昭和11年生まれ、今年90歳を迎えた毒蝮三太夫さん。戦争を知る世代のひとりとして、自身のラジオ番組などを通じ、その壮絶な体験を語り継いできた。
「このあたりだってさ、まだ空襲で亡くなった人たちの骨が埋まってるかもしれねぇんだ」
焼夷弾で空が真っ赤に染まっていた
インタビューを行ったのは、東京・墨田区にある毒蝮さんの所属事務所。81年前の1945年3月10日未明、“下町”と呼ばれるこの一帯は大規模な空襲を受け、約27万戸の家屋が焼失。およそ40平方キロメートルが焼け野原となり、10万人以上が亡くなった。毒蝮さんは当時9歳で、この空襲を自宅のあった荏原(現在の東京都品川区)から見ていた。
「空まで真っ赤に染まってね。下町方面から遠く離れたこちらまで、強い風が吹いていた。たまたま風が強い日だったわけじゃない。大きな火事を体験したことがない人はわからないと思うけど、猛烈な火は巨大な上昇気流を生んで、突風を巻き起こすんだよ」
木の柱や梁、紙の障子やふすまなどでつくられていた日本の家屋は、アメリカが落とした焼夷弾によりあっという間に燃やし尽くされた。
「国は日頃から、空襲で火事が起こったら逃げずに火を消せ、逃げたやつは国賊だと厳しく言っていたんだ。それも、犠牲者が多くなってしまった一因だよ。バケツリレーで一生懸命やったって、消せるわけねぇんだ」
この「東京大空襲」からおよそ2か月後の5月24日夜、毒蝮さんの住む山の手地域にも500機以上のB29戦闘機が襲来。数千トンの焼夷弾を投下した。
「学校の友達はみんな集団疎開で長野に行っていた。でもうちは親父が、死ぬときは家族みんな一緒だ、という考えだったんだよ。兄2人は出征してたから、俺は親父とおふくろと3人で東京に残ってたんだ」
疎開先でのごはんは馬のエサだった
この日、父親は恵比寿にあった海軍技術研究所に仕事で出向いており、不在だった。爆撃で立ち上る黒煙に空が覆われ、目も開けられない状態だったが、母親は自宅にひとつだけある水中眼鏡を渡してくれた。そして、猛烈な熱風の中、水中眼鏡をつけた毒蝮さんは母親と手をつなぎ、近所の空き地まで命からがら走って逃げた。
「空き地で夜を過ごし、夜が白々と明けてくるころ、ようやく攻撃がおさまった。朝になると、防空壕の入り口や道端、そこらじゅうで人が死んでるのがわかった。とにかく家に帰ろうと母親ととぼとぼ歩いてたら、子ども用の立派な革靴が片方、道端に落ちてたんだよ」
物資がなく、革靴は当時貴重品だった。毒蝮さんは思わず手に取ったという。
「あたりを探すと、もう片方も近くに落ちてた。拾ってみたら不自然に重いんだ。中を見ると、ちぎれた足首がそのまま入ってた。でも、子どもの姿はどこにもない。どこかに飛んでいっちまった、ということだ」
空襲を受け、毒蝮さん親子は父親のふるさとである横浜市戸塚区に疎開することになった。当時の戸塚は今のような住宅地ではなく、一面に雑木林や畑が広がる、のどかな地域だった。
「田舎だから米が食えると期待したよ。それまでは麦飯とか、メリケン粉で固めたすいとん、芋しかなかったから。ところが田舎でも米は貴重。代わりに本家が分けてくれたのが、コーリャンという馬のエサだった」
戸塚の小学校に編入した毒蝮さんは、母親が作ってくれたコーリャンで固めた弁当を持って学校に通った。ところが50人いたクラスメイトは、東京から来た毒蝮さんをなかなか受け入れようとしない。「おまえ、赤飯なんか持ってきやがって。何のお祝いだよ」と、いちゃもんをつけられる日々が続いた。
「コーリャンを炊くと赤くなる。赤飯じゃないとわかって、わざと言ってるんだよな。だから俺も、兵隊に行ってる兄ちゃんの誕生日だとか、父ちゃんの誕生日だとか毎日うそを言って、わざとうまそうに食ってやった。そうしたら、相手ももう何も言えなくなってたよ」
終戦を告げる玉音放送は、戸塚の本家の縁側で聴いた。8月15日の暑い日、近所の人も集まっていた。
「中には泣いてる人もいた。俺はただただ、2人のあんちゃんが無事に帰ってくれりゃいいな、と思ったね」
長兄はマラリアに、次兄は抑留された
終戦後まもなく、毒蝮さん親子は東京に戻り、知り合いから土地を借りて浅草・竜泉に居を構えた。
「親父が掘っ立て小屋を建てたんだよ。周りにも似たような小屋が次々に建ち始めてた。なんとか新しい生活を始めてしばらくしたある日、戦闘帽をかぶったいちばん上の兄貴が中国から帰ってきた。そのときのうれしさといったらなかったな」
しかし、復員した長兄はその後マラリアに長く苦しめられた。さらに次兄はソ連(現在のロシア)に抑留されていることがわかり、帰国までに5年かかった。
「厳しい強制労働で、200人の仲間のうち100人以上が亡くなってしまったと聞いたね。兄貴は絵が得意だったから、スターリンやトルーマンの絵を描いてなんとかひどい労働を免れていたらしい。でもね、兄貴の帰還の知らせをもらって家族みんなで品川駅に迎えに行ったとき、兄貴はなかなか列車から降りてこなかったんだよ」
次兄は5年に及ぶ抑留生活で、ソ連政府にすっかり洗脳されていた。
「それだけソビエトの教育がすごかったってことだ。その日はなんとか帰宅したけど、様子がおかしい時期が続いて兄貴はなかなか仕事にも就けなかった。終戦したら終わり、じゃないんだよ。
3年間戦争したら、復活するにはそれ以上の月日がかかる。町だけじゃない。心身を病んで帰ってきた復員兵たち、子どもを亡くした親たちも同じだよ」
悲惨な戦争を体験し、厳しい時代を生き抜いてきた毒蝮さんに、今の日本はどう映っているのだろう。
「政府が、国民に対して何か嘘をついているように見えるよな。それを厳しくチェックしなきゃいけない野党も、まとまりがなく役目を果たせてない。若い人も年寄りも、安心して暮らせなくなってる気がするよ」
終戦したから終わり、じゃない─。その言葉を裏づけるように、毒蝮さんの記憶は80年以上たった今も鮮明に残る。「戦争を語り継ぐことはボケ防止だよ」と時折、ユーモアを交えたその語り口は、若者たちにも耳を傾けてもらうための毒蝮さんなりの流儀だ。
「核兵器だって、すべての国が一斉にやめるといえば、その金を福祉や文化に使える。世界はもっと豊かになるんだよ。でもどの国も、やめるとは言わないよな」
戦争体験を語れる世代はすでに90代となった。本や映画ではわからない「戦争のリアル」を伝える声に、今こそ耳を傾けるときだ。
◎次号は伊東四朗さんが登場予定です
取材・文/植木淳子 撮影/佐藤靖彦(インタビュー)
