元宝塚星組トップスター・女優の湖月わたる 撮影/佐藤靖彦

 174センチという長身に、すらりと伸びる長い手脚。ひとたび舞台に立つと、圧倒的な存在感とパワーで視線を攫う。まさに、生まれながらの男役だ。そう伝えると、「上の兄は186センチ、下の兄は182センチ。これでもきょうだいの中では私がいちばん小さいんです」と朗らかに笑う。

 その恵まれたスタイルを生かしたダイナミックなダンスで知られ、宝塚時代、星組トップスターとして人気を博した湖月わたる(55)。今年は宝塚歌劇団退団20年、宝塚音楽学校を含め芸歴40年の大きな節目を迎える。

自分の人生の中でいちばんの岐路になったのって、やっぱり宝塚を辞めたときだと思います。初めて宝塚を見たときから男役のカッコよさに憧れていました。だから、退団して、涙ながらに男役とお別れしたときは、こうして舞台に立っている自分をまったく想像できなくて……」

「すごい衝撃を受けました」宝塚との出会い

 埼玉県入間市生まれ。4歳上と2歳上の2人の兄を持ち、幼いころは兄たちの後を追っては、キャッチボールをして遊んだ活発な子どもだったという。

当時の夢は野球選手でした。兄がなりたいと言ったので、“じゃあ私も!”と。でも“女の子はなれないんだよ”って兄に言われて、もう大ショック。よく漫画で背景にヒビがバリバリッて入って崩れ落ちていくシーンがあるじゃないですか。まさにあれ。夢が壊れるってこういう感じなんだって初めて知りました(笑)

 小学校に上がると、父の転勤に伴い名古屋へ引っ越し。そこで音楽とリズムに合わせて身体を動かしながら、子どもの音楽性だけではなく集中力や想像力を育てるリトミックを習っている。公民館が稽古場で、週に1回レッスンに通った。

実はもともと母が宝塚が大好きで、私がお腹にいるころから女の子だったら宝塚に入れたいって思っていたそうです。リトミックを習わせたのも、たぶんそういう下心があったのではないかと思うんですけど」

 5年後、埼玉に戻るが、リトミック教室が見当たらない。代わりにということで、近所のバレエ教室に通い始める。こぢんまりとした教室で、湖月のクラスは彼女を含め3人だけ。ほかの生徒は幼稚園児だった。

 宝塚との出合いは小学校4年生のとき。松あきら、順みつき主演のミュージカル『友よこの胸に熱き涙を』がテレビで放送され、母と共に見た。

「すごい衝撃を受けました」

 以降、宝塚の舞台が放送されるたび、テレビにかじりついた。宝塚熱は日ごと高まり、小学校5年生の夏休み、舞台へ足を運ぶ。それが彼女の人生を変えた。

「初めて生で宝塚の舞台を見たのが『ジャワの踊り子』でした。そのときプログラムに宝塚音楽学校生募集と出ていたのを見て、ここに入れば、私もあの舞台に立てるの!?と思ったんです」

「高校だけは」と言う父親を泣き落として

 音楽学校受験を視野に、まずバレエ教室を替えた。3駅先にある地元では比較的大きな教室で、コンクールを目指す同世代の子どもたちが通っていた。レッスンは週5回。同時に地元の少年少女合唱団に入り、歌唱を磨く。放課後は毎日レッスンで忙しく、中学時代は当然帰宅部だ。

「背が高いのでバレーボール部やバスケ部に誘われもしたけど、お断りしました。宝塚のことは親友にしか言っていなかったので、みんな“三澤さん(本名)は何をやっているんだろう?”って思っていたでしょうね

 週5回のレッスンでバレエのスキルは上がったが、周りはコンクールを目指す子ばかり。将来の方向性がまったく違い、話も合わない。

「宝塚に近づけている気が全然しなくて」

 音楽学校受験校の存在を知り、東京にある稽古場の門を叩く。そこで初めてジャズダンスを習い、同じ夢を抱く仲間もできた。受験までの2年間、充実した日々を送っている。

 家族の協力もあった。埼玉の実家から東京の稽古場までは片道2時間の距離。学校の授業が終わると同時に稽古に駆けつけ、夜7時から9時までレッスンを受けると帰宅は11時を回る。地元の駅から自宅までは自転車で20分の距離だ。

「田舎なので道が暗いんです。そこで、兄たちが助けになってくれて。駅に着いたら家に電話して、家と駅から同時に自転車で出発して、途中で兄と落ち合っては一緒に帰っていました

宝塚の舞台を夢見てバレエの稽古に没頭していたころの湖月わたる

 音楽学校の受験のチャンスは、中学卒業時の15歳から高校卒業時の18歳まで計4回。父に「高校だけは行くように」と言われたが、「待てない」と泣き落とし、中学卒業時に受験している。

「その代わり、もし音楽学校に受かったら、通信で高校卒業の資格を取る。そう父と約束しました」

 宝塚音楽学校は受験倍率の高さで知られ、限られた未来のタカラジェンヌ候補生だけが入学を許される。全国から集まってくる受験生たちは、みなキラキラして見えた。制服姿の湖月の隣には、上等なワンピース姿で面接に挑む生徒がいる。

「難関なんだと感じました」

 第1次試験は面接、第2次試験は面接と歌唱、舞踊。第3次の面接を経て、最終的に合格者が決まる。

 湖月は同じ受験校の友人と共に受験している。

「2人とも1次試験に受かって、一緒に2次試験に進みました。合格発表を手をつないで見に行きました」

 合格者が張り出され、まず湖月が通過。しかし、友人の名前は見当たらない。

そのとき、つないでいた彼女の手が、すっと抜けたんです。そのまま慌ただしく2次通過者が招集され、講堂へ向かいました。振り向けませんでした」

 友人は湖月の2歳上で、その後音楽学校を受験することはなかったという。

「彼女の手がすっと抜けたときの、あの感覚が今も残っていて。音楽学校や宝塚歌劇団時代も、壁に突き当たるとあのときのことを思い出しました。彼女のような思いをした人がたくさんいる。だからこんなところで落ち込んでいる場合じゃないと。あの手の感覚にいっぱい助けてもらいました」

ホームシックになる暇もない音楽学校時代

 宝塚音楽学校へ入学。倍率は19.1倍だった。

 15歳で親元を離れ、寮に入った。宝塚音楽学校はその厳しさで知られるが。

厳しかったと思います。でもあの経験は本当にありがたかった。自分という人間の土台になっています」

 宝塚音楽学校は、予科1年間と本科1年間の計2年間。予科の日々はまず掃除から始まる。掃除場所は各自決められ、湖月は玄関掃除をあてがわれた。授業が始まる前、一時間半かけ徹底的に磨き上げる。

「1年間同じ場所をひたすら掃除しました。それを続けると、自分の担当への責任と愛着が生まれるんです」

 宝塚音楽学校の精神を象徴するエピソードだ。

 授業は朝9時から始まり、バレエにモダンダンス、演技、歌と、夕方6時まで舞台人の基礎を学ぶ。ホームシックになる暇もない。

「もう夢中でした。でも、夏休みに初めて地元に帰ったとき、駅に迎えに来てくれた母の顔を見た瞬間、その場でわーって泣いちゃって。自分でも気づいてなかったけど、頑張っていたんでしょうね」

今振り返っても、厳しかったと思うという宝塚音楽学校へ入学したころの湖月わたる。歌劇団入団時の成績は学年で6番目だった

 素顔の湖月をよく知るのが、同期の元男役・大夏しづきさん。同じ寮で暮らし、同じ教室で学んだ。当時をこう振り返る。

彼女は優等生でした。努力家だった。わからないところがあると、授業が終わった後に先生に聞きに行ったり。努力をきちんとしていた。歌劇団時代もそう。もともとできる人ではあったけど、自分でちゃんと道を見据えていました

 湖月は音楽学校時代、授業以外に自らダンスレッスンに通っている。それも努力家といわれるゆえんだろう。湖月が恩師と仰ぐのが、宝塚OGで振付家・ダンス教師の尚すみれ先生だ。

「彼女が本科のとき、“先生のレッスンを習いたいです”と言って、私の稽古場に来たんです。当時の稽古場は宝塚からかなり遠かったけれど、ほかにどこも行くところはないの?というくらい、時間がある限りお稽古に来ていましたね。音楽学校の生徒には3歳からバレエをやってきた子もいるけれど、彼女はそうではない。“私はお稽古しないとダメなんです”と言って。まじめで誠実で絶対に諦めない。日々の努力がすごかった」(尚先生)

 2年目の本科に進むと、タカラジェンヌとなる日はもうすぐだ。授業で宝塚の舞台を見に行ったときのこと。

「1年先輩の知っている方々が舞台に立っているのを目の当たりにしたとき、私たち、来年あそこに行けるんだって実感がわいてきて。感動したのを覚えています」

 宝塚音楽学校を卒業し、第75期生として宝塚歌劇団に入団。晴れてタカラジェンヌの仲間入りを果たす。

 初舞台は入団年の1989年、星組公演『春の踊り』。幕開き、ピンクの着物を纏い、桜の花枝を持って大ぜりの上に立った。暗闇の中、静かに幕が上がっていく。

「そこでライトがパンッてつくと、お客様がわーっと拍手をされて。持っている花枝を落としそうなくらい痺れました。これが宝塚なんだ、宝塚の舞台に立ってるんだって。あれは忘れられないですね」

65年ぶりに創設された宙組への組替え

 湖月が頭角を現したのは、入団3年目。ニューヨーク公演に向け、振付家のリンダ・ヘイバーマンによりオーディションが実施され、メンバーに選ばれた。退団したての大浦みずきさんを筆頭にしたダンス公演だ。

「メンバーに入れてすごくうれしくて。でも、リンダさんの振り付けが踊れないんです。周りを見ると、バレエの基礎がしっかりしている子はポンポン使われている。主演の大浦さんも、必ず舞台が始まる前にバーレッスンをされている。自分の足りなさを痛感させられました。もっとダンスと真摯に向き合わなければと」

 より一層ダンスに磨きをかけるようになる。恩師の尚先生がこう証言する。

「千秋楽が終わると、翌日劇団のレッスンがあっても、今日くらいはとお休みする子が多い。でも湖月は出てくるんです。トップになってからもそう。取材が入って時間がなくても、たった1時間でもと言ってレッスンに出ていましたね

 '94年『若き日の唄は忘れじ』で新人公演初主演、'97年『夜明けの天使たち』で本公演初主演し、着実にステップアップを重ねていく。

 宝塚は星組、花組、月組、雪組とそれぞれ組に分かれ、湖月は星組の配属だった。そんななか、'98年1月1日、5番目の組として宙組が誕生。湖月は創設メンバーとして、星組から宙組へ異動する。いわゆる組替えだ。新たな組ができるのは65年ぶりで、立ち上げメンバーの背負うものは大きい。

「トップの姿月あさとさんが、いちばん踊り、いちばん声を出して歌っていて。みんな、姿月さんについていこうと背中を追いかけました。宙組はみんなでつくるんだと、心はひとつでしたね。私にとって宙組は青春でした

「何でもお話しします」と笑顔でインタビューを受ける湖月わたる。時にはユーモアを交えて自身の半生を振り返る 撮影/佐藤靖彦

 2000年、組に属さない「専科」に異動。専科としての初主演は雪組公演の『月夜歌聲』で、組の枠を超え舞台に立った。

「専科は、属していない組の中にポンと入って、作品をつくらなければいけない。すごくドキドキしていたんですけど、雪組のみなさんが本当に温かくて。みんなと一緒に夢中で稽古をする中で、宝塚って、組は違っても、結局目指すものは一緒なんだと感じました

 専科時代に出演した月組公演『大海賊』では、月組トップスター・紫吹淳のライバル役を演じている。そこでひとつの気づきを得た。

「演出の三木章雄先生に、“もっとわたるの色を出していいんだよ”と言われて。“新しい風を吹かせてほしくてわたるを呼んでいるのだから、月組のやり方に染まらなくていい”と。あぁ、そういうことかと思い、またそこから取り組み方が変わりました。わたるさんが来てくれなければできなかった、そう思ってもらわなかったら出る意味がない。悪役はどこまでも悪く、三枚目は思い切り三枚目にと、徹していきました」

 今も語り草になっているのが、月組のレビュー公演『With a Song in my Heart』。チャイナ・ドールに扮した紫吹を、チャイナ・マフィア役の湖月がぐるりとリフトで回し、宝塚の歴史に残る名シーンとなった。

自分にしかできない男役像って何だろうって、それまでずっと考えていて。この身長を生かした包容力や男らしさだと、そこを追求していくようになりました」

 トップ就任は'03年。いよいよ文字どおり宝塚の頂点に立つ。しかし、栄光の男役トップ就任も、手放しでは喜べなかったようだ。

「トップのお話をいただいたときは、もう本当にうれしかったです。でも同時に、引退までのカウントダウンを考えなければいけない。ついにその時が来たなと思ったのを覚えています」

トップとして見た景色は今までとは別物

 トップ就任に伴い、6年ぶりに星組に戻った。

「おかえり!って言ってもらって。泣きました」

 お披露目公演は星組『王家に捧ぐ歌』。トップとして舞台の上から見る景色はまた違うものがあった。

羽根を背負って大階段の上でライトを浴びた瞬間、トップの皆さんはすごいなって、改めて尊敬しました。もうヘトヘトだったんです。これを45日間できるのだろうか、皆さんどんな体力をされてるんだろうと思って。でも不思議なもので、1週間後にはまあまあ慣れているんですよね(笑)

『王家に捧ぐ歌』で演じた将軍ラダメス役は高く評価され、文化庁芸術祭賞演劇部門優秀賞を受賞している。

 星組の後輩に、元男役トップの柚希礼音がいる。「わたるさんは、私たち後輩にとって太陽でした」と柚希。星組時代、湖月から多くを学んできたと話す。

「例えば私たち下級生が思うように動けないとき、“こうやってみたら”と実際にやってくださるんです。わからないから動けないんだ、ということもわかってくださって。みんながわたるさんを見て、わたるさんについていきたくて、私たちは太陽に向かうひまわりでした」

2006年11月12日、宝塚歌劇団を退団した湖月わたる。退団会見で「宝塚への愛ゆえに卒業していくのもひとつの道」と、後任へとトップの座を譲った

 '05年の日韓国交正常化40周年記念『ベルサイユのばら』ではトップとして組を率い、宝塚歌劇団初の韓国公演を成功に導いた。それはある種の区切りとなった。

現地で取材を受けたとき、宝塚を代表して答えている自分に達成感を覚えたんです。その後、稽古場に戻ったら、またみんなが素晴らしくて。振り付けしたばかりのシーンがすっかりできるようになっている。感動しました。下級生の子たちがピシッとカッコよく踊っている姿を見て、時代がひとつ回った、時がたったんだな、という感覚があって。そのとき、今だ、ここで間違いないって」

 と、退団を決意する。

 湖月の退団後、星組を率いたのが後輩の柚希である。

「舞台上の芸事は全部教わりました。何から何までわたるさんのまねをして育った。わたるさんが退団するときは、この世の終わりというくらいみんなで泣きました」(柚希)

 '06年11月『愛するには短すぎる』で宝塚歌劇団を退団。18年のタカラジェンヌ人生にピリオドを打った。

「退団を決めたときにまず思ったのが、父との約束を果たそうということでした」

 高校卒業資格を取ること。それが宝塚音楽学校入学の条件だった。しかし、15歳で音楽学校に入学すると、朝から晩までの稽古に毎朝1時間半の掃除もあり、勉強に時間を割くのは難しい。本科に入り、通信制高校で学び始めた。

 テレビ授業と登校を経て、試験にパスすれば高校卒業の資格を取得することができる。学校では友人もできたが、宝塚に入団すると登校日と休みが合わず、途中で断念せざるを得なかった。高校卒業資格は宙ぶらりんに。すると専科のころ、通信制高校の同級生から手紙が届いた。

「4年間通信制高校に通って無事卒業しました。せっかくなので大学に行って、こちらも卒業できました、という報告の手紙でした。それを目にして、自分は何をしてたんだろうと思ったんです。自分に腹が立って、腹が立って。自分をあんなに嫌いになったのは初めてでした。時って戻せないんだなって、実感しました」

大学で学びながら女優としての人生に

 改めて高校卒業認定資格獲得を目指し、勉強に励んだ。試験は半年に1回実施され、退団の翌週にチャレンジしたが、パスとはならず。半年後に再チャレンジし、無事に高校卒業認定資格を得た。さらに、放送大学に入学。心理と教育を専攻し、教養学部教養学科を卒業している。

 宝塚退団後の初舞台は、'07年のミュージカル『DAMN YANKEES~くたばれ!ヤンキース』。“女優”として第二の人生が始まった。しかし当初は女優としての未来は思い描いていなかったという。

男役が好きすぎて、自分がいわゆる女優さんになるというイメージがまったくできなくて。周りに男役をまっとうされている方が多かったというのもあるかもしれません。実際に、私の周りでは、男役で燃え尽きてほしいという雰囲気がありました。だから私も、そうだよね、と思っていたんです」

 湖月に託されたのはヒロインのローラ役で、オファーと同時に映像資料を渡された。ボブ・フォッシーの振り付けで、グウェン・ヴァードンがローラを演じていた。

「映像を見たとき、身体中の細胞が“うわっ”て上がってくる感じがしたんです。気持ちが動いたとかじゃなくて、やりたい、やろうよって、細胞が押し上げてくる感じ。初めての経験でした。本当は宝塚で燃え尽きる予定で実家に帰るつもりで、準備もしてました。でもこの役を演じたい。両親に電話をしたら、“そんなことを言い出すんじゃないかって2人で話してたところ”って言われましたね」

 気になるのが、ファンの反応である。最後のファンの集いとなるお茶会で、これからも舞台に立ち続けたい、そうファンに告げた。

「“えー、わたるさんが女優!?”なんて、引かれるかなと思って、すごく怖かったんですけど……」

 ファンの間から、大きな拍手と歓声が上がった。想像もしていない反応だった。

いいの? 宝塚じゃなくても、みんな見に来たいと思ってくれるの?って。すごく勇気をもらいました」

『くたばれ!ヤンキース』で湖月演じるローラは、キュートでセクシーな魔女という役どころ。しかし18年間、男役として磨きをかけ、立ち居振る舞いひとつにしても“男らしさ”が染みついてしまっている。女性として、歩き方からのスタートだ。

2006年11月12日、宝塚歌劇団を退団した湖月わたる。退団会見で「宝塚への愛ゆえに卒業していくのもひとつの道」と、後任へとトップの座を譲った

「それまでは肩で風切るような歩き方をしていたので、まず普通に女性として歩くのが難しい。歩幅もそうだし、男性にリードされるということができないんです。だから、なかなか踊らせてもらえなかったですね。太いチューブで太ももを縛って、ひたすら歩く練習ばかりしてました」

 特訓を重ね、舞台の日を迎えた。ようやく女性らしさを身につけた、はずが─。

「舞台での通し稽古のとき、スポットライトが当たった瞬間、パーンと男役になっちゃって。演出家の方に“湖月さん、男になってます!”って言われて、ハッとしました。スポットが当たった瞬間、ついスイッチが入っちゃったんですよね(笑)」

 退団2年後に出演した『カラミティ・ジェーン』では、ヒロインのジェーン役で主演。勝気なガンマンが、結婚、出産、離婚、子どもとの不和と、不器用に生きる、1人の女性の波瀾万丈の人生を演じた。

「私自身はジェーンのような経験はしていない。最初はできるかすごく不安でした。でも同じ女性だからか、すごく気持ちがリンクしていったんです。男役って自分でどこか役を俯瞰して、想像しながら演じていたけれど、女性役は役との距離が近い。だから、これからもっと楽しくなるだろうなって、そのとき思えて」

 '15年にはブロードウェイ版の『CHICAGO』に出演。オーディションに挑み、ヴェルマ・ケリー役をつかんだ。ブロードウェイキャストと共に全編英語で演じている。

毎日8時間特訓しても英語が身につかない。翻訳機に向かって英語を発音して、ちゃんと翻訳できればよし。でもなかなか翻訳されなくて。トンネルの先が見えない感じでした」

 大役を務め上げた開放感は大きく、こんな後日談も。

「終わってホッとしたせいか、公演後5キロ太ってしまったんです。5キロとなると落とすのは大変。せいぜい2、3キロでとどめないと。反省しました(笑)」

共演者、スタッフ、誰もが魅了される人柄

 舞台に邁進する日々が続くが、プライベートのほうはどうなのだろう。結婚願望はというと?

もちろん結婚願望はあります。人生を豊かにしてくれる選択肢のひとつだと思っていて。私自身、専業主婦の母がいて、きょうだい3人のごく普通の家庭だったので、当たり前のように自分もいつか結婚するものだと思っていたんです。だけど退団して、学校にも通い、女優をすることになり……、という間にどんどん時は流れて。努力しないと、結婚ってできないんですね(笑)

 ちなみに、お相手に求めるものは? 身長は自分よりも高いほうがいい?

「そんな条件はまったくないですね(笑)。あまり気負わず、自分らしくいられるお相手が理想。年齢に関係なく、素敵な出会いがあればと思っております

 退団後20年間、途切れずステージに立ち続けてきた。役者としての実力はもちろん、共演者、スタッフからの信頼も厚く、湖月をよく知る人々は何をおいてもその人柄を讃える。

「同期として、もう誇らしいですね。ここまでやってきたのは並大抵じゃないし、すごいと思う。彼女自身の努力はもちろん、人柄もあったと思う。明るくて本当にいい人。音楽学校時代からそれはまったく変わらないですね」(前出・大夏さん)

カメラを向けられると、完璧なポージングを決める湖月わたる。“男役の申し子”ともいわれた魅力は健在だ 撮影/佐藤靖彦

 後輩の柚希は、昨年『マイ フレンド ジキル』で湖月と退団後初共演を叶えている。そのときの印象を、

いまだにわたるさんとお会いするたび感動するんです。人への気配りがすごい。共演者にスタッフさんまで、みんなでひとつの作品をつくっているんだという思い。そして、作品を通してお客様に愛を伝えようとする姿。それに私はいつも感動していたんだなって、改めて思いました」

 と、口にする。退団20周年を迎えた今年、11月に記念公演『TUMBLEWEED』を古巣の宝塚バウホールほか、東京、名古屋で上演。柚希ら元宝塚スターをゲストに迎え、湖月は振り付けにも挑戦する。この秋には振り付け修業のため、ロンドンへ渡航予定だ。恩師の尚先生は彼女のよき理解者で、本公演を楽しみに待つ1人。

宝塚音楽学校112年の歴史で生徒は約5000人いるけれど、その中でも彼女は生粋の宝塚っ子。ダンスが好きで、宝塚が好き。いろいろなことに挑戦しながら20年という月日を経て、そこで得たものを同じ宝塚の舞台で見せる。それは懐かしい思い出以上に難しいこともいっぱいあると思う。その覚悟はうれしいをはるかに超える、大変なことだと思います。信念をつらぬく子で、そこは昔から変わらないし、これからもずっと変わらないでしょうね」(尚先生)

 宝塚を去り、男役に別れを告げても、宝塚との縁は続く。『愛と青春の宝塚』をはじめとしたOG公演への出演に、『エリザベート』のガラ・コンサートまで、宝塚OGを代表する1人として、宝塚と関わる機会は今なお多い。

宝塚を辞めたとき、一瞬身体がふわって軽くなったんですよね。重たいリュックを下ろした感覚でした。あのときは、宝塚との永遠のお別れだと思っていました。でも女優も経験し、年齢も重ねたからこそ、あのときできなかったこともできるかもしれない。歌舞伎の世界が一生かけて芸を磨いていくように、男役という芸も人生をかけて練っていく。これはまた新たな道で、それは思ってもいなかったことでした。

 まだまだ夢のようなステージに立たせてもらっていて、こんなにも夢を与えてくれる。改めて宝塚に感謝だなって思います。夢がずっと続いてるみたい。今、舞台に向かっている瞬間がとても愛おしくて。20周年の節目を通った後には、どんな自分に出会えるか、また楽しみでもありますね」

おのでら・えつこ ライター、編集者。編集プロダクション勤務を経て、フリーランスライターに。著書に『笠井叡 舞踏をはじめて』『93歳のバレリーナ 雑賀淑子』(操觚社)。ノンジャンルでインタビュー&執筆。オールアバウト バレエ ガイド、ダンス専門サイトdanceditionを運営。

取材・文/小野寺悦子 撮影/佐藤靖彦