落語の定席「天満天神繁昌亭」に出演していたところに、番組のプロデューサーが偶然来ていて、目星をつけていたようなのだ。

「でも、関西の看板番組なだけあって、業界特有のしきたりに慣れず、気を張る日々が続き、当時はよく金縛りにあっていました。

 タレントとしての仕事も大切ですが、ステーキやカニなどの食レポをしながら、僧侶の道を目指すことに難しさも感じていました」

 進むべき道に悩んでいたころ、団姫さんは、太神楽曲芸師・豊来家大治朗さん(48)と出会った。

 それは'10年8月、大須演芸場の表を掃除しているときのことだった。

「おはようございます」と入ってきた大治朗さんをひと目見て、「あ、私、この人と結婚する」と直感した。

「服装は、夏なのにコーデュロイのズボンをはいて、めっちゃダサい眼鏡をかけていて、エエッ?と思ったんですけど、そう直感したんです」

 当時の表現ならば“ビビビ”だが、実は大治朗さんも“ビビビ”だったそうで、

「僕も結婚すると思ったんです。結婚したいじゃなく」

 そんな2人だからデートも3~4回だけ。ほどなく大治朗さんがプロポーズして、交際から半年余りでゴールイン。翌'11年3月のことだ。結婚を機に、『おはよう朝日』の卒業を決めた。

 ここからは自分が思い描く生き方を鮮明にしていく。

 二刀流も見据えて僧侶への道を歩み始めたのだ。
『おはよう朝日』に出演していた時期から、仏教落語を作ったり、天台宗のキャンペーンガールを務めたりしてきたことから、その志が評価され、出家が認められた。

 出家を知った同業者の中には、「落語家をやめろ」とか「売名行為だ」と陰口を言う人もいたが、気にならなかった。

 '11年11月に出家。髪をばっさり切って剃髪した。比叡山での最初の修行は60日間。これを終えるとお坊さんとしてのお免状をもらえるのだが、修行はことのほか厳しかった。

 三千仏礼拝では、両手、両膝、額の五体を畳につけ、次に立ち上がる「五体投地」を1日6時間かけて1000回行う。それを3日続けると、骨折する人もいるという。さらに、山中の行者道を30キロ近く上り下りする回峰行も。終わるころには足の爪は紫色に……。

「でも、落語家のサガですね。修行中も面白い小咄とかを思いつくんです。我慢できずに隣の人に話しては、一緒に笑って、怒られていました(笑)」

 厳しい修行だったが、落語の修業を経験していたので乗り越えられた。

夫のADHD、宗派の違い、夫婦別姓を乗り越えて

 こうして、僧侶としての一歩を踏み出すが、私生活では、夫・大治朗さんとの間に、難問が3つ横たわっていた。

「神戸新開地・喜楽館」で『お血脈』を披露。表情豊かな語りで笑いを誘った

 まず、大治朗さんが抱えていたADHD(注意欠陥・多動性障害)である。

 結婚後、トラブルに直面することで異変に気づいた。

 例えば、夫婦共に世話になっている師匠が運転する車で長距離移動する間、大治朗さんはずっと寝ていたり、一門の重鎮に結婚の挨拶をしに行ったら、喫茶店で寝始めたり。

「最初は“恋愛フィルター”の影響で、悪い部分が見えなかったんですが、長く付き合うと見えてくるんですね。人の怒りに共感できないところもあるので、私が怒っていてもわかってくれないんです」

 こういう夫を持つ妻は、自分を責めがちだ。

「“私がおかしいんじゃないか”“なんでこんな人を選んじゃったのか”と。それでうつになることがあって、“カサンドラ症候群”というんですが……私もなりました」

 大治朗さんによると、当初は、こうした行いや態度をなんとか直してほしい一心で妻からかなり厳しく叱られたという。

「これだけ言って、なんでわからへん?と怒られる。言い返すと3倍怒られる、その繰り返しで、しんどかったです」(大治朗さん)

 関係も険悪になってきた。そんなとき、大治朗さんの姉弟子がテレビで大治朗さんにそっくりな症状の人を見たので、専門医を受診してはどうかとすすめてくれ、発達障害という診断につながった。

 大事な場面で突然寝てしまうのは、プレッシャーがかかると心身が耐えられなくなって、自動的に自分を守る“ナルコレプシー”という睡眠障害であることもわかった。

 医師から、ナルコレプシーは発達障害の人が併発しやすいと教わった団姫さんは、対処方法を学んでいく。

 例えば、大治朗さんが緊張しそうな場面では「失礼がないように」とプレッシャーをかけるのではなく、「偉い人だけど、すごく優しい人だ」と安心させる情報を伝えてみるなど、接し方を工夫したのだ。

「肝心なのは、夫に合った環境づくり。彼の特徴を頭に置いて、夫に合った状態でいられるようにと考えています」

 団姫さんは、外を飛び回ることが多いので、料理や掃除、洗濯など家の仕事はもっぱら大治朗さんの役目。特に料理が上手なので、料理下手を自認する団姫さんは大助かりだ。また、2人には12歳になる息子がいるが、子育てもうまくやってくれる。仕事に専念する時間が持て、恵まれていると思うが、子どもが大治朗さんに懐きすぎることに寂しさを感じるときも……。

「低学年のころは親子3人で同じ部屋に寝ていたんですが、息子が夜中に『怖い夢見た、一緒に寝て』と言うとき、私ではなく、夫の布団に入ります。そういうとき子どもはほぼ無意識ですから(笑)」

「結婚してもうまくいくわけない」

 2つ目の問題は「宗教」。

 実はこの2人、お寺とチャペルで、2度結婚式を挙げている。大治朗さんは、クリスチャンだからだ。

「人からは、宗教の違う者同士が結婚してもうまくいくわけない、と言われました。でも、わが家に宗教対立はまったくありません」

 団姫さんは結婚前から「世界の宗教者で平和を祈ろう」という「比叡山宗教サミット」に出席するなど、他宗教との交流に関わっていた。団姫さんには、もともと宗教の壁などなかったのだ。友人で「尼崎えびす神社」宮司の太田垣亘世さん(55)がこう話す。

「毎年クリスマスイブに、友達4人が集って近所のホテルでパーティーをやるんですが、団姫さんはいつもメンバーです」

 太田垣さんは宝塚歌劇の大ファンで、団姫さんを誘ったときもこんなことが。

「団姫さんのほうを見たら、すごく泣いているんですよ。そのシーンがなんとアヴェ・マリア。感動は宗教を超えますやんって(笑)」

ADHDと診断される前は衝突も多かったという夫の大治朗さんと。今では、夫婦で乗り越えた経験をもとに、同じ悩みを持つ人からの相談にも応じている

 3つ目の問題、「夫婦別姓」。これはかなり厄介だった。もともと姓を変えることに抵抗があった団姫さんだが、結婚当初は、夫の姓「井村」に変えていた。結婚の少し前、大治朗さんの兄が急逝し、井村姓を継ぐことで大治朗さんの両親を安心させたかったのだ。

「6年ほど夫の姓でしたが、すごいストレスでした。自分が自分でない気がして、“自己の喪失感”がありました」

 最初は自分だけかと思っていたが、ネット検索すると同じ悩みを持つ人がいることがわかり、心強かった。

 限界を感じたのは、マイナンバーカードの書類に「井村」姓を何度も書いているとき。「もう無理!」と思い、'17年、「ペーパー離婚」に踏み切った。夫が「これまで井村を名乗ってくれてありがとう」と優しい言葉をかけてくれたことに救われた。

 ただ、変わったのは戸籍上だけ。これまでどおり同じ屋根の下に住み、日常を送る。子の親権は夫、世帯主は妻。その世帯に夫と息子を入れた。

 世間では「不倫し放題だ」「それでは夫婦と呼べない」などという声も上がっていた。しかし実際は、相応の覚悟がいるし、手応えもあるという。

「事実婚になってからのほうが互いを尊重するようになりました。私たちは夫婦生活を終えようと思えば簡単に踏み切れるので、言葉遣いに気をつけて、ちゃんとごめんねと謝ろうと心がけています。

 籍でつながってるという甘えは通用しないですから。事実婚のほうがお気軽な関係だと思われがちですが、逆に覚悟がないとできないと思います」

 高市政権になって、選択的夫婦別姓の実現性は遠ざかっているが、

「日本初の女性総理には、ぜひ選択的夫婦別姓の重要性に目を向けてほしい」

 と語気を強めた。

誹謗中傷にも負けず!借金をして寺の建立へ

落語家・道心寺住職、露の五九洛さん(撮影/伊藤和幸)

 10代では名前の件で裁判、20代では僧侶に、そして30代ではペーパー離婚して事実婚に。自分の気持ちに正直に生きる姿勢が浮かび上がってくる。

 道心寺の総代も務める弁護士の津久井進さん(57)はこう話す。

「彼女は理不尽にとことん立ち向かっていく人ですね。'16年ごろ、彼女を誹謗中傷するメール、電話、ファクスが、天台宗や上方落語協会、所属事務所などに送りつけられる被害を受けたことがあったんです。人気商売だからなどと諦めず、名誉毀損にあたることから、警察へ届け出ました。これには、同業者が今後同じような被害にあわないためにという思いもありました」

 結果、誹謗中傷を繰り返した人物は2度逮捕され、平穏な日々を取り戻した。

 団姫さんは僧侶になって以降、ずっと悩み相談会を行っているが、対応の仕方に彼女らしさが垣間見えるという。

「もちろん相談者に寄り添うんだけど、彼女の真骨頂は、笑いと笑顔に着地させてくれるところだと思いますね。笑って前を向く。そうして明るい方向に導ける。彼女はクレバーなので、最高の言葉を選ぶんです」

 僧侶になった当初は、悩み相談を喫茶店などで行っていたが、秘密の保持や話しやすさを考えると、お寺があったほうがいいと、10年以上前から、寺建立の計画を練ってきた。

 しかし、ちょうど今の場所を見つけたとき、コロナ禍に見舞われた。仕事が途絶え、苦境に立たされたが、浄財を集め、貯金と借金でお寺づくりを諦めず進めた。

「お坊さんになったとき、“カネのためと違うか”と揶揄していた人たちも、私が借金をしてお寺を開いたことを知って、見方が変わりました」

 資金集めや借金のことを後になって知った友人のぽんぽ娘さんは、こう語る。

「私の妹が難病で、肝臓の移植が必要だと言われたとき、ドナーが見つかった場合にかかる費用を緊急で集めなければならなくなったことがあり、真っ先に義援金を呼びかけてくれたのが団姫姉さんだった。

 姉さんが声をかけると、たくさんの人が動くので、すごく助けていただきました。団姫姉さんにしてみたら、それだけお世話をしたんだから、私に“お寺の寄進お願い”と頼んでもおかしくないのに、言わないのがすごいところです」

 '25年12月、団姫から五九洛に改名した。師匠・団四郎の三代目五郎襲名に合わせたのだ。

 五九洛さんは「本業は落語家です」と言い切る。収入も落語によるもので、住職としては給料は0円。落語で稼いだお金で道心寺を運営し、悩み相談や縁日寄席を展開している。法要は数えるほどしかないという。

「私、葬儀に向いていないんです。葬儀などでまじめに人の前に出る顔がないのでね。ニカッと笑って高座に上がる顔しかないんですよ(苦笑)」

 ここまで読んだ人は、五九洛さんのメンタルの強さが印象に残ったかもしれない。しかし、弱い部分も実はある。

 まず、飛行機が大嫌いで、できるだけ車や鉄道を利用して移動するようにしている。

 もう1つは出張先のホテルで1人で泊まるのが怖いことだ。

「理由ですか? 幽霊が出るんじゃないかとガチで怖がっているんで。どうしても泊まりになる場合は、夜中ずっと夫とLINEでつながっています。実は家で寝るときも夫と手をつないで寝ています」

 強さだけでなく、弱さも隙もある。死が怖いお坊さん。そんな人だから相談しやすいのかもしれない。

 道心寺のご本尊は明星観音。虚空蔵菩薩の化身で、人々を暗闇から明るい世界へと導いてくださる仏様である。そして祭壇に向かって左に鎮座するのが、不軽菩薩だ。

「お釈迦様の前世のひとつが不軽菩薩なんです。この仏さんは人を軽んじない。どんな人に会っても、頭ばっかり下げているので、バカにされて石を投げられたりすることもある仏さんなんですが、それでも頭を下げ続けて、どんな人も大切にした。私もそんなお坊さんでありたいです」

 人を軽んじず、悩みを「笑い」に変える。その生き方は、落語が持つ救いの心と響き合い、2つの道をしなやかに歩む姿となって、人々を幸せにしている。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち 奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を描いた『五輪の十字架』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き︱中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。