一色さゆりさん

 アートミステリー『神の値段』でデビューし、2025年本屋大賞11位となった『音のない理髪店』で注目を集めている一色さゆりさん。最新作『モナリザの裏側』は、名画と出会った人々の人生を描いた5編の短編集だ。

心に残る絵画が物語のきっかけに

 最初に書き上げたのは、表題作でもある「モナリザの裏側」だという。

「『美術の話を書いてください』と短編小説のご依頼をいただき、美術といえば名画かなと連想したところから物語がはじまりました。モナリザは美術の代名詞のような作品でもありますから、まずは話の中に登場させたいと思いました」

 物語は、母と娘がルーヴル美術館を貸し切りにして、絵画鑑賞をしている場面からはじまる。

「20年ほど前にルーヴル美術館を訪れたとき、モナリザは厳重なガラスに覆われていて、5メートルくらいまでしか近づけないようになっていたんです。モナリザが掛けられている壁の裏側にも絵が展示されていて、そこに掛けられていたのがイタリアの画家・ティツィアーノの〈田園の奏楽〉という絵画でした」

 もともと一色さんは、この絵に関する専門書を熟読していたそう。

「小説でも絵画でも、世間の評判とは別に、自分にとって特別な作品があると思うんです。私にとっては、それがティツィアーノの〈田園の奏楽〉だったのです」

 ティツィアーノの経歴には主人公の父親と重なる部分があり、ひとつの家族の物語が絵画に集約されていく。

「小説のご依頼をいただいた直後にコロナ禍になり、人と会うことが難しくなってしまいました。でも、対面で会えなかったとしても、心はつながることができる。そのことを、無意識のうちに物語に反映していたように思います」

 次に書き上げた「青い馬の瞳」は、ナチス政権下にある1930年代後半のドイツが舞台。冒頭では、ナチスが近代芸術を“退廃した芸術”として開催した退廃芸術展で、大使館職員の島田がフランツ・マルクの〈青い馬の塔〉の絵に見入る場面が描かれている。

「当時は、ナチスの思想に合わない芸術家や作家が弾圧されるような時代でした。小説家のミヒャエル・エンデの父親も画家なのですが、彼も苦難を味わっていると知り、それほど昔の出来事ではないんだと衝撃を受けました」

実際のエピソードを下敷きにした作品も

 一色さんは学生時代から美術史を深く学んでおり、フランツ・マルクら〈青騎士〉というドイツ近代美術が記憶に残っていた。

「『戦争中に動物の絵を、しかもこんなふうに描くなんて』という驚きが、心に残っていたんです。次にどんな絵画を出そうかと考える中で、マルクの青い馬の絵がいいなと思いました。実はこの絵は現在、所在不明になっています。だからこそ、フィクションで描くことの可能性を感じました」

 現実に失われた絵が、この物語の中に息づいている。

「一方で、同時期に大ドイツ展という国威発揚のための展覧会も開催されていたけれど、皮肉にもナチスのねらいとは裏腹に、退廃芸術展にばかり人が集まったという史実があります。そのこともとても面白いと思いました」

一色さゆりさん

 3編目の「富士山のハンマープライス」には、ゴッホの〈医師ガシェの肖像〉を史上最高額で落札する大企業の元敏腕経営者・油谷が登場する。この話は、1990年に大昭和製紙の齋藤了英氏が、その絵を実際に落札した出来事に着想を得た。

「齋藤氏が『ゴッホの絵を棺桶に入れる』という発言で当時、大炎上したことを知り、バブル時代を背景に、〈医師ガシェの肖像〉にまつわる物語を書いてみたいと思いました。齋藤氏は静岡出身で、私も今、静岡に住んでいるので、図書館に行くと資料がたくさんあるんです」

 資料を読み込みつつ、バブル期の空気感をつかむために、同時代の経営者たちのインタビュー映像などを見たという。

「日本が海外の美術品をたくさん買っていた時代に、当時の経営者の方たちはバブルの終焉をどこまで予測していたのかが気になっていたんです。いろいろな経営者の方の考えを参考に、油谷というキャラクターを作っていきました」

 物語の中盤には、息子との関係に悩む女性スタッフに対して、油谷が次のように話す場面がある。《期待しない。受け流す。慌てない。そして感謝。人とうまくやる四原則だ。騙されたと思ってあんたも実践しなさい》

「この四原則は、私自身がいろいろと悩んでいた時期に自分でたどり着いた答えで、困ったときに心の中で唱えるようにしています」

5編の物語は5つの都市を舞台に

 1編目の「オスロで光の種をまく」は、ムンクの〈叫び〉が主人公に希望をもたらす、ノルウェーが舞台の物語。4編目の「千年のあこがれ」は、エドゥアール・マネの〈スミレの花束をつけたベルト・モリゾ〉の絵を軸に、昭和初期の京都が舞台になっている。

「5編を通していろいろな都市を出そうと考えて、日本は故郷の京都にしました。またムンクの絵を取り上げたくて、北欧には行ったことがありませんが、オスロを舞台にしました。ムンク美術館を訪れたことがあるという担当編集者さんから情報をいただき、自分でも調べて美術館の場面を書きました」

 本作は、一色さんの次のような思いが込められている。

「芸術品には特別なものというイメージがあり、敷居が高く感じられるかもしれません。でも実は、大切な人が亡くなって悲しいとか、幸せを感じてうれしいとか、どの絵画も普遍的なことを描いているんです。

 芸術品は私たちが普段、慌ただしく日常生活を過ごす中で曖昧になりがちな感情や気持ちを思い出させてくれるもの。このことが、本書を通して少しでも伝わればいいなと思っています」

最近の一色さん

「5年ほど前に庭のある家に引っ越しまして、家族みんなで花や野菜を育てています。素人なりに楽しく取り組んでいるのですが、虫の駆除が思ったよりも大変で……。最近は、クチナシの木につく蛾の幼虫と闘いを繰り広げています。畑ではきゅうりやトマト、スイカなどが育っていて、夏野菜を収穫して食べるのが今から楽しみです」

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一色さゆり(いっしき・さゆり)/1988年、京都府生まれ。東京藝術大学美術学部芸術学科卒。香港中文大学大学院修了。2015年、『神の値段』で第14回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、デビュー。著書に、『コンサバター 大英博物館の天才修復士』をはじめとする「コンサバター」シリーズや、『音のない理髪店』『モネの宝箱 あの日の睡蓮を探して』『ピカソになれない私たち』『光をえがく人』『カンヴァスの恋人たち』などがある。

取材・文/熊谷あづさ