美空ひばりさん

 戸田恵梨香が細木数子さんを演じたドラマ『地獄に堕ちるわよ』が4月下旬にネットフリックスで配信されてから約2か月。昭和の芸能界と裏社会を描いた濃密な内容は、令和の今の時代に改めて話題を呼んだ。

「配信の開始直後、国内の週間視聴ランキングで2週連続1位を獲得。韓国や台湾など国外でもトップ10入りを果たしています」(テレビ誌ライター、以下同)

 劇中では、細木さんが暴力団幹部と深いつながりを持ち、島倉千代子さんの巨額な借金の整理を引き受ける一方で、興行収益をめぐって島倉さんを追い込んでいく姿も描かれたがーー。

「島倉さんに限らず、昭和の芸能界は裏社会と密接でした。島倉さんと同じ時代に活躍した美空ひばりさんも、山口組三代目組長の田岡一雄と深いつながりがありました。彼が社長を務めた『神戸芸能社』は、ひばりさんの地方巡業など興行面を支えており、強い絆で結ばれていたとされています」

 ひばりさんは、戦後間もない時期に天才少女歌手として頭角を現し、10代で『東京キッド』などをヒットさせた、戦後歌謡界を象徴する存在だった。

戦後の裏社会に欠かせない田岡

「『紅白歌合戦』への出場は計17回。1989年に52歳で亡くなりますが、晩年も『愛燦燦』や『川の流れのように』といった名曲を残し、病から復帰したステージでの姿は“不死鳥”とも称されました」(スポーツ紙記者、以下同)

 一方の田岡は、戦後の裏社会を語るうえで欠かせない人物だ。

「若いころから荒事で名が知られ、神戸に数ある暴力団のひとつだった山口組に身を置き、終戦直後の1946年に三代目組長を襲名。神戸港の港湾荷役を基盤に、土木建築業や金融業でヤクザ組織を事業化しながら組織を広げ、山口組を全国規模へと押し上げた人物です」

1950年代のアイドル的存在だった鶴田浩二さんへの襲撃は日本中に衝撃を与えた

 国民的歌手と裏社会の大物は、なぜ接点を持ったのか。昭和の芸能史に詳しいノンフィクションライターの二田一比古氏に話を聞くと、そこには当時の地方興行の構造が大きく関係していたという。

「前提として、戦前から1980年代ごろまでは、歌手にとって最も大きな収入源は地方巡業だったんです。テレビが各家庭に完全に行き渡る前は、今のように広告収入も多くありませんし、映画やラジオは人気を広げるための手段でした」

 当時の歌手はレコード会社の専属契約が多く、印税も期待できない時代。歌手の生命線である地方巡業だが、簡単に公演ができたわけではなかった。

歌手が歌う場所はキャバレーなどが中心でした。そうした店は、だいたいその土地を仕切る暴力団の縄張りでもあります。そのため地方で公演を行うには、彼らとの交渉が欠かせませんが、相手は暴力も辞さない集団。巡業の取り分の交渉も一筋縄ではいきません。当時の芸能プロダクションには、そうした相手と直接やりとりする専門の担当者が必ずいたほどでした」(二田氏、以下同)

襲撃された大スター・鶴田浩二さん

 暴力団の資金集め、いわゆる“シノギ”だった地方巡業。組長に就任したばかりの田岡も興行の世界に目を向けて芸能プロモーターとして巡業を仕切るように。若かりしひばりさんと接点を持つようになった。

「興行の世界で田岡の名を知らしめた出来事のひとつが、1953年に起きた当時大スターだった鶴田浩二さんへの襲撃事件。鶴田さん側と田岡側の間で興行をめぐる行き違いがあり、関係が悪化。のちに鶴田さんは山口組組員に襲撃されて重傷を負いました。この事件以降、芸能界で“田岡を軽んじれば報復される”といわれるようになりました」

 混沌とした昭和の時代。芸能人を守るためにも、興行を成立させるためにも、力を持つ者の後ろ盾が必要とされたのだろう。

田岡一雄の写真が使われた書籍。一時は“大阪から西は山口組を通さないと興行できない”といわれていた

「1957年1月、ひばりさんは東京での公演中、嫉妬したファンの女性から塩酸をかけられる被害に遭いました。軽傷で済んだものの、当時、ひばりさんのスター性を高く評価していた田岡は、周囲に“お嬢の身はワイが命に代えても守る”と語ったそうです」

 塩酸事件の約3か月後、田岡は興行を仕切る神戸芸能社を設立。翌年には、ひばりプロダクションの役員にも名を連ね、名実ともにひばりさんを支える存在となっていった。

「ひばりさんにとって、田岡の後ろ盾は絶大。地元の暴力団にも臆せず、地方巡業を安全かつ確実に行えるようになり、歌手としての人気はさらに高まっていきます。田岡も彼女の興行を手がけたことで、ほかの有名タレントの巡業も仕切るようになりました」

 24歳差だった2人は、仕事を超えて父娘のような信頼関係を構築。1962年にひばりさんは小林旭との婚約を発表。そして1964年の事実婚解消の際は田岡がひばりさんの父親代わりとして交渉の前面に出たとされる。

紅白出場からも遠ざかることに

 しかし、暴力団に対する世間の意識は徐々に変わっていく。1964年から警察による“第一次頂上作戦”と呼ばれる暴力団一斉取り締まりが開始。神戸芸能社も公共施設を使用できなくなるなど、興行の場が狭められ、やがて解散へ追い込まれていった。

「1973年には、山口組との関係を問題視されたひばりさんの公演も、全国の市民会館といった公共施設から締め出されるように。加えてこの年以降、ひばりさんは『紅白歌合戦』への正式出場からも遠ざかることになりました」

 興行の表舞台から退いていった田岡は、1981年に68歳で死去。ひばりさんは田岡の葬儀で“その人柄に惚れ込み、深く尊敬していました”という趣旨の弔辞を読むなど、最後まで田岡を慕っていたとされる。

「暴力団との関係が肯定されるものではありませんが、当時の芸能界は、地方興行を成立させるために、暴力団の存在が“必要悪”として受け止められていたのは事実。泥くさい人間関係と、現場の熱量で動いていた時代だったのだと思います」

 美空ひばりさんという輝やかしいスターの背後には、昭和の光と闇が色濃く刻まれていたーー。