東京都江戸川区にある「しろひげ在宅診療所」(以下、「しろひげ」)。同診療所院長で医師の山中光茂さん(50)を乗せた診療車が向かったのは、高校3年生の早紀さん(仮名)の住む家だった。山中さんは彼女について説明した。
「2年前から診ています。脳梗塞を起こして、その影響で脳に機能障害が残っているんです。最初に診察したときはアレルギーで皮疹がすごくて、ピクリともしないでずっと寝ている状態でした。でも薬を調整したりして、ずいぶんよくなったんです」
「少しだけ頑張ってみる」ことで可能性を広げる
玄関を入ると、早紀さんと母親が出迎えてくれた。山中さんはリビングで腰を下ろすと、「元気?」と、尋ねた。早紀さんは、はにかんでニコニコしている。母親も傍らで微笑む。
「元気そうだね。よかったよかった」
診察して調子がよいことを確認したあと、山中さんはある提案をした。
「うちのカフェで店員さんやってみない?」
カフェとは「ひげぞーおもいでファクトリー」という就労継続支援B型事業所(以下、就労を支援する事業所)である。スマートフォンで店の紹介ページを表示させて見せると、「かわいい! めちゃかわいい! やりたい!」と言って笑顔がはじけた。
このお店は、障がいのある人が、その人の特性に合った仕事を、自分のペースで短時間から体験できるところで、働いた報酬を得られる。
早紀さんの場合、脳の機能障害もあって発語やコミュニケーションに少し支障がある。かなり回復したものの、すぐに一般企業に入るのは、ややハードルが高い。このカフェは社会に出る第一歩としてはちょうどいい職場なのだ。就労を支援する事業所とはいえ、外見は、どこにでもある、ちょっとおしゃれなカフェだ。
「そう、やってみる?」
山中さんが念を押すと、「はい、やりたいです。家からも近いし。私、頑張る!」と、早紀さんはうれしそうに首を縦に何度も振った。見学に行くことを約束して、診察を終えた。次の診察先へ向かう途中、山中さんは言った。
「最近、“頑張らなくてもいいよ”という風潮がありますよね。もちろん無理をする必要はないけれど、少しだけ頑張ってみるというのも可能性を広げることになります。それを寄り添いながら支えてあげる。われわれがリスクを負いながら、背中をそっと押してあげる、そんな存在でありたいんです」
医師でありながら、就労を支援する事業所をつくる。山中さんは医師の枠を超えた活動を他にも展開している。例えば、ひきこもりの人たちの居場所として開所した「しろひげ・べーす」。相談を受けたり、併設する駄菓子屋で働いてもらったりする。
「時々、ひきこもりのみなさんを20人ほど集めて飲み会を開くんです。ここに来たことがきっかけで、うちのカフェで働き始めた人もいます」
さらに、ヤングケアラーなどを対象にした食堂を運営したり、当直用施設を開放して入浴サービスを提供したり、学習サポートもしている。
診療以外にも手を差し伸べていく理由とは
「しろひげ」は、常時約1500人の患者を診察、毎月50~80人の患者を新規に受け入れるので年間2000人を超える患者を診る。医師は17人、看護師は40人。200人近い職員がいて、常時1500人の入院患者を抱える病院と考えれば、かなり大きな医療機関である。
診療を行うだけでもかなりのエネルギーを使うのに、なぜ医療以外のサービスを行うのだろう。そもそも在宅診療は医療機関に行けない人が対象なので、患者の家で診察を行う。すると患者さん以外に、家にひきこもりの子がいたり、精神疾患のある人がいたりする。またヤングケアラーの子どもがいることも。
「そういう状況を見ると放っておけなくなるんですよ。医療なんて、たかだか生活の一部でしかない。患者さんやその家族の人生を考えない医療は間違っています。僕は医師である前に、1人の人間。困っている人がいるのなら、なんとかその人の助けになりたいんです」
しかし、さまざまな地域で社会貢献活動に関わろうとすると東京都から「医療法人では、やっちゃいけません」と“指導”が。
山中さんはバカバカしいと思いつつ、カフェやしろひげ・べーすなどは株式会社を、ヤングケアラー支援はNPO法人を設立して活動を始めた。
かなり珍しい、いや貴重な医師である。看護師の武田里絵さん(随行看護師長)によれば、こういう医師はなかなかお目にかかれないようだ。
「たくさんの医師を見てきましたが、院長のような人は初めてです。白衣を着ないし、患者さんと話すときも目線が低いんです。相手によりますが、お宅に上がってあぐらをかいて話す。
敬語は使いますが堅苦しくないし、相手が心を許していると、言葉遣いがラフになっても決してぞんざいにならない。すごく繊細です。だから患者さんの心にスッと入っていく。患者さんだけでなく家族からもすごく好かれるんです」
次に訪問したのは、11歳の小学生・恭介君(仮名)。1年以上不登校状態のときに初めて診察した。1時間以上話し、薬を見直したところ、2週間後に学校に行けた。それまでは母親に「死ね」などとキツい言葉をぶつけていたが、口調も穏やかになった。家に入ると、恭介君と母親がいた。今も休む日のほうが多いが、山中さんは登校したことを褒めた。ただ、無理する必要はないとも言う。
「僕なんかね、小中高、ほとんど学校に行かなかったから。卒業式なんて1回も出たことないし、友達もいなかった。でもこうして元気で仕事をしているから大丈夫だよ」
恭介君は時折うなずきながら、話を聞いていた。
山中さんが話した不登校の経験は、恭介君の気持ちを楽にさせようと作った話ではない。かなり生きづらさを抱えた少年だったのだ。
山中さんは1976年、三重県松阪市で生まれた。2人きょうだいで妹がいる。
普段は陽気にしゃべる山中さんだが話題が少年時代のことになると、やや口が重くなる。それもそのはず、「自分は、どうして今、生きてるんだろう」などと考える子どもだったからだ。それがわからず何度も自殺を図った。人間関係を築くのが嫌で、友達もいない。休み時間はトイレにこもるか、階段で座っていた。
「でも全然寂しいと感じなくて、むしろ放っておいてほしいなぁと。かまわれることもつらくて、人と付き合うのが苦しいと思っていました」
自分のためではなく他人のために生きる
そんな光茂少年に転機が訪れたのは小学4年生のとき。担任が授業で見せてくれたビデオに、アフリカ難民の様子が映し出されていたのだ。
「衝撃でしたね、地球の裏側にはこれほど苦しんでいる人がいるってことが。そのとき、“あっ、この人たちのために自分の命が少しでも役立てられたらいいな”と思えたんです。自分が生きる意味はわからないけど、他者であるアフリカの人のために生きることならばできるなって」
中学、高校生になっても相変わらず生きづらさを抱えていたが、アフリカの人たちのことを思えば、何とか生きていられた。
難民のことを調べていくうちに、当時、国連難民高等弁務官だった緒方貞子さんを知る。都内の国際連合大学で緒方さんの講演があると知るや、上京し聴講しに行った。感動し、その後も講演があると行き、質問したりしているうちに覚えられ、「あなたみたいな思いがある子は好きよ」と可愛がられたという。
あるとき、人の役に立てる仕事がしたいが、どうしたらいいかと聞いたら緒方さんはこう言った。
「行政に関わったり、もっと市民に近い仕事やボランティアを行うなど、人にはそれぞれ役目があるのよ。あなたはまだ若いんだから、いろんな世界に行ってみたらどうなの。それから決めてもいいんじゃないかしら」
'94年、慶應義塾大学法学部に入学すると、外交官を目指した。1年生のときから国家公務員試験の予備校に通った。ただ、お金が足りない。父親が銀行を辞めたあと転職がうまくいかず、母親がパートをして家計を支えていたからだ。奨学金や学費免除を受けても十分ではなかった。ほぼ毎日、施設の子どもたちに勉強を教えるボランティアにも取り組んでいたので、かなり忙しかった。
そんなとき、当時バイトをしていた渋谷の飲食店で、キャバクラ嬢やホステスをスカウトする仕事があることを教えてくれる人がいた。これなら空き時間でできる……。
「この仕事、スカウトして終わりではないんです。彼女たちが新しい職場になじんでいるかを時々ヒアリングして、もし悩みを抱えていたら、相談に乗って解決する。丁寧に対応していたら、女の子たちからすごく信頼されて、それが口コミで広がったんです。違うお店に移りたいときにも、僕に相談に来たりしていましたね」
勉強のかいあって、外務一種公務員試験に合格し、あとは面接だけというところまでこぎつけた。が、アフリカやアジアへの熱意が裏目に出る。面接官はこう言った。
「日本の国益はそんなところにない。アメリカやヨーロッパ、ロシアにあるんだ」
その言葉にカチンときた山中さんは外務省への志望を白紙に。急きょ、医師を目指そうと決意する。
「医者になれば、多くの人を救える。それでアフリカの人たちの役に立つんだ」
'98年、群馬大学医学部に編入学。2003年3月に医師免許を取り、しばらく病院で研修を受けた後、アフリカ・ケニアに向かった。現地の医療機関で研鑽を積み、NPO法人「少年ケニヤの友」の医療担当専門員として、離島医療に携わった。
島に行くと、HIV(エイズ)感染率42%という蔓延状態。若年層の売春が常態化し、子どもたちの半分以上が学校に行けず、労働力として駆り出されている状況だった。
山中さんは島の巡回診療をしながら、HIV検査所をつくり、予防教育を展開。さらにHIVで夫を亡くした女性向けに「ウィドウの会」を設立。孤児とマッチングする機会を設けた。一方で地域で活躍できる看護師の養成にも関わった。
「市民の手に政治を」の思いで政治家へ
ケニアには2年滞在したが、日本にも時折帰国していた。そのときに顔を出していたのが、政治家やビジネスリーダーなどを養成する松下政経塾である。「少数者の痛みに配慮した政治を行いたい」という思いがあったのだ。
当時、民主党代議士だった岡田克也、三日月大造(現・滋賀県知事)両氏がケニアを視察した際、案内した縁もあり、医師の傍ら、'06年から民主党三重県連事務局で働くことになる。翌'07年には三重県議会議員に。さらに2年後の'09年には松阪市長選に出馬する。
「松阪市長選は30年ぐらい、無投票か、ほとんどの政党が1人の候補を支援する無風選挙だったんです。こんな市政では市民の声が反映されるわけがない。政治を市民の手に取り戻そうと出馬したんです。でも相手の現職候補は自民党から共産党まで支援していて、自民党の石破茂さんや小泉進次郎さん、岡田(克也)さんも応援に来ていました。ですからマスコミも“山中惨敗確実”という予想でした」
ところがフタを開けてみたら、選挙戦後半になるにつれ、山中人気が沸騰し、当選。33歳、当時の最年少市長となった。
まず着手したのは、行政が地域住民から声を聞く組織づくり。シンポジウムシステムというが、これを浸透させた。また20年赤字だった競輪事業や松阪市民病院を黒字化するなど、財政再建を成し遂げた。
このころ、東急不動産社長だった金指潔さん(現・東急不動産ホールディングス取締役)は山中さんに会っている。松下政経塾講師の福岡政行さん(当時、白鴎大学教授)と友人で、面白い市長がいると聞いて会いに行ったのだ。
「ひげを生やして、清潔な風体ではなかったけれど、ケニアの写真をたくさん持ってきて、平和のためとか、人のためとか、少しくすぐったくなるような話を3時間近く熱く語るんです。今どき珍しい青年だなと、いたく感激したのを覚えています」
東日本大震災が起きると、山中さんは全国青年市長会を率いて支援に回った。金指さんも一緒に行き、彼の行動を見て思った。
「彼は天才的に頭がいい。ただ、頭だけで考えようとしない。常に現場を踏み、見て、触れてじかに感じたことをもとに問題の本質をつかんでいくんです」
2期目の当選を果たすが、市議会が動かなくなる。市民の声を聞く政治と、オール野党化した市議会の思惑が対立したのだ。議会の反対で予算が通らない。「あなたが市長であるうちは反対し続ける」と言われる始末。
「自分の命を人の幸せのために使おうと、現場で汗を流そうとしているのに、それができない。だったら市長を辞めるしかないと」
'15年、医師として活動を再開した。しかも今度は在宅診療医として。
「市長のとき、医療や介護が必要な状態になっても住み慣れた地域で過ごすことができる地域包括ケアの実現に取り組んだんです。でも在宅医療を担う医師・看護師を含め、支える体制がまったく整っていなかった。それでは絵に描いた餅で終わると思って、この分野に懸けてみようと思ったんです」
地域包括ケアの実現のため再び医療の道に
三重県四日市市にある「いしが在宅ケアクリニック」で約1年半働き、在宅医療を学んだ。'16年には、東京・江戸川区にある在宅診療所から誘いを受け、院長に就任。ただ、2年たたないうちに経営者との意見の食い違いが表面化。当時、同じクリニックに勤務していた看護師・濱本博子さん(現・しろひげファミリー訪問看護ステーション訪問看護事業部長)は次のように回想する。
「山中先生は、大きな病院から院長として誘われていたんです。でも一緒に在宅診療所をつくりませんかと提案したら“やろう”と。その思いがあるんなら、借金してでもやるよと言ってくれたんです」
そこから急ピッチで診療所開設に向けた準備が始まった。そして'18年10月、江戸川区で診療をスタート。設立メンバーは、山中さんのほかに、看護師3人、事務職員とドライバーなど3人の計7人だった。
ちなみに「しろひげ」には、2つの物語へのオマージュが込められている。貧しい人々に尽くす医師を描いた名作映画『赤ひげ』、そして漫画『ONE PIECE』では「白ひげ海賊団」率いるエドワード・ニューゲートが隊員たちを「息子」と呼んで家族のように大事にした。診療所の医療法人名を「しろひげファミリー」としているのも、患者さんを家族だと位置づけているからだ。
「“家族の社会化”って大事だと思っているんです。家族が必死でやらないと介護ができないようでは長続きしない。また都内では独居世帯が多いから、もし健康を損ねたら、誰かが介護の手を差し伸べなければ生きていけない。だから家族の代替機能を地域の中でつくらないといけないんです。それを私たちが担うという思いも込めています」
開所して間もなくは、患者の獲得に苦労するものだが、「しろひげ」は違った。山中さんが以前、担当した患者が引き続き診察してほしいとついてきたのだ。地元のケアマネジャーは、山中さんの誠実な仕事ぶりや濱本さんたち看護師の実力を評価していたので、患者さんや家族に「しろひげ」をすすめた。結果、開院間もない段階で患者数は約100人となった。
それでも医師は山中さん1人。とにかく激務だった。濱本さんによれば、朝8時に始まった診療が夜9時になっても終わらないことは珍しくなかった。しかも深夜2時、早朝4時に来てほしいと連絡が入ることもあったという。
「車内でカルテを書きながらぐったりしている姿をよく見ましたね。でも患者さんの前に行くとシャキッとしている。患者さんには“いつでも電話してきていいよ。いつでも僕がいるからね”って言うんです。そうすると患者さんはその言葉をお守りにして、次の診察まで頑張れるんです。“院長、優しいなぁ”と思って、そのときは涙がこぼれそうになりました」(濱本さん)
そんな状況でも新患の問い合わせが入る。濱本さんが「キャパオーバーになるので、お断りしてはどうですか」と言うと、山中さんは語った。
「いや、ダメだ。断ったら信用を失うよ。われわれのことを信用して連絡をくださっているんだから」
2年後の2020年、医師1人体制では対応できなくなり、ついに医師を雇うことにした。いちばん難しいのは、山中さんと同じぐらいの覚悟と責任感、そして技量で診察にあたれるかということだ。
山中さんが考えたのは、医師、看護師、事務職員やドライバーなどを常勤職員として雇うこと。パートタイマーなどを使えば、経費削減につながるはずだが、あえて常勤スタッフにした。ほかの在宅診療所では、夜間の緊急往診にバイト・非常勤医師が対応するも、それまでの経緯などが十分わからず、また診察に懸ける覚悟もないため、安易に救急車を呼ぶなどの例を見聞きしてきたからだ。
医師以外のスタッフも全員で患者の情報を共有
さらに「しろひげ」では、「スタッフ全員の意識や情報の共有」を図るため、毎日朝8時に30~60分の朝礼を行っている。そこで担当医が前日の診察について報告する。
〈昨日は4件、往診に行ってまいりました。44歳の男性***様なんですが、昨日の朝からお腹が痛くて吐き気がするということで、昼過ぎに行ってまいりました……〉
どういう治療をしたのか、家族の反応はどうか、今後どういう治療方針かなどを説明し、申し送りなどもする。担当医の報告を看護師だけでなくドライバー、事務職員も聞く。担当医の代わりに診察に行く場合でも、患者さんのことが念頭にあるのとないのとでは違ってくるからだ。ドライバーや事務職員もそれぞれの患者さんの状態を知っていたほうが、適切な動きができ、医療チームとしての一体感が生まれるという。
もし、診察報告を聞いて、担当医の対応に問題がある場合は、山中さんが問題点を指摘し、厳しく注意することも。
「悪い事例は教訓として共有するんです。僕が緊張感を持ってやっていることが医師だけでなく、全体に伝われば意識も変わってきますからね」
そもそも医師は批判されることを好まないことをよく知っているから、あえて厳しい対応をするのだという。
「医師というのは存在自体が“パワハラ”という側面があるので、そういう医師を放置すると、患者や家族からクレームが来ても、看護師や事務職員が医師に知らせない判断をするかもしれないんです」
こうした朝礼を毎朝行い、繰り返し山中さんの在宅医療に対する思いに触れることで、職員の意識も変わり、「しろひげ」の文化になるのだ。
ただ、これほど在宅医療のレベルを上げようとしても、また山中さんが『「家で幸せに看取られる」ための55のヒント』という著書で啓発しても、在宅医療がどんな治療を提供しているのかが、世間になかなか浸透しない。
恵子さん(60代)もその一人だった。母親を「しろひげ」で診療してもらおうと思い、山中さんにこう尋ねた。
「私はきょうだいがおらず、夫もおらず親族が少ないので、ほぼすべてを自分がやらなければなりません。それでも家で母を介護できますか?」
山中さんは「もちろんできます」と即答した。
「訪問看護師がたびたび入りますから、介護の負担は重くはなりません。病院で行う治療のほとんどは在宅でもできますよ」
恵子さんが在宅医療を検討するきっかけになったのは、パーキンソン病を患う母親が大腿骨頸部骨折をしたことである。手術を受け、入院していたのだが、その間に認知症の症状が出てきた。
「知り合いには“施設に入れたら”と言われました。でも私の個人的な考えですけど、施設に入れると母の生きる力が失われそうな気がしたんです。私が作った料理を食べさせたほうが生きる力を与えられるのかなと」(恵子さん)
そうして始まった在宅医療は、どうだったのだろう。
「心配していたほど大変ではなかったです。看護師さんはまめに来てくださるし、お願いすれば何でもサポートしていただけます。みんなフレンドリーなので何でも話せますから、悩みとか、わからないことが出てくるんですが、パーフェクトに対応していただいています」(同)
残された者も笑顔で人生を踏み出せるように
気がかりだったリハビリも理学療法士が家でできるメニューを考えてくれて、順調に回復。看護師も驚くぐらいに機能が改善したという。
今は恵子さんの手料理をよく食べて、至って元気。認知症のせいもあって、白衣を着ない山中さんが医師だと何度教えても忘れるらしく、帰ってから、
「なんだ、あいつ?」
と言っているのだとか。
恵子さんは、薬の処方にも希望を伝えたという。それは漢方薬の使用だ。これに関しても山中さんはその要望を検討し、適切な漢方薬を処方した。山中さんは、「“正しさ”の押しつけはしないようにしている」と話す。
「医学はエビデンスの上に成立しているけど、それはあくまで平均的なエビデンスで、その人に当てはまるかは別の話。患者さんを見たうえで考えています」
それはケニアや、キャバクラ嬢のスカウトで学んだことだという。
「例えばケニアで売春する女の子に“ダメだよ”と言うのは正しいでしょうか。やめたら生きていくのが難しくなるという事情がある。キャバクラ嬢もやむを得ない事情を抱えている子が多いので、水商売をやめさせて、必ず幸せになれるかどうかはわかりません。正しさを押しつけると、相手を不幸にしてしまうこともあります。正しさを振りかざさず、目の前の人がそれぞれに抱えている事情に寄り添って、どんなサポートをすればいいのかを考える。そのときの経験は、今の仕事の土台になっています」
「しろひげ」では恵子さんの母親よりも症状の重い、がんの末期患者も診る。「しろひげ」の患者さんの半数は、がんや難病だという。
痛みや苦しさは医療用麻薬やステロイドでコントロールでき、夜間の排尿管理や胃瘻の交換、酸素の管理なども可能、人工呼吸器や床擦れ防止用のエアマットもある。
これまでの経験の中で山中さんは、「人はどんな苦境にあっても、幸せを見つけようとする生き物だ」と考えるようになった。だからこそ、がん末期という限られた時間をどう生きるかも大事にする。無駄な薬を省いて本当に必要な薬を整える。さらに前述したように、医療用麻薬やステロイドを適切に使うことで、亡くなる直前の数日、穏やかな状態を取り戻すときがあるという。
「これを“ゴールデンタイム”といいますが、この時間に、家族でドライブしたり、いい思い出をつくってもらうのです。そうしておみとりすることで、亡くなったとしても悔いが残らないし、残された者も自分の人生を力強く踏み出せる。笑顔で思い出話を交わせることもすごく多いのです」
「しろひげ」では毎年、85%以上の患者さんを家でみとる。国民の6割が在宅での看取りを希望しながら、実際は15%程度でとどまっているのはなぜなのか。山中さんによれば、約1万4000か所ある在宅診療所の7割ほどが、24時間365日体制で夜間の緊急往診を行うと言いながら、年間10件も実行していないという。また年間在宅看取り4件未満の診療所も約7割という現実もある。
さらにフランチャイズ制の診療所の中には、深夜、緊急往診の電話をしても沖縄などのコールセンターにつながり、「救急車を呼んで」となることも少なくないという。それを山中さんは「なんちゃって在宅診療医」と批判し、厚生労働省にも訴えてきた。それがようやく実り、“なんちゃって”にメスが入った。
「24時間365日、在宅診療を行うと標榜しながらやっていないところは、今年6月から加算がもらえなくなりました。院長以外は非常勤医師で運営したり、1人の主治医が1か月に100人以上の患者を担当したり。夜間休日の往診を代行医療機関に丸投げしたりする診療所も同様です。それにより多くの在宅診療所が報酬を減算される方向になってきています」
「しろひげ」本部の建物は吹き抜けで、最上階の院長室から各フロアで働く職員の姿が見渡せる。今、働く約200人の中には、元患者だった人が複数含まれる。社会保健福祉士の専門学校に行き始めた人もいる。山中さんが救った人がまた誰かを救うために歩みを始めている。こうした、人を救うモデルが江戸川区から全国に広がるといい。
取材・文/西所正道 撮影/齋藤周造

