昨年デビュー60周年を迎えた日本初の女性シンガー・ソングライター、加藤登紀子(82)。『ひとり寝の子守唄』『知床旅情』『百万本のバラ』など数々のヒット曲で知られる“おトキさん”は、歌手活動60周年を記念して昨年5月に平和への切なる願いと60年の歩みが詰まった2枚組アルバム『for peace』をリリース。
今年秋にはアルバム第2弾『明日への讃歌』も控える中、2024年に刊行された『「さ・か・さ」の学校』に続いて今年4月には『「ま・さ・か」の学校』(共に時事通信社)を上梓している。
河島英五さんとの出会い
その中でも興味深いのが、日本の芸能史を彩るレジェンドたちとの交流ではないだろうか。
「本当に素晴らしい人との出会いに、知らず知らずに導かれ、“うわー!”っと思わず声をあげたくなるほど、運のいい歌手人生でした。この素晴らしい出会いには、無理やり仕組んだものはひとつもなく、すべて偶然の突発事項として始まったことばかりです」
そう語る、おトキさんの偶然の突発事項から始まった「まさか」の出会いを、思い出深いエピソードとともに、語り尽くしてもらった。
惜しまれつつこの世を去ったアーティストとして、おトキさんの脳裏に真っ先に浮かぶのが河島英五さん。
「私が初めて会ったのは'78年の暮れ、日劇ミュージックホールで開かれた『ほろ酔いコンサート』のステージの上でした」
客席から誰かが「英五がいるぞ!」と叫んで、会場は騒然となった。
「じゃあ、上がってきてよ!」
と言うと英五さんはそのままステージに上がった。センターのピンスポットを背中に受ける大男の英五さん。それはそれはカッコよかったと、おトキさんは当時を思い返す。
「歌ってよ」
と言うと迷うことなくピアノの前に座り、ヒット曲『酒と泪と男と女』を弾き語りで歌ってくれた。すごく劇的で、一瞬で完全に打ち解けた2人の出会い。
年が明けたお正月。事務所宛てに英五さんからカセットテープが届く。その曲こそおトキさんが今でも歌い継いでいる『生きてりゃいいさ』である。
「1人でカセットを聴きながら、私は涙をこらえることができませんでした」
この歌をすぐさまレコーディング。2人はジョイントコンサートで全国を回った。
このとき、英五さん26歳。しかし、たくましさにあふれたエネルギッシュな姿とは裏腹に、彼は生まれたときから病弱だった。運動会に参加したことが一度もなかったという。
「そういう弱さを打ち消すように、彼は強い男に憧れ、病弱さを挑発するように過酷なことを自分自身に課すような生き方をしてきました」
「シルクロードを旅したいね」
一緒に歌ったコンサートでは、シルクロードの無銭旅の話を何度もした。砂漠でしばらく髪の毛を洗わないと、髪の毛が固まってライオンのようになりシャンプーするときに大変だった話をして会場を笑わせた。
「私は彼の野性の声を求めてやまない旅人感が大好きだった。“ねぇ、2人でシルクロードを旅したいね。2人で歌ってお金稼いで、気ままにさ”なんて話をしたこともありました(笑)」
阪神・淡路大震災のときは、避難所を回ってマイク一本で一緒に歌ったことも懐かしい思い出だという。
そんな彼が、C型肝炎、高血圧などさまざまな不調を訴えて亡くなったのは、'01年4月16日、48歳のとき。
亡くなる2日前まで歌い続けていた英五さん。彼が残してくれた温もりのある強さは、今もおトキさんの中で消えていない。
'80年12月8日。元ザ・ビートルズのジョン・レノン射殺のニュースが世界中を駆け巡った。おトキさんも衝撃を受けたひとり。言葉を失った。
「ビートルズ解散を知ったころは、オノ・ヨーコ(93)という人の登場をうれしくないと思ったこともありました。
ところが反ベトナム戦争運動のさなかに歌った『ギヴ・ピース・ア・チャンス』、'71年の『イマジン』。そして射殺される直前にリリースされたばかりの『ダブル・ファンタジー』などを聴いて、私はジョンと彼女の活動には心から感動しました」
ジョンが殺された翌年。中国でコンサートを開くことになったおトキさんは突然思い立ち、本人にたどり着くことはないだろうとは知りつつ、不安な胸の内を手紙に綴った。
すると奇跡が起きる。なんとオノ・ヨーコから国際電話がかかってきたのだ。
「あなたの手紙、読みました。ジョンが亡くなってから、1日で部屋がいっぱいになるくらい世界中から手紙が来てるの。でもなぜかあなたの手紙が私の目の前にあって、奇跡的に読んだんです。私たちは会ったほうがいいと思うのよ。よろしかったら、ニューヨークへいらっしゃらない?」
おトキさんは中国の北京、長春、ハルビンでのコンサートを無事に終えると、その足でニューヨークのロングアイランドへ飛んだ。
この島には、ジョンとヨーコの間に息子のショーンが生まれた後、音楽活動をやめ隠遁生活を送るジョンを心配して、'79年秋に購入した別荘があった。
「あなた、刑務所の人と結婚した歌手でしょう?」
余計な挨拶は何もなく、2人は手をつないで海の見える芝生に座って話し始めた。
「あなたのご主人は壁を壊そうとしたのね。でも壁を壊すことは難しいのよ。みんな、それで傷ついたり、人生を台無しにしたりする。でも、人の心の窓は開けることができると思うの。ジョンと私はそれを願って行動してきたのよ」
その言葉が、今もおトキさんの心深くに刻まれている。
ジョン・レノン復活の秘話
この別荘では、ファンの間でもあまり知られていないエピソードがある。
ロングアイランドで過ごすようになったジョンは、海に出てヨットに乗るようになり、亡くなる年の6月には大きなクルーザーで北大西洋に浮かぶバミューダ諸島まで大航海を試みている。
大きな嵐を乗り越えたジョンはバミューダ諸島で、あふれるように歌を作り始める。
「これは何年も曲がまったく作れなかったジョンに、ミューズ(音楽の女神)が戻ってきた瞬間でもありました。毎日、電話で新しい曲をヨーコさんに聴かせ、ヨーコさんもこれに応えて歌を作る。
これがジョンの復活を高らかに宣言したアルバム『ダブル・ファンタジー』の誕生秘話です。もしかしたらアイルランドからの移民だった船乗りの父親の魂が、ジョンを目覚めさせたのかもしれません」
短い人生の中で、最後まで自分自身を歌おうと格闘し、行動したジョン。歌は死を乗り越え生き続けることを、身をもって示してくれた。返す返すもジョンの死は、悲しすぎる。
中島みゆき(74)との出会いのきっかけは、'75年10月。ヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)で『時代』を歌ってグランプリを獲得したみゆき。おトキさんは、画面いっぱいに映し出された彼女の顔を見て釘づけになった。
「歌も素晴らしいが、それ以上に、存在から放たれるただならぬ気配に驚いた。これまでにこんなストレートな佇まいで、まっすぐテレビカメラに挑みかかる女性はいなかった。なんとすごい人が出てきたんだろう」
そう思ったおトキさんは翌月、彼女を家に招いた。
「ギターを持って来てくれたみゆきさんは、昨日できたばかりの『夜風の中から』という、胸の底に染みるこの曲を歌ってくれました。ひっそりと静かな緊張感の中で向き合ったあの時間を、今も私は宝物のように思い出します」
そんなおトキさんの心を再びみゆきが震わせたのは'78年、4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』をリリースしたときのことだ。
そのアルバムに収められた『世情』を聴いておトキさんはじっとしていられなくなり、再び連絡を取った。食事の席で、
「何か私に歌を作ってくれませんか」
と懇願。そして届いたのが『この空を飛べたら』という心震わせる名曲である。
それにしてもおトキさんから何を受け止め、この歌を紡いだのか。北海道という極寒の地で生まれたからこその風景を、おトキさんの原点に重ねたのか。
「それからも会いたいな、とずっと思っている。でもこの歌がある限り、もう会わなくてもいいような気もして、いつの間にか時がたってしまいました。歌うたびに、みゆきさんの心には触れているから」
濃密な時間を過ごした2人から生まれたこの思いを、おトキさんは今も大切にしている。
自身の思いを託した『難破船』
そんな関係性を築いた孤高の歌手がもうひとりいる。“歌姫”と呼ばれた中森明菜(60)である。
おトキさんは、セカンドシングル『少女A』のころからその才能に舌を巻き、'84年の『飾りじゃないのよ涙は』、'85年『ミ・アモーレ』、'86年の『DESIRE―情熱―』とアメイジングな進化に驚き、まるでひとつの歌を映画のように深く描き切る明菜の力に脱帽した。
そんなアーティストとして独自の世界を築きつつある彼女を見て、ある思いが芽生えていく。
「'84年にレコーディングした『難破船』は、私自身が20歳過ぎに経験した初めての失恋をモチーフにした歌。この曲を22歳になったばかりの明菜さんに歌ってほしかった」
そんな思いからおトキさんは歌番組で共演した際、スタジオの隅でひっそり出番を待つ明菜にカセットテープを手渡し、
「あなたがもし、この曲を歌うなら、しばらく私は歌うのをやめるわ」
そうひと言添えた。
その数日後、東京郊外で行ったコンサートの楽屋に明菜からの艶やかな花が届けられた。やがて明菜が歌う『難破船』は、日本レコード大賞にもノミネートされた。
おトキさんには忘れられない思い出がある。
「共に出演した『夜のヒットスタジオ』で『難破船』を歌う明菜さんが間奏で、思わず一筋の涙を流したんです。その場面を見て、私は『悲しい酒』を歌いながら涙を流す、美空ひばりさんのことを思い出しました。あのときの光景が今も忘れられません」
2人の歌姫が流した涙。それはおトキさんが作った『難破船』が昭和の名曲『悲しい酒』と肩を並べる瞬間でもあった。
そしてもうひとつ。おトキさんには心に残る“まさか”がある。それが、'92年に公開されたアニメ映画『紅の豚』で出会った宮崎駿監督(85)との“まさか”。
劇中でおトキさん演じるジーナがフランス語で歌う、パリで起こった市民革命のさなかに生まれた『さくらんぼの実る頃』。
このシーンは、おトキさんにとって今も忘れられない名場面となった。
「『紅の豚』で描かれた時代から100年。世界は再び、大きな危機の中にいます。でもこれまでもたくさんの時代を超えて、人々は生きてきました。どんなときも素晴らしく生きようとする、そんな夢を捨てなかったからです。その思いを失うことのないように今こそ、この100年の時を歌い継いでいきたい」
そんな願いを込めて、彼女は「加藤登紀子コンサート2026 明日への讃歌」のステージに立つ─。
取材・文/島 右近 撮影/佐藤靖彦
