養父に対する葛藤、音楽への目覚め─。自分が楽しいと思うことを続けてきた、と語る上田。ヒット曲『悲しい色やね』に対する思いや、R&Bシンガーとして抱いてきたコンプレックスなどを節目の年に振り返る。
「音楽は聴くものやない」
1983年『悲しい色やね』が大ヒット。今や国内はもとより、世界でも活躍するR&B・ソウルシンガー、上田正樹も今年の7月7日、「七夕の日」にめでたく喜寿を迎えた。そんな上田正樹が今、波瀾万丈の半生を振り返り、熱い思いを語ってくれた。
『朝日のあたる家』の世界的な大ヒットで知られるアニマルズのライブを初めて見たのは、高校2年のときだった。
「グルーヴ(一体)感が自分に合っていた。音楽に身体ごと酔いしれる感覚をアニマルズで初めて知り、ものすごい衝撃を受けた。最前列で“イェーイ!”って叫んでいたら、ボーカルのエリック・バートンが握手してくれてね。訳もわからずうれしかったな」
ブルースのことなど何も知らなかった上田が体験した衝撃のライブ。
「ジョン・リン・フッカーが作ったトラディショナル・ブルース『Boom Boom』という曲がゴキゲンでね。その後、何度も歌わせてもらった。音楽は聴くものやない、自分がやりたいこと。絶対にシンガーになるって決めた」
このとき、上田が通っていたのは生徒の誰もが東大を目指しているような岐阜県の進学校。しかも上田の目標は東大医学部だった。ところがアニマルズと出会って、すべての価値観がひっくり返ってしまう。
「ちゃんといい学校を出て、安定する仕事に就けば人生は豊かに過ごしていける。だけど世の中で“いい”と思い込まされていたものが本当にいいとは限らない」
アニマルズのライブを見て以来、音楽にのめり込んでいった上田。19歳のとき、ついに家出。大阪の西成に住み着く生き方を選ぶ。そうするには彼なりの切実な理由があった。
上田が生まれたのは京都・東山。呉服店を営む父方の祖父のもとで小学校に上がるまで過ごした。
京都大学医学部を卒業した父は医師になったものの結核に罹り、兵庫県の国立結核療養所に入院。そんなとき、母は父の学生時代の同級生の医師と駆け落ちしてしまう。しかも父が亡くなると、その男が上田の養父となった。
所持金はわずか10円
「養父とはソリがまったく合わず、岐阜の名門高校に越境入学して、東大の医学部を目指したわけです。僕にとって超えるべきは実の父ではなく、納得できない養父だった」
ところが音楽にのめり込みすぎ進学校にいられなくなった上田は、バイトしながら別の高校を卒業する。兄の財布から3万円拝借して、ギターを抱え、大阪・天王寺の公園で寝泊まりしながら、ディスコやクラブに出入りした。
「シンガーなんですけど、僕を使ってください」
3か月後、願いが叶った。エディ・フロイドの『Knock on Wood』を歌って、明日から来てくれと言われた。
「所持金は底をつき、わずか10円。この日がギリギリのタイミング。もし決まらなかったら、音を上げて実家に帰っていたかもしれないし、裏街道を突っ走っていたかもしれない」
やがて数々のミュージシャンとセッションやライブを重ね'74年、伝説のスーパーバンド「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」を結成。
'74年8月に国内で活躍する有名アーティストに加え、オノ・ヨーコ、クリス・クリストファーソンやリタ・クーリッジ夫妻も参加する巨大ロックフェス「ワンステップ・フェスティバル」に出演して熱狂的な歓声を浴びた。
上田は「サウス・トゥ・サウス」時代をこう振り返る。
「京大の講堂のライブ演奏中、音楽を聴いて興奮したのか、角棒で観客が殴り合うなんてしょっ中さ。ステージに上がってこないように木槌持って座ってるライブスタッフもいたな(笑)」
当時のバンドブームの頂点に立った「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」。だがその熱狂は2年しか続かなかった。'76年、ライブアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』を残して解散する。
「音楽って何年やっていても壊す勇気とエネルギーが必要なんです。自分の気持ちを押し殺してまでやるのは嫌だったな」
今も上田正樹の代表曲として多くのファンに愛されている『悲しい色やね』。'82月10月にリリースされ有線放送からジワジワと火がつき翌年の夏、オリコンチャート上位にランクイン。今も歌い継がれる大ヒット曲となった。
ブルースの血は流れてはいない
「この曲は、林哲司さんの曲先で作られた。出だしの歌詞、最初は“尼崎の街の灯”だったんだけど、大阪南港から尼崎は見えへん。そこで作詞家の康珍化さんが“にじむ街の灯”に直してくれたんだ」
メロディーとサウンドはこの上なくオシャレ、なのに関西弁のハスキーボイスで泥くさく歌う。これこそ大阪人の魂(ソウル)を表現する、新しい時代の「AOR(Adult Oriented Rock)」ではなかったか。
そこには大阪・西成に住んでいた上田自身の思いも込められて、しかも歌詞は女性目線。なぜ女性目線のストーリーになったのか。
「女性目線から描く歌詞はモータウンをはじめ、R&Bではよくあること。でも歌謡曲では珍しかったんじゃないかな。この曲を当時コンサートの中盤でやると大阪のおばちゃんらは“もう聴いたから”と言って帰っちゃう。だから必ず最後にやるようにしてた(笑)」
この曲の大ヒットによって、上田は歌謡界にとどまる選択肢もあった。
「そのほうが他人から見たら正解だったのかもしれない。でも正しいよりも自分が楽しいと思えることを選んだ。そのためのエネルギーならいくらでも使える」
再びR&Bのフィールドに戻ってきた上田は数多くの著名なブルースやレゲエアーティストと共演。海外のフェスからも声がかかるようになった。
'99年には韓国で著名なプロデューサーとして知られるキム・ヒョンソクから熱いオファーを受けてアルバムデビュー。
その中の楽曲『Hands of Time』は視聴率30%超えの人気ドラマ『ゴースト』の主題歌に起用され、アルバムは20万枚を超えるヒットを記録。
さらに'01年にはインドネシアの歌姫、REZAともデュエット。楽曲『Forev
er Peace』がインドネシア語、日本語、英語の3か国語で歌われ、インドネシアでは17週連続1位を獲得。日本はおろかアジアでも確固たる地位を築いていく。
だが上田にはR&B・ソウルシンガーとして克服することのできないコンプレックスがあった。それは、
「自分は東洋人であり、そこにブルースの血は流れてはいない」
それでも好きで、やめられずに続けてきた。そんな彼の目を覚まさせてくれたのがブルース界の王様B・B・キングだ。アメリカの音楽祭で歌う上田の姿を見て、
「すごいオリエンタル!! おまえのは新しいブルースだな」
喜寿を迎えた今も、この言葉を胸に上田正樹は歌い続けている。
取材・文/島 右近

