水族館プロデューサー・中村元さん(撮影/矢島泰輔)

 神奈川県の新江ノ島水族館、東京・池袋にあるサンシャイン水族館、北海道の北の大地の水族館……など、勢いがなくなった水族館を次々と甦らせてきた、水族館プロデューサー・中村元さん(70)。

竹島水族館を48万人までV字回復

竹島水族館の「深海大水塊水槽」は、光の当て方や奥行きの見せ方にもこだわった展示(撮影/矢島泰輔)

 6月中旬、彼は愛知県蒲郡市にある竹島水族館にいた。ここも一時、入館者数が年間12万人まで落ち込み、閉館も噂されていたが、2024年10月に新館をリニューアルオープンし、48万人までV字回復させた。同水族館館長の小林龍二さん(45)が、

「これは中村さんのおかげです。中村さんがいなければ、今ごろ閉館しています」

 と言うと、傍らで聞いていた中村さんがくすぐったげな表情をしてこう語る。

「いやいや、僕はこの水族館のプロデュースはやってないよ。館長とは20年来の付き合いで、愛弟子みたいなものなので、ときどきアドバイスしているだけでね。この水族館、あまりにもしょぼいからかわいそうやん(笑)。この水槽だけはお金をもらってアドバイザーをしたけどね」

 視線の先には、「深海大水塊水槽」があった。奥行き7・5メートル、高さ3メートル。その名のとおり、水深200メートル以深の深海に生息する生物を展示する。世界最大のカニともいわれる脚の長いタカアシガニが15匹、体長1メートル以上ある魚、オオクチイシナギなど、珍しい生物たちが水槽の中で生きている。

 深海を思わせる少し暗めの照明と、サーチライトが動き、生物だけでなく、沈められているクジラの骨のレプリカをなめるように照らしていく。水槽を眺めているだけで、ゆったりした気分になる。

 奥に進むと、下から水槽を覗けて、頭上にタカアシガニのお腹が見える仕掛けも。

「水族館で働く人間は、魚が好きで、生物を大切に飼うことだけを考えがちなんですが、同時にいかに楽しく見せるかも大事だと、中村さんから教えられました。それがこの仕掛けにつながっています」(小林さん)

 ほかにも、中村さんの助言を受け、タカアシガニにさわれるコーナーをつくったり、飼育員が直筆で書いたわかりやすい解説を掲示するなど、さまざまな工夫が施されている。

 極めつきが、魚の食べ方の説明書き。小林さんが語る。

「中村さんから、魚ばかり見ていてはダメだと。お客さんのことを知らなければと言われて、来館者をよく見たんです。すると『これ、食べられるのかな』とか『どうやって食べる?』と話していたんです」

 中村さんは、小林さんがいだいていた水族館のイメージをことごとく打ち破っていったという。

2人の出会い

タカアシガニにさわれるコーナーで小林さんと(撮影/矢島泰輔)

 2人の出会いは25年ほど前にさかのぼる。中村さんは当時、三重県にある鳥羽水族館の職員で、自著を出版するなど業界でも目立つ存在だった。独特のキャラクターもあってファンが多く、中村さんが主催する交流イベントが定期的に催されていたという。

 その参加者の中に当時大学生だった小林さんがいた。レジェンド飼育員がいる鳥羽水族館に就職したくて、何か糸口をつかめたらと、参加したのだ。何回目かのイベントで中村さんから言われたことが衝撃的だったという。

「『昔から魚が好きで、魚に囲まれて仕事がしたいので水族館に入りたい』と言うと、『それは違うぞ!』と言われたんです。魚が好きなんだったら家で飼えばいいと」(小林さん)

 “水族館で飼われている魚たちはかわいそうだ”という発言にもハッとさせられた。

「海に潜ったら、魚はみんな自由に泳いでいる。でも水族館の魚ときたら狭い水槽に閉じ込められてかわいそうや。牢屋に閉じ込められているみたいやろ。そう思わない? この魚たちに俺たちができることは、たくさんのお客さんに見てもらって、好きになってもらうこと。

 生息環境を再現して、野生の日常を見せることで、輝く命をしっかりと伝える。それによって“魚たちが生息している海を汚したらあかん”という考えを持つ人を1人でも多く増やすこと。そうなってくれたら、魚たちの仲間が救われる。水族館に携わる者ができるのはそういうことや」

 すべて理にかなっていて、反論できなかった。中村さんが口にする「水族館論」が新鮮で、もっと教えてほしい一心で頭を下げたという。

「僕を弟子にしてください」

 そうして小林さんは中村さんの弟子第1号になった。

 小林さんが卒業する年、鳥羽水族館は採用募集がなく、やむなく地元の竹島水族館に就職したが、困ったことがあると、まず師匠に相談するという。

 館内を案内してくれていた中村さんが、思い出したように切り出す。

「深海大水塊のサーチライト、見に行こう。実は“何それ?”というような方法で動かしているから。驚くよ!」

 サーチライトが設置された水槽の上部に行ってみると、なんと首振り扇風機にライトがくくりつけられていたのだ。

「おー、すごいこと考えたなと。貧乏くさいかもしれんけど、発明やと思ったね」

 深海大水塊の完成目前で、中村さんが最終チェックに訪れ、光の加減をさらに良くするための大がかりな調整が入り、クオリティーが底上げされたという。

 金がなければ知恵を絞る。常識にとらわれず、発想を自由にすれば、おのずと別の道が見えてくる。

 “裏道を見つける”。これこそ、日本で初めて“水族館プロデューサー”を名乗った中村さんの真骨頂だ。

 中村さんはこう振り返る。

「“ブルー・オーシャン”をずっと探してきたと思う」

 競争が激化した“レッド・オーシャン”で勝負を挑むのではなく、まだ誰も目をつけていないブルー・オーシャンで勝負をかけてきたのだ。

客は魚ではなく、〇〇を見ていた!?

水族館プロデューサー・中村元さん(撮影/矢島泰輔)

「魚は別に好きやなかった」

 中村さんは意外なことを言う。子どものころから昆虫はくさいから嫌いで、家で図鑑を見るほうが好きだったという。

 三重県中部の嬉野町(現・松阪市)生まれ。海のないところで育った。父は教師、妹が1人いる。成城大学では経営学(マーケティング)を専攻。本が好きで、出版社などメディアに就職したかったが、成績が芳しくなく、断念。そんなとき地元の友人から誘われたのが鳥羽水族館だった。

「同じ県内なのに2回しか行ったことがなかった。でも、よく考えたら、魚とか生物を見せて何か伝えるところだから、“水族館はメディア”やんって。自分にそう思い込ませて鳥羽水族館に入りました」

 1980年、鳥羽水族館に入社すると、飼育係を志願した。営業や事務系の人材として採用されたのはわかっていたが、「水族館をメディアと考えている以上、伝えるものの根本を知らなければ何もできない」と考えたからだ。

 まず掃除などを任され、一方で、『日本産魚類大図鑑』という分厚い本を買って、掲載されている魚を全部覚えよという指令を受ける。

「子どものころから図鑑を眺めるのは好きやったけど、暗記は大の苦手でね。同期が覚えていくのに俺1人大苦戦。完全な落ちこぼれでした」

 入社2か月後に転機が訪れる。展示生物の解説文を書くよう指示されたのだ。小学6年生のとき、三重県の読書感想文コンクールで2位に輝いたことがある。“よっしゃ、まかせとけ”とスイッチが入ったが、ハタと思った。お客さんはどんなふうに解説文を読んでいるのか、と。そこで、館内を観察してみることに。

「ほとんどの人は読んでいないんですよ。読んでいる人でも長い解説になると、途中で読むのをやめていました」

 そこは大学でマーケティングを学んだ人である。ストップウオッチ片手に、来館者が水槽をどう見ているか、入館から退館まで、こっそりついて回った。するとまたしても発見があった。

「水槽を全然見ていないんです。例えば入ってすぐの水槽は、どんなに小さい水槽でも見るけど、順路の最後にジュゴンがいるのにほとんど見ていなかったりする。また水槽の大きさにかかわらず、よく見られる水槽と、チラ見で終わる水槽があるんです」

 いったい、客は何に注目しているのか─。

「水中を見ているんですよ。魚への興味ではなく、水中感を味わいに来ているんだと思いました。自分が海や川に浮かんでいるような感覚。それを見て、大切なことに気づいたんです。“水族館の思惑とお客さんの行動や要求にはズレがある”“水族館は見る人のことを何も考えていない”と」

 昔から「常識」を疑う子どもだったという。母親から「道を歩くときは目をつぶってはダメ」と言われても納得できず、実際に目を閉じて歩いてみて、田んぼに落下。そこでようやく納得した。何でも自分で確かめないと気が済まない子どもだったのだ。

 解説文の仕事を機に“ズレ”に気づき、それを修正する解決策を2年間考え続けたが、なかなか見つからなかった。  

 ヒントにたどり着いたのは、飼育係3年目のとき。スナメリという小さなイルカの出産シーンが偶然撮影できたのだ。へその緒が伸びて切れる瞬間や、授乳シーンも収録できた。

 大学時代、8ミリ映画を作るグループに所属していて、脚本と演技担当だったが、撮影の手ほどきも受けていた。

「映像をNHKに送ると、これは世界初かもしれないと、すぐ放送してもらえて。翌日からスナメリ見たさにたくさんお客さんが来るようになった。これで水族館がメディアになったと思いました」

テレビ局とタッグ! 水族館で初の「広報担当」

水族館プロデューサー・中村元さん(撮影/矢島泰輔)

 入社4年目で営業部に異動。従来、営業部が集客のために行っていた学校回りに疑問を感じ、スナメリのようにメディアが食いつきそうな映像を撮ってはテレビ局に持ち込むことを繰り返した。するとタイミング良く、'83年、ラッコが鳥羽水族館にやってくる。

 日本の水族館でラッコの飼育を始めたのは二番手だったが、番組が始まって間もない『わくわく動物ランド』(TBS系、以下『わくわく』)のディレクター・恒川省三さんに、こう持ちかけた。

「うちのラッコだけを放送するのなら、アラスカからうちに来るところを1週間独占取材してもらっていいですよ」

 恒川さんは、ずっと見ていても飽きないラッコにスター性を感じ、中村さんの提案に乗った。密着映像が流れると、ラッコ人気に火がつき、運のいいことに、翌'84年2月、国内初となるラッコの赤ちゃん「チャチャ」が誕生、ラッコブームが到来する。来館者は180万人を数えた。

 ラッコブームを受けて中村さんは、以前から温めていた企画室(現在は企画広報室)を設立。“広報”の窓口を設けたのは、水族館では初めての試みだった。
『わくわく』の恒川さんは、こう振り返る。

「当時は、民放が水族館に取材をお願いすると、すごく警戒されました。水族館の本分は飼育や種の保存なのに何をされるかわからないと思ったのでしょう。その点、中村さんはテレビの影響力をわかっていて、鳥羽水族館の名前を全国に広めていきたいという熱意を感じました。取材をお願いすると『できる限りのことは』という言葉をいただきました」

「当時の企画室は不夜城だった」と明かすのは、現・鳥羽水族館館長の若井嘉人さん(66)。

「ずっと企画室の電気はついていて、すごく忙しそうでした。昼間は水族館の仕事をして、夕方になると鳥羽青年会議所の会合に行く。夜に水族館に戻ってきたら、朝まで仕事されていましたね」

 中村さんによると、青年会議所では、地域全体で観光を盛り上げるための活動。水族館に戻ると、広報のために使う写真のポジチェックや、編集長をしていた鳥羽水族館発行の機関誌『TOBA SUPER AQUARIUM』の編集、原稿執筆に追われていたという。自宅には帰らずソファで寝ることも多かった。

脱・子ども向け! 大人が喜ぶ水族館へ大改革

『毎日小学生新聞』の2年分の連載を、切り抜いて製本し、東京から持参したファンの子どもと

 やがて、企画力や実行力が評価され、鳥羽水族館の新館建設のディレクターを任される。'90年のオープンに備え、'85年に、当時は部下であった若井さんとアメリカに出張。めぼしい水族館を10数館、数週間かけて視察した。

 日本の水族館は当時、小規模の水槽で魚などを展示することが多かったが、アメリカの水族館は違った。

「とにかくダイナミックでしたね。水槽の一つひとつが大きくて、リアルな生息環境を取り込んだ水槽があった。淡水の水槽からジャングルの木が外にこぼれ出てくるような仕掛け。当時の日本では考えられないアシカやアザラシが自由に泳ぐ屋外大水槽、トンネル水槽もありました。中村さんもかなりインスパイアされたと思います」(若井さん)

 中村さんが考えた新水族館のイメージは、「デートに使える水族館」。

 それまでの水族館は教育的役割を担う施設でもあると信じられ、子どもを意識する傾向が強かったのだ。

「でも人口比率を僕なりに分析すると、純粋に子どもといえるのは1割程度。僕の定義では10代でも『鬼滅の刃』を見たい!と言えば大人。怖い!と言えば子どものくくり。中学生だってデートするでしょ。そう考えると大人が9割だと。だから、大人の女性をターゲットにしようと思ったんです、男は女性についていくからね」

 中村さんは大学時代、「女性購買心理」をテーマに卒業論文を書き、女性の購買力の強さを熟知していたのだ。

 新水族館のコンセプトは、従来の水族館のイメージを超える“超水族館”とした。

 まず館のシンボルとなる巨大水槽。自然の生態系をそのまま再現した「環境展示」だ。その「コーラルリーフダイビング水槽」で、珊瑚礁の海に約250種2万匹の大小の魚が泳ぐ様は圧巻と話題になった。そのほかにもアシカやアザラシなどが棲む「海獣の王国ゾーン」、世界初のジュゴンの繁殖ができる大水槽……。

《海より広く、海より深く、海より碧い海がある》

 中村さんがPR用に考えたこのコピーは、まさに新鳥羽水族館を言い表していた。

 元副館長の浅野四郎さんいわく、フランスのルーブル美術館が観覧順路をつくらないのに倣った結果、来館者が一か所にかたまらない効果も生み出したという。

 新鳥羽水族館は評判を呼び、ラッコブームで記録した180万人をしのぐ280万人もの来館者数を記録した。

「“水塊”のある水族館をつくりたい!」

 入社から20年、中村さんは副館長に抜擢される。順風満帆と思われたが、水族館上層部との間に意見の食い違いが生じた。象徴的だったのは、お金の使い方。とある番組で鳥羽水族館をスタジオにして放送をしたときのことである。取材協力費の一部を水族館が負担した。

「それに500万円かかって、咎められたんだけど、同じ時間で番組の枠を買ったら、2億円かかるんですよ。それを理解しない人がいるんです」

 元来、言うべきことを黙っていられないタイプの中村さんは立ち位置を見失う。

「先輩に忠告されて我慢した期間もあったんですが、自分が自分でなくなる感じがして、自信がなくなってしまった。で、元のスタイルに戻したら衝突することが増えてね。だから敵が多いんですよ」

 結局、居づらくなり、'02年、鳥羽水族館を退職した。46歳だった。

「これからは水族館とは関係のない仕事をしよう」

 そう決心した直後、閉館と移設が決まった江の島水族館の「展示の監修」とオープン後の「展示監督」をしてほしいと依頼される。引き受けるか否か悩みつつ、数か月、他業種のプロモーションの仕事を手がけるがしっくりこず、江の島水族館のプロデュースを引き受けることにした。

 実は、ここで実現させたい水槽のアイデアがあった。沖縄・美ら海水族館で見た「黒潮の海大水槽」だ。ジンベエザメやマンタが泳ぐ水深10メートルの大水槽。

「視界いっぱいに広がる青い水の塊を前にすると、何を見るでもなく、ただボーッと水の塊を眺めてたたずんでしまう。海の広がりや奥行き、ブルーの透明感、それから心地よい浮遊感と清涼感、そして水中感を閉じ込めた水槽。僕はこのとき“水塊”という言葉が思い浮かんだんです。水塊のある水族館をつくってみたいなって」

 それが「相模湾大水槽」として実現。イワシが形を変えて群れをなす、江の島の水中を再現した展示になった。入館者数は元の江の島水族館時代の6倍、180万人を記録した。

 この仕事に取り組む中で、「展示監修」、つまり「水族館プロデューサー」を生業としていこうと思うようになる。

 新江ノ島水族館では引き続き展示監督に携わっていたが、編集の仕事をする妻の貴子さんから、のちに『決定版!! 全国水族館ガイド』(SBクリエイティブ)となる本の企画を打診される。

「日本の水族館の現状を自分の目で見て回るのは、プロデューサーの仕事をするための資産にきっとなる」

 中村さんはそう考え、全国の水族館の取材を開始。傍らには貴子さんがいた。

「私が当時、編集の仕事をしていたこともあるのですが、取材先の水族館では、私が編集者、元さんはカメラマン、みたいな体で、目立たないように振る舞っていました。狭い業界なので、関係者に会いたくなかったんでしょうね」(貴子さん、以下同)

 ただ、この“カメラマン”、なかなか諦めの悪いタイプだったみたいで、

「もう次の水族館のアポがあるから終わって、と言っているのに、こだわりが強くて、“もうちょっと”とか言うので困りましたね(笑)」

弱点は武器!「天空のオアシス」で大逆転

サンシャイン水族館の「天空のペンギン」は大きな話題に!(撮影/矢島泰輔)

 '09年ごろから、中村さんは日本初の「水族館プロデューサー」を名乗り始めるが、その名を轟かせたのが、'11年にリニューアルした東京・池袋にあるサンシャイン水族館である。

 最大のネックは60階という高層ビルの最上階に位置する水族館なので、重量の問題があって、大水槽がつくれないこと。マックスは240トン。美ら海水族館の黒潮の大水槽は7500トンだから30分の1だ。ところが……、

「デッカく見せる方法、あるんです。“ホリゾント”効果。ひと言でいえば光のグラデーションです」

 ヒントは鳥羽水族館時代に知人に誘われていやいや見た舞台『オペラ座の怪人』にあった。

「舞台の光の当て方に“なんやこれ”となったわけです。色のグラデーションによって、実際よりも広く、奥行きを感じさせる。光で自在に奥行き感を演出できる。これは水槽に応用できると直感しました。舞台のストーリーなんてそっちのけでした(笑)」

 その技を存分に活用したのが、大水槽「サンシャインラグーン」。手前は明るい太陽色照明と白いサンゴ砂によるエメラルドグリーン、そこから奥に向かって徐々に照明を暗くすることで奥行きができ、さらにコバルトブルー、濃紺、そして暗い漆黒へとグラデーションをつけていく。それにより、どこまでも広がる海の雰囲気が醸し出されたのだ。

奥行きにこだわった「サンシャインラグーン」(撮影/矢島泰輔)

 屋根のない炎天下の屋上に、ヤシの木など植物を植えて緑化。地上2・3メートルの高さにドーナツ状の水槽を設置し、アシカを飼育することに。「アクアリング」である。

「見上げると、空が借景になっているんです。だからアシカが空を飛んでいるように見える。のちに“天空のペンギン”も登場しましたが、それも同じ原理です」

 水族館の入り口も斬新だった。エレベーターを出たら、目の前に滝がある。水族館の入り口に行く途中にトロピカルな植物が繁茂して、トンネルをくぐると水族館に到着する。南国のリゾートホテルの雰囲気にしたかったという。

 中村さんが考えたキャッチコピー「天空のオアシス」そのものだった。

 無事リニューアルを終えたとき、「この人がいなければ成功はなかった」とつくづく思ったのが、水族館の親会社・サンシャインシティの社長(当時)、鈴木誠一郎さんだ。鈴木さんは中村さんからリニューアルのプレゼンテーションを聞いたとき、こう考えた。

「山手線からいきなり南国の世界に誘われるようなストーリーに惹かれて、これに賭けようと思いました。しかし、かかる費用は約30億円。幹部から『前代未聞だ、大丈夫か』と釘を刺されたんです」

 しかし当時のサンシャインシティは空室率が10パーセントを超え、最盛期200万人いた水族館の入館者数も、'09年決算の段階で70万人まで落ち込んでしまっていた。

「水族館はサンシャインシティのシンボルです。このままでは早晩ダメになって、100人ほどの水族館の従業員が路頭に迷う。それでいいのかと、その幹部に言ったんです」

 このリニューアルは大人気となり、来館者数は3倍増の224万人を超え、投資額は1年で回収した。

「最初は現場の人間と衝突することもありましたが、中村さんはプロですね。確固たる信念を持っておられて譲らなかった。中村さんとの出会いがなければ、当水族館は衰退しているか、廃業していたかもしれません」(鈴木さん)

 大きな水槽を置けないという弱点を見事プラスに転じた中村さんはこう語る。

「弱点を克服せよなどとよく言われますが、違います。弱点は武器にするもの。そうすることで新しいものをつくり出すことになるのです」

「頭上に滝つぼ」「凍る水槽」で集客15倍!

計画する水槽の展示意図を明確にするため、その地域の景観や生物の行動を観察する潜水調査

 '12年にリニューアルした北海道にある「北の大地の水族館」でも、その理念を証明してみせた。

 当時「山の水族館」という名称で、年間入館者1万9000人だったこの水族館にはいくつもの弱点があった。まず資金がない。移転新築には通常数十億円はかかるのに、予算はわずか3億円。スター的な魚はおらず、目玉といえば体長1メートルを超える20尾のイトウ程度だった。

「断ろうと思ったんです。失敗する可能性のほうが高かったからね。予算的にも十分なリニューアルなんてできっこないし。でもね、担当者のことがかわいそうで」

 唯一素晴らしいと思ったのは豊富できれいな地下水。それを大水槽に入れてイトウを展示する。長径7メートル、短径5・5メートル、深さ1・9メートル、水量50トン。イトウの水槽としては日本最大だ。また、来館者の頭上を滝つぼにし、激流をつくる滝つぼ水槽も考案した。北海道だけに生息するオショロコマを見てもらう仕掛けだ。

 オショロコマが滝の飛沫と激流の下に集まってきらめく様を滝つぼの下から眺められるのは、世界で初めての試みだった。

「水槽は、ろ過装置にお金がかかるんですが、ここは地下水を掛け流しなので、お金が節約できたんです」

 もう一つは寒くて水が凍ることを逆手にとった、世界初の「凍る水槽」である。

「真冬になるとマイナス20度にもなる、どこの水族館にもマネできない環境が見事、武器になったのです」

 外に穴を掘って水槽をつくり、川に見立てた。川の周囲に土を積み、近所の人たちが持ち寄った木や花を植えて野生の雰囲気に。川には、ウグイ、ニジマス、アメマス、ヤマメ……。どれも珍しい魚ではないが、凍る水槽には映えた。

 この水族館もメディアにたびたび取り上げられ、15倍の30万人が来館した。

死を覚悟……「人生を変えた」壮絶体験

『超水族館ナイト』では最後のガイドブックに込めた思いを吐露した(撮影/矢島泰輔)

 '09年ごろ、世で初めて“水族館プロデューサー”という肩書を考案した中村さん。今でも唯一の存在だが、実績年表を見ると、失敗した記録が見当たらない。本当のところどうなのだろうか?

「ないですね。どこもお客さんが増えている。というのも勝てない勝負はやらないし失敗しない方向を考えるから」

 苦労したことは?

「ないね。苦労嫌いやから。努力も嫌い。その代わり裏道を探すのは大好きでね。楽しいし、頑張れる」

 苦労している姿を人に見られるのをカッコ悪いと思っている人なのかもしれない。そばで聞いていた愛弟子の小林さんも、「人一倍努力していると思いますよ」と口を挟む。

 取材の中で、中村さんは、ペンギンの飼育環境を例に、こんなことを語っていた。

「ストレスなく暮らせる飼育環境も大事やけど、生きる苦労をなくすことが幸せではない。退屈地獄はダメや。本来の環境を模した岩場や縄張り争いも生きがいになる」

 その言葉を思い出した取材陣がこう投げかける。

「どこかスリルや生きがいを求めていませんか? 水族館で飼育される野生生物のように、安心安全が保証された生き方は、ストレスなのかも」

 中村さんが即答する。

「確かに! そうかもしれん。日々楽しいかどうかのほうが大事だって思っているかな。今死んでもいいと思える自分でいようと考えているから」

 そう言うと、「人生を変えた」壮絶な体験を語り始めた。

 '87年に遡る。パンダのような白と黒のイロワケイルカを撮影するためにマゼラン海峡にタグボートに乗って行ったとき、大嵐に遭遇した。船長に「帰港しろ」と指示するが、「このボートのスピードでは戻れない」と言う。

「船に弱いから吐くわけ。トイレに行くと、水柱がバシャーンと上がる。水中に潜っちゃってるから。船員も胸の前で十字を切り始めた。そこでゲロゲロやりながら思った。『もう終わったな』と」

 でも神様に祈った。

「どうか生き延びさせてください。自分でいつ死んでもいいと思えるくらい、やらなくちゃいけないこと絶対にやりますから」

 その直後、気を失った。

 奇跡的に助かったとき、自分の中で何かが変わった。

「それまでわりと計算ずくで生きてきたけど、遭難以来、計算したらあかんって思うようになったね。だって、いつ死ぬかわからないから。だから今死んでも納得できる生き方を考えるようになったね」

 やらなくちゃいけないことは絶対やり切る─それが実績につながり、失敗しない結果を生んでいるのかもしれない。

 6月、渋谷で51回目となるトークイベント『中村元の超水族館ナイト』が開かれた。「これが最後」と語る6回目の改訂版『新版 全館訪問取材 中村元の全国水族館ガイド129』の発売を記念したもので、取材秘話や水族館愛をユーモラスに語った。

「関わった水族館は、自分の子どもみたいなものでな。プロデュースが終わった後もお客さんが増えてくれるよう手助けしているわけよ」

 この会は毎回、門下生との“延長戦”があり、朝まで飲み明かし、参加者の相談を聞くのが恒例。冒頭の小林さんもその1人だった。今や30人ほど門下生がいるという。

「最近は門下生を育てることも楽しくなってきたね」

 そう語る中村さんだが、今も70歳とは思えない行動力で全国の水族館を飛び回り、ウイスキーを片手に原稿を執筆している。7回目の改訂ガイドはないと否定するが、このバイタリティーならあるかもしれない。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち 奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を描いた『東京五輪の残像』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き・中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。