マリオンクレープ創業者、岸伊和男さん

 外は香ばしく、中はふっくらもちもちに焼けた甘い香りのクレープ生地に、フルーツやチョコレート、ホイップクリームなどをトッピングして扇形に畳み、紙のスリーブに入れ、手に持って食す──フランスにはない、この日本独自の新しい“食”のスタイルを生み出したのは、今年創業50周年を迎えたマリオンクレープ創業者、岸伊和男だ。

 しかし当の岸は自身のことを「いいかげん」だと言い、50年続いたことには「まじめすぎると、続かないでしょう」と笑う。

名門中学校へ入学

「50年やるとは全然考えてもみなかった。何年やるとか、そういうこと自体、考えないんです。ただ、とにかく新しいことを始めたい。それだけでした。実はね、私、クレープ焼けないんですよ(笑)。私にとってクレープは焼くものじゃなくて売るもの、食べるものなんです」

 岸は1944年8月21日、山形県最上郡金山町で、姉と妹に挟まれた長男として生まれた。金山町は林業が盛んで、北へ行けば秋田との県境という山に囲まれた豪雪地帯だ。そんな場所で育った岸は、12歳で父の命により、一人東京で暮らすことになる。

「小学6年生の3学期から、おふくろの知り合いの元教師の方の家に下宿させてもらって。その前の年の12月に一度上京して、どのくらいの学校なら合格できるのか、予備校みたいなところで試験を受けたんです」

 地元では成績優秀だったため「1番だと思っていた」が、結果は受験した約800人の中で750番ほどという惨憺たる結果だった。これでは合格は難しいと前倒しで下宿先へ転居、元教師の指導で猛勉強し、名門・麻布中学校に合格した。岸の父・伊一郎は金山町町長を経て山形県議会議員と議長を務めた人物であり、その経験からだったのか、岸に「官僚になれ」と言っていたという。

「だから東京の学校へ行くことはもともと決まっていたんです。でも親父に従ったのはそのときが初めて。それまではずっと逆のことをやってきたから(笑)」

 麻布の同級生には国会議員となる谷垣禎一や丹羽雄哉、ホンダの社長となる福井威夫らがいたが、岸が仲良くなったのは後に産経新聞の社長を務めた住田良能だった。

「住田の家も渋谷で、私の下宿の近くだったから、彼の自転車の後ろに乗って学校へ行ってました。渋谷から学校までのバスの料金が20円だったから、住田に『おまえ、20円払え』と言われて払って、毎日乗せてもらっていました」

 山形訛りを揶揄されることはあったものの、映画館へ通ってチャンバラ映画を楽しみ、友人の影響でクラシック音楽(フランスの作曲家を好んだ)も聴くようになった。

「麻布の校風が自由だったのがよかった。学校へ行かなくてもいいし、映画を見に行っても怒られないしね。縛られちゃって自由に動けないような学校だったら、どうなっていたか」

 麻布高校へ内部進学したが、官僚にという気持ちは早々になくなっていた。

24歳でフランスへ

 高校3年生のとき、病弱だった母が東京の病院へ通院するため上京、世田谷区弦巻で一緒に住み始め、大学は東京大学と慶應義塾大学を受験した。

「学校の親友たちがみんな東大を受けるもんだから、一緒に受けたんですが、もう全然話にならなかった」

 現役で慶應に合格したものの、翌年東大を再受験するため浪人。しかし翌年も同じ結果となり、慶應義塾大学経済学部へ入学する。偶然にも友人の住田も同じ大学、同じ学部だった。

「慶應の私のクラスには女子が一人で、周りに女性がいなかったんです。なので絵を描くクラブならいるんじゃないかなと思って入ったんですが……男のほうが多かった(笑)」

 そこで知り合ったのが、NHK連続テレビ小説になった『おはなはん』の原作者である随筆家の林謙一さんの子息だった。その彼はとても絵が上手だったという。

「よく林の家へ行って、一緒に食事をしたりしました。彼は絵は上手なんだけど、スポーツが苦手でね。テニスなんかを一生懸命教えていたんですよ」

 この出会いが岸をフランスへと導くことになる。大学卒業を控え、新聞社の入社試験を受けた岸だったが不採用に。大学卒業後、林に相談したところ「おまえはどこかやんちゃだし、バカみたいなところがあるから、海外行ってこいよ」とすすめてくれたという。

「林さんは『どうせおまえなんか、日本にいてもしょうがないからな』と。ずっと私のことを見ていたからでしょうかね。私は海外という考えは持っていなかったので、どこがいいのか聞いたら、『フランスだよ』と。それで『それいいな』と思って」

80歳を過ぎているとは思えないほどエネルギッシュ。その明るさでインタビュー中も笑いが絶えなかったマリオンクレープ創業者、岸伊和男さん

 1968年、24歳の岸は林のすすめでフランスの貨物船に乗り、各地へ寄港しながら7か月かけてパリに着いた。船には日本人は一人きりで、フランス語の基礎を学びながら船長らと食事を共にしたことで簡単な会話なら聞き取れるように。

 到着後、フランス東部の街ブザンソンで本格的にフランス語の勉強を始めたが3か月ほどしたころ、母死去の電報を受け取り、慶應の同級生で航空会社に就職した友人のつてにより飛行機で一時帰国、山形へと向かった。一人息子の岸だったが、進路について父からは何も言われなかったという。

「小さいときから親父と食事を共にしたことが数えるほどしかないんですよ。議員の仕事で山形市にいて、おふくろが病弱で負担になるのでほとんど金山にも帰ってこなかった。でも親父は私が小さいときから『家を残さなくてもいい』と言っていたんです。金山にいなきゃいけないということも言わなかった。そういうところは、私と似てるなと思いますね」

 半年ほど日本に滞在した岸は、パリに戻って勉強を再開した。

「日常会話くらいはできるようになったけれど、仕事がなくて、何しようかと思ってぶらぶらしていたころ、銀行に預金口座をつくりに行ったんです。するとそこでフランス語を話せない外国人が窓口で困っていたので、下手なりにフランス語の通訳をしてあげたら『世話になったから、喫茶店でお茶でも飲もう』と誘われて。

 その人、イギリスからパリへ異動してきたばかりで英語はできるけれどフランス語はまだこれからっていう共同通信社の支局長だったんです。そうしたら『仕事やらないか?』と誘われて。私は新聞社を落ちてますからね、入りたくてしょうがない(笑)。それでパリの共同通信社で働くことになったんです」

 フランスでは、日本から留学していた日本人ともたくさん知り合ったという。そんな中、共同通信社に臨時アルバイトで来た日本人女性と知り合って結婚。岸が28歳のときだった。やがて子どもも生まれ、帰国を考えるように。

「友人たちが帰国して、私も女房子どもがいて、ちょうど支局長が代わるタイミングもあって。日本へ帰ることを考えたときに、ちらっと山形へ戻ることも考えましたよね」

 フランスでの生活が7年を過ぎようとしていた1975年、共同通信での仕事を辞め、妻子を連れて帰国した岸だったが、日本へ戻って何をするのか、頭の中には何の考えもなかった。

とっさのひらめきで出た「クレープ」

 帰国して岸が最初にやったことは、フランス行きをすすめてくれた林さんに報告することだった。

「林さんはなかなか短気な人でね、怒るんですよ(笑)。だから一緒に報告へ行ってくれた林さんの息子から『どのぐらい勉強してきたかって聞くと思うから、ちゃんと答えろよな』と言われて。

 それで案の定『何を学んできたんだ』と聞かれたので、共同通信での仕事のことを話したら『それはよかったじゃないか。だけど今後どうするんだ? フランスで学んできたら、何かあるだろう?』と……それで本当に何もなくて、困っちゃって」

 とっさに岸の頭に浮かんだのは、秋のパリの風物詩である焼き栗と、街で売られていたクレープだった。

「『それを日本に持ってきたら面白いんじゃないか』と言ったら、林さんが『クレープをやれ』って。ご自分も知っているものだったんでしょう、それで『そのままフランス式でやるのか?』と聞かれたので、私は『もっと簡単にやりたいんです』と答えたんです。フランスでは持ち帰りのクレープは新聞紙で巻いてあって、歩きながら食べたりはしないんですが、そういうふうにやろうというイメージがそのときに湧いてきたんです」

 15歳からマリオンクレープでアルバイトを始め、現在は株式会社マリオンの常務取締役を務める中条幹夫(53)は、岸のひらめきについて「岸には私たちにはない脳の回路があって、何かが見えて言っているんだろうなということがあるんです。『え?』と思うときもいっぱいありますが(笑)。基本的には優しくて、失敗に対して寛容な人です。

『しゃあねぇじゃん』と言ってくれるので、私もこれまでいろいろとチャレンジさせてもらいました。皆さん口をそろえて岸のことを“天才”と言いますが、一緒にいるとそれがよくわかりますね」

 岸の経験とひらめきから始まったクレープ作りは、学生時代からの友人を巻き込んで始まった。

「自分ではクレープは作れないから、慶應の同級生の友達というマキシム・ド・パリで働いていたコックを紹介してもらって。それから母が亡くなったときに航空券を手配してくれた友人にも声をかけて、会社をつくりました」

マリオンクレープのクレープは50年たった今でも若者に愛されるスイーツに

 岸はすぐに、コックと、紹介してくれた慶應の同級生と共にクレープの本場、ブルターニュへ向かう。

「私はそれまで食べたことはあったけど、作り方はわからない。コックはクレープなんか作ったことがない。でもコックはプロだから、焼いているのを見たり食べたりすると、どうやって作るのかすぐわかっちゃうんですよね。

 お店では作り方を聞いたり、どんなメニューがあるのかを頭に入れるようコックに頼んで、約5日間、みんなでクレープを分けながら食べました。その旅の間に『立ち食いで、こうやって出そうよ』という話をしたりして、話がまとまっていったわけです」

 どこで店を開くのかは岸に任された。実は当初、知り合いのつてで鉄道弘済会に話を持ちかけ、当時の国鉄の駅構内で販売する方向で話が進んでいたという。しかし突然トラブルが発生し、話はご破算に。振り出しに戻った岸は知恵を絞り、ひらめいたのが渋谷の公園通りだった。

「なぜかっていうと、やっぱり公園通りって、あのときいちばんよかったわけですよ。通りとしていちばんシャレてると。そこしかないだろう、なんとしてもそこを押さえようと思って行ってみたら、ちょうど通り沿いに駐車場があったんです。

 そこを貸してくれないかと大家を探したら、偶然それが私の知り合いだったんですよ。大家からは『建物が建つ予定だから、2年か3年だよ』と言われて、通り沿いに止まっていた車に場所をかわってもらって、2台分借りたんです」

 1976年9月、渋谷パルコの隣の駐車場の一角に幌馬車を模した真っ赤なワゴンが置かれた。マリオンクレープ開店である。幌馬車は後に画家となった林の息子がデザインした。

「幌馬車にしたのは、その年がちょうどアメリカの建国200年祭だったからです。パレードなどで開拓時代に使われた幌馬車がニュースなどで流れるはずだから、同じようなものがあれば人目を引くだろうと考えたわけです。私はリヤカーにちょっと毛が生えたようなものだと思っていたんですが、立派なものができちゃった(笑)」

「マリオン」の名前は岸の妻の友人の名前から拝借、メニューにはカスタードやジャム、リキュールなどを使ったフランス式のシンプルなクレープが並び、新聞紙ではなく色紙に包んで食べるスタイルで提供したという。店にはすぐに行列ができて、メディアでも取り上げられ注目を集めた。その後マリオンはお茶ノ水や高田馬場への出店を経て、いよいよ原宿へと進出する。

公園通りから竹下通りへ

 原宿のご当地グルメ=クレープというイメージをつくったのはマリオンクレープだ。その原宿の竹下通りに店を開いたのは1977年9月のことだったが、このときは現在の店舗があるビルの2階で、イスとテーブルを置いて営業が始まったという。

「原宿は文教地区で、当時は飲食店が出せなかったんです。それで本当に苦労して苦労して、翌年にようやく1階に1坪くらいの店を出せることになって。当時の竹下通りはまだ全然何もなかったんですよ。でも原宿には人が集まり始めていて、有名だったんです。それからマリオンクレープがあるビルの大家が、私のパリ時代の友人の奥さんの親で、それもあって原宿に出そうと思っていたんです」

 同じころ、演劇集団・安部公房スタジオで俳優として芝居の稽古をしていたのが、かつて株式会社マリオンで取締役を務めた寺田亘(74)だ。

「安部公房スタジオは公園通りにある山手教会の地下に稽古場があったんです。そのときに『クレープってのが近所で売ってるよ』とみんなで話していて」

マリオンクレープ第1号店(上・マリオンクレープHPより)

 1977年に劇団を退団した寺田は、大学の先輩から「これからどうするんだ」と声をかけられた。その先輩は岸のフランス時代からの友人で、マリオンで働いてくれる人を紹介してほしいと頼まれていたのだ。寺田が「あのときの食べ物か」と思って面接へ行くと、岸は「明日から来てくれ」と即決、すぐに原宿店で働き始める。この寺田の人脈で、役者などを目指す若者がマリオンに集まったという。

「岸さんは文化的な面に非常に理解がある方で、僕が入るようになってからは、演劇の後輩などに声をかけて、大勢の人たちにアルバイトに来てもらうようになりました。それを岸さんは『面白いやつがいっぱいいるんだよ』と楽しそうに自慢されてましたね」

 寺田の人脈で働いたのが、現在はマリオンから独立し、西新宿で「クレープリー・シェルズ・レイ」を営む俳優の吉岡祐一(71)だ。吉岡がNHK連続テレビ小説『おしん』の主人公おしんの兄役に決まったとき、山形出身の岸はとても喜び、ドラマを楽しみに見てくれたという。

「マリオンではオーディションとか撮影や舞台のスケジュールを優先して、シフトを融通してくれたんです。僕はマリオンの車で渋谷のNHKまで『おしん』の台本を取りに行ってたんですよ。そういうことも許してくれたし、岸さんは芸術志向で本もいっぱい読んでいて、芝居も大好きだから、まったく経営者っていう感じじゃなくて。仕事も現場に任せてくれて、好きにやらせてもらえました」

 マリオンでは俳優の浅野和之、社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」の渡部又兵衛さんらも働いたという。岸は彼らについて、こう語る。

「やっぱり寿司屋と同じで、クレープも同じように目の前で作るわけですよね。お客さんはそれを見る。そうしたら、面白いほうがいいじゃないですか。役者と同じなんですよ。私は面白い人を集めて面白いことをやるのが好きで、それでいろんなことができたんです」

 原宿店では新メニューとして提供した、ホイップクリームやアイスクリームにバナナやイチゴなどのフルーツやチョコレートを使ったクレープが大人気となった。これもフランスにはなかった味わいであり、扇形に畳んで赤と白のチェック柄がデザインされた紙のスリーブに入れて食べるスタイルは、原宿を象徴するものとなった。

 1979年、マリオンと同じビルに「ブティック竹の子」がオープン。歩行者天国で踊る集団が竹の子族と呼ばれ、街は彼らを見に来る若者であふれた。その後1980年~'90年代には竹下通りにタレントショップが軒を連ね、バンドブームなどもあって、原宿は全国から人が集まる街へと変貌していった。岸もここまで有名な通りになるとは「全然思っていなかった」と笑うが、読みはピタリと当たった。

ランコントルをセレンディピティに

 山形から東京へ、東京からパリへ、パリから東京へ、東京からブルターニュへ、駅構内から公園通りへ、公園通りから原宿へ……岸の人生の節目には、いつも偶然の“出会い”があった。

結局、人生って出会いそのもの、すべて出会いだと思っているんです。フランス語で出会いは“ランコントル”ですが、特殊な、その出会いによって自分の将来が変わるのはセレンディピティ、これが本当に偶然の、最高の出会いなんです。特別な人生の宝、宝くじが当たったみたいな出会いなんですよ。そんな出会いが私の中で20回くらいあって、これは私が努力したんじゃなくてね、その出会いが私をつくってくれた。

 それには、ランコントルをすごい出会いにしちゃえばいいわけです。そういうふうに自分で持っていければ、素晴らしい出会いが増えるってことでしょ? 偶然にすごい出会いもあるけども、ちょっとした出会いが大きくなることもあるわけで。それも含めて『セレンディピティをつくるのが人生なんだ』と思っているんです。

 誰かと出会うこと、偶然っていっぱいあるわけです。その出会いをセレンディピティにすればいい。それが人間のできる努力なんです。自分は出会いに恵まれているなと考えてるとね、そういう出会いが必ず来るんですよ。自然と来るんだな」

 1984年に父が亡くなったとき、岸は後を継ごうかと考えた。しかし周囲から「やめておけ」という声があり、出会いもなかったため山形へは帰らなかったそうだ。しかし生前の父が務めていた山形県に関係する役職を引き継いだものがあるという。

「親父がやっていたのを引き継いでやってくれと頼まれてね。これからは山形全体だけじゃなくて、地元の金山にも恩返しできたらなと思ってます」

 寺田は岸について「二番煎じをしない方」だと語る。「だからいかに成功しようとも、人がやったことはしたくない。長いお付き合いの中で、そのスタイルだけははっきりしていますね。ずっとロマンを求めているというか、やっぱり人が驚いたり、ワクワクしたり、びっくりするようなことを世の中で展開したいという気持ちを強くお持ちの方です。会社の経営で大変な時期もあったと思いますが、岸さんには不思議なパワーがあって、なんとかなっていっちゃう方なんですよ」

「誰もやらない新しいこと」を探し続けるマリオンクレープ創業者、岸伊和男さん。次は何をわれわれに見せてくれるのだろう

 吉岡は、岸もクレープも人をワクワクさせる存在と言う。「バイトを始めたとき、なんかワクワクしたんですよね。岸さんもそうだし、原宿という場所がそうなのかもしれないけど、なんかやってて『いいな』ってすごく思った。バターの香りとか、目の前でクレープがスッと焼けて、それを畳んで出すみたいなことがすごい素敵だったんです」

 そして寺田と吉岡はクレープは“ハレの日の食べ物”であり、その明るさやワクワクする感じは「岸さんだからこそ」だと口をそろえる。中条はそうした明るい“岸イズム”がマリオンの社内や店舗に息づいていて、長く勤める人が多いと話す。

 岸は「私が歩んできた人生は、成功する、しないじゃなくて、誰もやっていないことをやってきて、だいたい失敗ばかり。成功したのはクレープだけなんです」と笑う。

「だけど人のモノマネをしたことはないです。全部自分で作ってきました。誰もやっていないことをやる。そこへ踏み込んでいかないと、新しいものは何もできないんじゃないですかね。私は失敗してもね、なんとも思わないんですよ。そんなのはかすり傷みたいなもんだっていうような感じでね。

 そして飽きないで、また新しいことをやっていくんです。本当におかげさまで、クレープで世界中へ行きました。ウチのクレープ、おいしいでしょ? クレープをよく知ってる人は、みんなおいしいって言ってくれるんです。本当にね、マリオンのスタッフはみんな明るいですよ。暗いクレープなんて、嫌でしょ?」

 人をワクワクさせる甘く香ばしいおいしさ、食べながら歩くスタイルが持つ軽快さ、ハレの日の食べ物という明るさ、そしてひらめきと、失敗を恐れず、新しいことへチャレンジし、偶然の出会いが人をつくる─クレープは、まさに岸という人間そのものの味わいなのだ。

なりた・たもつ 1971年生まれ。イベント制作、雑誌編集、マンガ編集などを経てフリー。幅広い分野を横断する知識をもとに、インタビューや書評を中心に執筆。「おしんナイト」実行委員。

取材・文/成田 全 撮影/山田智絵