日本人のパラグアイ移住70周年に当たる'06年、秋篠宮さまは初めて、同国を公式訪問した。そして、移住80周年の'16年には、長女の小室眞子さんが同国を公式訪問している。実は秋篠宮さまがパラグアイを初めて公式訪問した同じ年の'06年9月6日に、悠仁さまが生まれている。そのため、紀子さまは同行できなかった。
佳子にとって母親と一緒にいられる時間がうれしかったみたいです
皇室に男子が生まれるのは、秋篠宮さまの誕生以来、実に41年ぶりのことであり、多くの国民が歓喜したことを私はよく覚えている。その悠仁さまは、筑波大学2年生の成年皇族となり、今年9月6日で20歳となる。「光陰矢の如し」というが、月日の流れは早いものである。
「娘たちも、ちょうど私が病院に入院していたときは学校が夏休みだったこともあり、宮さまと一緒に、あるいはそれぞれ都合のよい折に、よく見舞いに来てくれました。
(略)佳子は、ほぼ毎日こちらを訪ね、私の傍らで学校の夏休みの宿題をしたり、留守にしていた家で私がいなかったときの家の様子や、スケートの練習について楽しそうに話してくれました」
`06年11月、秋篠宮さまが41歳の誕生日を迎える前に行われた記者会見で、紀子さまは入院中、佳子さまが「ほぼ毎日」病院を訪れていたときの様子を披露している。佳子さまは当時、学習院初等科6年生だった。
また、秋篠宮さまも次のように述べている。
「(略)次女の佳子にとっては、母親と長く一緒にいられる時間がとてもうれしかったみたいですね。ですから、足しげく通って、病院で宿題をしていたんでしょうね」
さらに、秋篠宮さまは初めて訪れたパラグアイでの思い出についても、このように生き生きと語っている。
「日系人の人たちと話をする機会がありました。(略)パラグアイに入植して土地を開墾することは、私などが想像していたよりも、はるかに大変だったということがよくわかりました。今はもう普通に人が住むような場所になっているところも、入ったころは原生林で大木があるわけですね。その大木を切り倒して、そこを焼き畑というか、火をつけて焼いて耕作地にするわけですけれども、それを切り倒した時にその木の下に入ってしまって、身体が不自由になった人もありました」
「(略)そのようなことは、やはり実際にそれに携わった人に会って話を聞かなければわからないことでありますし、私にとりましては、大変貴重な機会だったと思います」
皇室典範改正で、愛子さまや佳子さまたち内親王の今後は…
7月23日は、1961年に35歳の若さで亡くなった東久邇(ひがしくに)成子(しげこ)さんの65回目の命日だった。成子さんは、昭和天皇と香淳皇后ご夫妻の長女として生まれている。上皇さまの姉で、秋篠宮さまの伯母にあたる。称号は照宮(てるのみや)で、戦前、東久邇宮盛厚(もりひろ)王と結婚し、戦後の混乱期をたくましく生き抜き、3男2女を育て上げた。
愛子さまや佳子さまのように、成子さんは国民からの人気がとても高かった。
《三度の食事も配給もので、大体まかなうのだけれど、パンや粉ばかりの時があったり。お芋が何日もつづいたり、時にはトウモロコシ粉やコウリャンだったりすると、どんな風にしたらよいか、なかなか、頭を悩まされる。大人はまだしも、育ちざかりの子供たちのために、栄養がかたよらないように、そして、おいしく頂けるようにいろいろ工夫しなければならないのだが、そんなわけで、いつの間にか、お粉の料理は私の自慢料理の一つになってしまった》
《私の生活もまた、さまざまなもやにさえぎられて、今もまだ幾多の困難を乗り越えなければならないが、これは私たちだけではない、日本中みんな苦しいのだから、この苦しさに耐えてゆけば、きっと道は開けると思う》
この文章は、成子さんが戦後の間もないころの生活の様子を赤裸々に記述した「やりくりの記」の一節である。'49年10月、現在の「暮しの手帖」に掲載されて大きな反響を呼んだ。
内親王として生まれた成子さんは、戦後は一変して一般国民となり、食糧に事欠く耐乏生活を強いられることになる。まさに、時代の急激な流れに翻弄された半生だった。
今回の皇室典範改正で、愛子さまや佳子さまたち内親王もまた、時代の変化に悩まされることとなった。しかし、現代の内親王たちもまた、成子さんのように、明るくたくましく、この荒波を乗り越えていくであろう。これからの二人の生きざまから目が離せない。
