島本理生さん 撮影/佐藤靖彦

 直木賞受賞作『ファーストラヴ』をはじめ、人間の心の揺れや繊細な恋愛心理を静かで鋭い筆致で描き続けている島本理生さん

 最新作『ノスタルジア』は、仕事に行き詰まった40歳間近の女性作家・紗文と殺人事件の加害者を母に持つ20代半ばの青年・創との関係を主軸に、人生の可能性や真実に迫る長編小説だ。

スランプで悩んだことが今回の小説にかなり影響している

「この小説の依頼をいただいたのは、私自身が40歳になるころでした。当時の私はコロナに感染して体調を崩してしまい、大きなスランプに陥っていたんですね。

 身体に変化が表れつつある年代ということもあり、『仕事ができなくなったらどうしよう』、『この先、自分はどう生きていきたいのだろう』と、立ち止まって考える時期でもありました。振り返ってみると、そのときの悩みや分岐点のようなものが、今回の小説にかなり影響していると思います

 殺人事件の加害者となった創の母親は新興宗教の信者で、創は宗教2世である。

「20代のころに、新興宗教を信仰する家庭で育った少女の成長物語を書いてから、男の子側の話も書いてみたいと思っていました。その小説では宗教をきっかけに事件が起きるのですが、そこから今作の、加害者を身内に持つというテーマにつながったと思います。

 創は加害者家族になったことで、自分には非がなくても、『何かできることがあったのではないか』という苦悩や、現実社会での生きづらさを抱えている。その先の救いを模索したかったんです」

 紗文はとある事情から、《私が面倒を見ましょうか。一週間くらいなら》と、住む場所も職場も失った創を一時的に家に泊めることになる。

紗文が小説家でなければ、そのセリフは出てこなかったように思います。私自身、小説を書いているときは常に半分くらいフィクションの中にいるので、驚くようなことも不思議な出来事も、比較的すんなりと受け入れられるんです

 物語を読み進めると、創は礼儀正しく常識的でありつつも、どこか不思議な魅力を持つ青年のように思えてくる。

「創は常に隣に神様がいる世界で生きてきた青年で、それは100%自分の意思で人生を歩んでいる、という感覚とはやっぱりちょっと違う。紗文に対しても、いい意味で執着を手放した寛容さを見せるときもあれば、自分で意思決定することができない弱さを垣間見せたりもする。

 未来に希望を持てるか否かは、それまでの生育環境にも左右されますし、ちょっとしたことで変わってくるのだと思います。創はつらい経験をしたけれど、祖父母には可愛がられて育ち、中学からは親元を離れて全寮制の学校へ進みました。だから、成長過程でバランスをとることを学べたのかもしれません

 紗文には複雑な生い立ちや最愛の人との死別という過去があり、普段から感情を抑えている側面がある。だが、創と同じ時間を過ごすうちに、少しずつ感情を解放していく。

腑に落ちた感覚が現実の分岐という設定につながった

創と一緒にいると、紗文の中で高校生くらいの女の子が立ち上がる瞬間があるんですよね。彼女には突然、大人にならざるを得ない事情がありましたから、もしかすると16歳くらいで精神的な成長が止まっている部分があるのかもしれません

島本理生さん 撮影/佐藤靖彦

 創と共同生活を送るうちに、紗文はありえない場所に身体の一部が入り込んだり、この世にいないはずの人の声を聞いたりと不可思議な現象に直面する。そのことを創は次のように説明する。

《これは実家が信仰していた宗教の考え方だったんだけど、自分たちが生きている世界が唯一じゃなくて、すべての人の選択と事象によって分岐した世界が実は無限にあるんだって。

 たとえば失踪って、それまでいた世界の人にとっては相手が消えたようなものだけど、実際はその人自身の世界は失われていないから。そういうのをどんどん広げていくと、すべての分岐に伴う並行世界があって、できごとや生き物は縁でつながっていて、無関係なものはないっていう考え方なんだけど》

「コロナ禍に宮沢賢治に関する小説を執筆した際、賢治がなぜ、仏教と科学と童話的な世界を同じ地続きのものとして書けたのかだけがピンとこなかったんですね。

 そうしたら、あるとき、プライベートで関西地方を旅していて偶然出会ったお坊さんが文学にも精通している方で、賢治について端的に説明してくださり、初めてそれが理解できたんです。あのときの腑に落ちた感覚が、今作のファンタジー的な場面や現実の分岐という設定につながったように思います

 死別した最愛の人への想いとともに、紗文はある事情を抱えたまま創とイギリスの南東部にある海辺の町・ダンジェネスへと向かう。

中学生のころからデレク・ジャーマンというイギリス人の映画監督の作品が好きで、ビデオを借りて夜中によく見ていたんです。ダンジェネスは彼が人生の最後を過ごした場所で、ずっと行ってみたかったところ。

 とはいえロンドンからも遠くて女性一人ではハードルが高く、誰かを気軽に誘えるような場所でもないので、先延ばしにしていて。コロナ禍で、『行きたい場所にいつでも行けるわけではない』ということに気づき、今回の小説の依頼をいただいたことで『ダンジェネスを書こう』とようやく決めて、2023年に行ってきました」

世界の果てまで旅をしてもらえたら

 物語の中で、ダンジェネスは「イギリスの果ての田舎町」と表現されている。

読者の方は日々、仕事や家事などに忙しくしていらっしゃると思うのですが、この小説の中で主人公たちとともに世界の果てまで旅をしてもらえたらうれしいです

最近の島本さん

4年ほど前にベリーダンスを習いはじめ、最近はチャットGPTのアドバイスのもと、筋肉をつける食事を心がけています。若いころは運動していたものの、ここ数年は筋力に自信がなかったのですが、先日、友人たちとボルダリングに行ったときに、男性に交じって頂上まで登ることができたんです。ダンスのレッスンや食事管理の成果を実感しました

ノスタルジア』島本理生 河出書房新社 税込み1870円 ※画像クリックすると、Amazonの購入ページにジャンプします。

取材・文/熊谷あづさ

島本理生(しまもと・りお) 1983年、東京都生まれ。2001年『シルエット』で、群像新人文学賞優秀作を受賞しデビュー。2003年『リトル・バイ・リトル』で野間文芸新人賞、2015年『Red』で島清恋愛文学賞、2018年『ファーストラヴ』で直木賞を受賞。そのほか、主な著書に『ナラタージュ』『夏の裁断』『イノセント』『あなたの愛人の名前は』『夜はおしまい』『2020年の恋人たち』『天使は見えないから、描かない』などがある。