「不運だったけれど、不幸だったとは思わない」
そう言うと、目の前の女帝は微笑んだ。たかの友梨─。週刊女性読者であれば、その名を知らない人はいないだろう。
日本にエステティックを普及させた実業家・たかの友梨
エステティックサロン「たかの友梨ビューティクリニック」を設立し、日本にエステティックを普及させた先駆者。実業家として富と名声を得た彼女が、「不運」という言葉を口にすることに違和感を覚える人もいるかもしれない。だが、彼女の出自は絡み合う糸のように複雑で、もどかしい。
「私は医師である父親と看護師の母親との間に生まれた。だけど、父は妻子ある人だった。平たく言えば、不倫相手の子どもというわけね」(たかの、以下同)
実母は他の男性と結婚することになったが、たかのの存在が影を落とした。ほどなくして、たかのは養子に出される。
「ところが、養父母が離婚してね。養母は、私を連れて実家のある群馬県に転居し、そこで再婚するんだけど、また離婚。子守や畑仕事を手伝いながら親戚の間をたらい回しにされ、小学校だけで6回も転校した」
女傑らしく笑い飛ばすが、親戚の結婚式に参列すると、「この子は縁起の悪い子だ」と席にも座らせてもらえないほど、肩身の狭い幼少期を過ごした。にもかかわらず、たかのは養母である八千代さんを慕った。
「持参金をつけられた養子だったから、最初に私を引き取った家の主はお金目当てだった。私がどんなに泣いても、おしめも替えずにほったらかしだったそう。その光景を見るに見かねて、『私が引き取る』と名乗り出たのが八千代だった。曲がったことが大嫌いで、鉄火肌の女性。でも、絵に描いたように男に弱い。2度も離婚したのも納得よ。バカだなって思うんだけど、凛としていて顔が整っているキレイな人だった」
たかのの人生は、美と共にある。その濫觴は、八千代さんの後ろ姿にある。
拠りどころの存在だった母が「養母」だと判明して
「お母ちゃんと暮らせば幸せになれると思っていた」が、少女はまだ“あこがれ”が養母だとは知らない。
「私は文学少女で、萩原朔太郎が好きでね。友人と2人で詩集部をつくって、詩を書いたりしていた。八千代は、私を見ては『手に職をつけなさい』なんて言うんだけど、私は私で『太った豚より痩せたソクラテスよ』なんて反発していた(笑)」
真実を知ったのは14歳のとき。学校の先生が級友に檄を飛ばした「高野さんは“もらいっ子”なのにあんなに明るく頑張ってるじゃないか」というひと言を伝え聞き、色を失った。
「戸籍謄本を取り寄せると『養子』と書いてあった。朔太郎にかぶれるロマンチストだったから、とてもショックを受けた。お母ちゃんが私のすべてだったし、拠りどころだったのに、他人だった……いろいろな感情に襲われた」
不良になってやろうと、酒やたばこに手を出してみたが、どちらも身体が受けつけず、気持ち悪くなるだけ。いっそ死のうと思って利根川に足を踏み入れたとき思い直した。
「八千代は、実子ではない私を見捨てることなく育てている。親戚にたらい回しにされているときも、必死に働いて仕送りをしてくれた。不遇な家庭環境だって、私の責任じゃない。だったら、私は私の人生を自力で切り拓いていこうって」
頭をよぎったのが、「手に職をつけなさい」という言葉だった。繰り返すように、八千代さんは怒気を含ませながら、たかのにこうも付言していた。
「頑張る人間と頑張らない人間が、同じことができるわけないじゃないか。人間は平等じゃないんだ」
中学卒業後は理容室で住み込みで働く
中学を卒業すると、定時制高校に通いながら理容室で住み込みで働き始めた。美容師ではなく理容師の道を選んだのは、「もし戦争になったら、誰もパーマをかける余裕なんてなくなる。だけど、理容なら戦争になっても絶対になくならない」という八千代さんの信念によるもの。
現実的かつワンマン。「そのイズムは受け継がれているのでは?」と水を向けると、重厚感のあるクラシックチェアに背中を預け、鮮やかな紺碧の装いに身を包んだたかのは、「そうかもね」と含み笑いを浮かべた。
「定時制を卒業すると、その理容室で1年、お礼奉公してね。いじめられもしたけど、たしかに手に職があれば困らない。上り詰めていく面白さを知った」
群馬県の理容コンクールで優勝すると、さらなる高みを求めて20歳のとき、高度経済成長真っただ中の東京へ。田舎とは何もかもが違う世界を目の当たりにして、「ただ散髪するだけの時代ではない」ことを悟った。美容師の免許を取得することを決意し、昼は理髪店で働き、夜は居酒屋で皿洗いのバイト。睡眠時間は約2時間。寸暇を惜しんで、自らの腕を磨くことだけを考えた。
このとき、たかのは一冊の本と出合う。日本マクドナルドの創業者・藤田田氏の『ユダヤの商法』である。
「『商売をやるなら女と口(食べ物)を狙え。男は商売にならない』といったことが書かれていた。男性のお客様に整髪料をおつけしますか?と聞いても、たいがい『いらない』と言う。ところが女性はそうじゃない。むしろ、3000円と1万円の化粧品があると後者を買っていく。男と女では美に対する意識がまるで違う。女性は商品を買っているんじゃなくて、『きれいになる』という夢を買っているのよ」
日本の美容師の開祖である山野愛子氏は、関東大震災が起きた際、失意の中で歩いている女性たちががれきの中から鏡の破片を見つけ、髪を直している姿を見て、「女は生きるか死ぬかのときでもきれいでいたい」ことに気づき、未開の地を開拓していった。たかのもまた、時代を読む才覚が突出していた。そして、転んでもタダでは起きないという点も。
「寝る間も惜しんで働いていたからニキビがひどかった。当時は、外資系の化粧品が続々と日本の市場に参入していたから、いろいろなクリームを試していてね。あるとき、縁あって外資系企業からビューティーアドバイザーにならないかと誘われた」
働きぶりが認められ、花形のプロモーション課に配属されると、セールストークからメイク方法まで教育された。外資系企業ということもあって、女性の意見が通りやすいことも、負けん気の強いたかのと水が合った。ミニスカートに付けまつげという当時の先端ファッションに身を包むと、165センチのたかのは街中でも目立った。「モデルをやりませんか?」。毎日のように声をかけられた。
「まだ群馬弁が抜けてないのに、きれいになるだけでこんなに世の中の扱いが違うんだって。それが、よ~くわかった(笑)」
不運と不幸は違う。自らの意志と行動力次第で不幸にならないことを、たかのは証明していく。
エステを日本へ持ち込むきっかけとなった渡仏
それまで美容は、化粧品を重ねていく“足し算”が当たり前だったが、肌から不要な老廃物を落として、肌本来の美しさを取り戻す「エステ」なる“引き算”があるらしい─。24歳のとき、たかのは渡仏を決意する。気になったものは、自ら体験する。それが彼女の信条だ。
「付き合っていた男性といろいろあって、精神的にも物理的にも距離を置きたかったということもあってね」
男のだらしなさは、子どものころからよく知っている。
「失恋じゃないわよ。こっちから『捨てた』と思わないといけない。終わりをきちんと自分で終わらせる。これが大事」
主語を自分にするように。そう言って、たかのはバニラの香りが立つ、ハワイ産のコーヒーを優雅にスプーンでかき回す。
「自分に軸がないから未練が生まれる。バスと男は追いかけない。次が来るまでの時間は、自分を磨くために使いなさい。それで私はフランスに行ったのよ」
後を追うように、筆者もひと口コーヒーを含んだ。コーヒーなのに、甘い香りが鼻孔を抜ける。なるほど、苦みは自分次第ということか。
「渡仏中はエステサロンで下働きしていたんだけど、汚れを吸引する美顔器に目をつけた。ニキビに悩まされていた私は、これを日本に持って帰ったら、同じ症状で悩んでいる女性たちを喜ばせることができると思ったのね」
当時の日本は、まだエステが富裕層にしか知られていない時代。加えて、エステを開業する資金などない。そこで、たかのは帰国後1年半かけて美顔器を自ら改良し、「美器」をもじって“ヴィッキー”と名づけ、商品化した。コーセー化粧品が食いつくと、それを機に飛ぶ鳥を落とす勢いで売れ始めた。自ら広告塔となり、テレビにも顔を出すようになると、「たかの友梨」と名を変え、26歳にして成功の階段を上り始める。だが、どこか人ごとだったと打ち明ける。
「男の人の背中越しに世の中を見る……30歳までは、そんなふうに生きることにちょっと憧れていた。でも、好きになる人がことごとく妻子持ち(笑)。それを断ち切るために、28歳のときはアメリカに半年ほど滞在して、脱毛の国際ライセンスを取得した。だけど、日本に戻ると自分がやりたいエステができていないという現実がある。このときがいちばん迷っていたと思う」
「たかの友梨ビューティクリニック」第1号店
30歳の直前、腹膜炎で生死の境をさまよった。生きているといううれしさより、「儲かった命という気がした」と言う。そして、たかのは決意する。
「自分がやりたいことをやろう」
9か月後、東京・新大久保のビルの一室に、記念すべき「たかの友梨ビューティクリニック」第1号店を構えた。現在、代々木に自社ビルを持つまでに成長したたかののエステティックの曙光は、都会の片隅でひっそりとだが、確かな輝度を誇っていた。
とはいえ、エステの存在が十分に認知されていない時代である。「エステ……? 食べ物ですか?」なんて会話は当たり前。そこで、たかのは生活情報誌に「ニキビの方、集まれ! タダで治してさしあげます!」という破格の広告を打った。採算度外視。
一にも二にも認知されることを重視した結果、1年後には新大久保で最も繁盛する店として周知の存在にまで駆け上がった。たかのは言う、「目立つことをしないといけない」。当たり前のように聞こえるが、この当たり前を当たり前にできるからこそ、「たかの友梨ビューティクリニック」は美の帝国として、青山、上野と次々に支店を展開するに至る。
この間、たかのは縁がないものと思っていた結婚をする。夫は4つ年下で、美容師の免許を持ち、結婚後、鍼灸師の資格を取得するなど、エステティシャン教育を全面的にサポートする良き理解者だった。たかのもまた、良き妻であろうと髪ふり乱して尽くそうとした。
だが、実業家として成功していく彼女に対し少なからず嫉妬心があった夫は、衝突も意に介さず自らの主張をぶつけてくる。余裕がなくなった彼女は、腹膜炎が再発し、1か月間入院することになった。
「退院後、富士山麓に13日間こもって精神修行をする経営者向けの塾である『地獄の特訓塾』に参加した。『女性には無理』と渋る担当者に頼み込んで参加してね(笑)」
2人1組になって、深夜、険しい山道を懐中電灯ひとつで40キロ歩いた。「声が小さい!」と何度も怒鳴られた。令和の今なら考えられない、コンプラなき原野で自分と向き合うと、「天命に目覚めた」と言う。
「それまでは女だから出しゃばっちゃいけないと少しは思っていたんだけど、ストッパーが外れたね」
しばらくして離婚した。
「晴れた日に虹は見られないでしょ? 雨も必要なのよ」
時折、背筋がゾクッとするようなことを、たかのは美しく言い放つ。
「男は裏切るけれど、仕事は裏切らない」
「(たかの)院長は、日頃から自立しなさいということを社員たちに伝えています」
そう話すのは、1991年に入社し、現在は取締役を務める鈴木順子さんだ。
「腕ひとつあれば火事になっても、男と別れても、生きていける。実は私自身も離婚を経験しているのですが、『何でもできる』って思っています(笑)。院長は、単に女性実業家として成功を収めただけでなく、女の子たちが堂々と胸を張って仕事ができる場所をつくってくれた存在ですね」(鈴木さん)
たかのは経営を拡大していく中で、入社してくるエステティシャンたちに、将来家を持つようにアドバイスしていた。時には、会社で頭金を融資し、ローンを組むことで、若いうちから自立できるようにした。これは、たかの自身が不動産を担保にすることで融資を得て、新しい店舗を構える─身分保証のための不動産の価値を知っていたからこそである。女性として自立せよ。男は裏切るけれど、仕事は裏切らない。それがたかのの哲学であり教訓だった。
「技術的なことはもちろんですが、挨拶や立ち居振る舞い、人として必要なことを教えてくれる。親よりも院長から教わったことのほうが多い。仮にここを辞めたとしても、一生ものなんですね。姑さんや近所の人たちともうまくやっていける術を身につけられる。女性がほとんどの会社だからこそのアイデンティティーだと思います」(鈴木さん)
たかのを慕う和田アキ子は、「私は番長って言われるけど、だったらゆりっぺ(たかの)は総長や」と冗談めかして話しているが、鈴木さんをはじめ、たかのと長年仕事をしている女性社員は、みな笑って首肯する。ある実業家は、たかのをこう評した。
「女にしておくには惜しい」
だが、筆者は取材を通じて思う。この凛とした強さは、女性だからこそ。
友人であり、ファッションブランド「アンコキーヌ」をプロデュースする、同じく女性実業家である藤島彩子さんも、「義理と人情と華やかさが同居する稀有な人」と舌を巻く。
「たかの友梨ビューティクリニック」が快進撃を続けると、次第に競合他社が増加。エステが市民権を得るようになると、「金になる」と嗅ぎつけた怪しげな業者も参入してきた。しかし、たかのは1981年の段階で、育成機関「日本エステティック学院」を設立し、人を育てることに先見の明を持っていた。
エステティシャンは女性であるがゆえに結婚や出産で退職してしまう、さらには国家資格ではないため技量にばらつきが出やすい。「たかの友梨ビューティクリニック」は、技術を、信用を、夢を提供する場所であり続ける─そんな矜持が通底しているからこそ、大手サロンが倒産し、業界全体が冷え込んだ時期も致命傷を免れた。実際の利用者満足度調査に基づく、2023年のオリコン「ブライダルエステ」でも、「たかの友梨ビューティクリニック」は3年連続総合1位に輝くほどである。
親分気質だからこそ味わった悲喜こもごも
時代を創った、誰もが知る女性社長。その姿を八千代さんはどう思っていたのか? そう尋ねると、「まったく褒めない人だった」と、たかのはあきれたように微苦笑する。「ただ」、少し間を置いて言葉を続ける。
「私が35歳くらいのときだったかな。北新宿に結構な豪邸を建てたのね。そこで日なたぼっこをしながら、『お母ちゃんやったでしょ、私、こんな家建てて』と言ったら、『いや、おまえはこんなもんじゃない』って言ったんですよ。だからね、私もこんなもんじゃないんだと思えた」
2人にとっては、血は水よりも濃くはないのだろう。八千代さんは泉下の人となった。しかし、その遺志は継承されている。たかのは自らが養子だった経験から、1989年から群馬県前橋市の児童養護施設「鐘の鳴る丘少年の家」への支援・寄贈を続け、篤志家としても活動する。
「親が刑務所に入った、離婚した、さまざまな理由があるんだけど、今の子どもたちは心のケアから始めないといけないんですよ。『食育ハウス』を造って、食べることの大切さを説いたりね。私たちの時代とは違うということを、逆に教えられている」
親分気質だから、誰からも好かれそうに見える。だが、それゆえ反作用を起こし、波風が立つこともある。週刊誌から叩かれたことは一度や二度ではない。たかのの厳しさが、時に軋轢を生む。そのことを本人も認めるが、彼女の半生をたどると、厳しさの裏側にはいつも八千代さんがいるような気がする。
「素直さだけが伸びしろだと思います。だから、怒られることにも伸びしろがあるんですよ」
散々、彼女自身が怒られてきたからこその説得力。半面、今の時代、それがうまく伝わるとは限らないのではないか。そう質すと、「どう伝えるか。私は褒めるときは人前で、怒るときは一対一でするようにしている」と返ってきた。けだし金言だろう。
「毎年、表彰式をするんだけど、今年は明治座で氷川きよし君の公演を一日貸し切って開催した。従業員のモチベーションを上げることも大切だし、そういう場で表彰された子は、自信を得るから伸びるのね」
かつては、毎年、各支店対抗の大運動会まで開催していた。目を細めながら、たかのが追憶する。
「大変だったけど、楽しかったわね。約1000人の女の子が走って、踊って。男だったら悪酔いしたりして嫌な騒ぎ方をするけど、女の子たちはそうならないから」
前出の取締役・鈴木さんが証言する。
「院長は、社内で自分の部屋を持っていないんです。普通であれば社長室があると思うのですが、院長は社員と同じフロアにいる」
すかさず、たかのが合いの手を入れる。
「私、寂しがり屋だから(笑)」
子どものころ、貧しくても家族が支え合う家庭に憧れた。『若草物語』のような関係を夢見た。彼女はそれを、実業家として自らの会社で実現させたのかもしれない。
今でも未知の美容法を求めて自ら世界中に赴く
月に数回、たかのはテレビショッピング・通販番組『QVCジャパン』のスタジオを訪れ、自ら商品を紹介する。
多いときは24時間の間に1時間×5コマをこなし、紹介している商品の売れ行きが芳しくないと感じるや(QVCは、常に画面上で今どれくらい売れているかがわかる)、すぐに他の商品にフォーカスを移す。体力、才覚共にまるで衰える気配はない。
たかの同様、『QVCジャパン』に出演する前出・藤島さんは、「あの人を見ていると、自分はまだまだひよっこだと痛感する」と眉を下げて笑う。
「私も負けず嫌いですけど、まぁ~負けず嫌いな人です(笑)。そして、昭和の豪傑おじさん感がありながら、女性らしさにとてもこだわりがある人。例えば、LINEでやりとりをしているときに、私がコミカルなスタンプを送ると、『そんな下品なスタンプは使うんじゃない』と真剣に怒るんです。たかの先生は、いつも可愛らしいスタンプを送る人で、乙女な部分をおざなりにしない」(藤島さん)
『QVCジャパン』に出演中、世界的な大ヒット曲『APT.』がかかると、たかのはノリノリで踊り出す。「おんな一代記」を地で行くような人生を送る彼女に対して、「怖そう」というイメージを持つ人もいるだろうが、実際のたかのはチャーミングだ。
「ただ、先生が現れると空気が一変するような雰囲気がある。一方で、私が敬語を使うと嫌がって『タメ口でいいよ』なんて言ってくれる。威厳はあるけど偉ぶらない」(藤島さん)
同じ実業家として、藤島さんから見た、たかののすごさとは何だろうか?
「女性でありながら、あらゆるジャッジを単独で下せるスピード感や判断力。私は緻密に計画して実行するのですが、先生は直感やひらめきで動ける人。主人公なんですよ。しかも、少女マンガではなく少年マンガの。元気や勇気をもらえるので、60歳を過ぎた私もまだまだ面白いことがたくさんできる─そんな刺激をいただける存在です」(藤島さん)
たかのは、美を求めてあらゆることを吸収してきた。インド、スリランカ、エジプトにザックひとつで乗り込んでは、未知の美容法を自らの身体で体験し、日本に持ち帰った。脱毛、痩身が主流だった業界で、いち早くリラクゼーションを取り入れ、今では当たり前になった美容広告に男性タレントを起用する─その先鞭をつけたのも、GACKTを起用した「たかの友梨ビューティクリニック」だった。
だが、喜寿を超えたたかのは、「私は125歳まで生きる」と豪語し、「まだ夢の途中」と言ってはばからない。
「今年4月に、これまで培ってきたエステの知識と経験に、先進的な美容医療を融合させたYURIメディカルクリニックを新宿に開院した。化粧品を入り口としてエステに来ていただき、クリニックへ。いくつになってもお客様の美容や健康の橋渡しをする。それが私の役割」
プライベートでは、再婚した14歳年下の夫と2人の娘と充実した時間を過ごす。
「男は調子に乗せないことが肝要よ(笑)。私が仕事を頑張れたのは、1人の男からずっと愛される自信がなかったからかもしれない。だからね、夫がごちゃごちゃ言ってきても、一緒にいられる女性は自信のある人なんだと思う。私はできなかった。そこに自信を持ってほしいですね」
再婚こそしたが、今なお男性を見るたかのの目は鋭い。取材中、男である筆者は、何度ヒヤリとさせられたことか。ただ、次の瞬間、柔和な顔で「冗談よ」と場を和らげる。その変幻自在の人心掌握に、時代を創る手腕を垣間見た。
「世の中に求められてるうちは生きないといけないでしょ。世の人々が美を求め続ける限り、私もやることがある。これから大変な時代になるよ。エステもクリニックも淘汰が始まる。腕が鳴るわね」
そう言うと、たかのは不敵に笑った。
魂が堕落し、生活が不健全であるならば、どんなに見た目が美しくても意味はない。美しさとは外見ではなく、生き方に表れる。現に、世界を見渡せば、丸々と太ることに「美」を見いだすアフリカの部族だっている。どう生きるかが美しさをつくり出すのなら─。
白雪姫の女王は、「鏡よ、鏡よ、鏡さん」と聞かなければいけなかった。だが、自らの力で切り拓いてきた彼女は、鏡に聞かなくても、美しさとは何かを知っている。
<取材・文/我妻弘崇>

