「自分で自分のことをプロデュースするのは苦手なんですよ。あんまり信じてもらえへんけどね」
どこかおどけた口調で、酒井一圭はそう自らを分析する。
「自分がやりたいことよりも、求められているものをつくり上げていくことのほうが大事じゃないのって。それをクリアし続けていくことに、モチベーションを感じるというか」(酒井、以下同)
「ゴールを決めるより、アシストに喜びを覚える」
'07年に結成された男性歌謡コーラスグループ「純烈」は、デビュー当初こそ鳴かず飛ばずの存在だったが、小さな会場やキャバレーを回る、いわゆる“ドサ回り”をする中で、健康センターに光を見いだし、いつしか『スーパー銭湯アイドル』と呼ばれるようになった。
年配層からの熱狂的な支持を集めた彼らは、'18年には悲願だった『紅白歌合戦』出場の夢を叶えた。酒井は、リーダーとして純烈の舵取りに奔走してきたが、あくまでそれは「求められたものを形にした結果」だと語る。
「やっぱり、あてにされなかった時代が長かったからね」
ポツリとこぼしたその言葉は、順風満帆ではなかったことを十分にうかがわせる響きを帯びていた。
「僕はゴールを決めるより、アシストに喜びを覚えるんです。もっと言えば、“攻撃の起点”になるのが大好き(笑)。『こんなんおもろいんちゃう?』『酒井君、こんなんどう?』と提案されて、それを前へ進めていくことにやりがいを感じるんです」
頼まれごとは試されごと。その繰り返しが、今の酒井一圭をつくり出したと笑う。
「子どものころは4番でピッチャーをやりたがるタイプだったのに」
変わらざるを得なかったーー。だが、そこに悲愴感はまったくない。自分が主役になるより、人を輝かせることに喜びを見いだす人へ。その原点をひもとくと、1人の少年時代へとたどり着く。
人生で逆転劇を何度も繰り返す
酒井は、3人きょうだいの長男として、大阪府吹田市に生まれる。父の転勤で東京都多摩市に引っ越すと、8歳のとき自らの希望で児童劇団に入った。
「小さいころから歌や劇が大好きでした。当時、子どもを中心に大人気だったドラマ『あばれはっちゃく』シリーズ(テレビ朝日系)に魅せられると、『俺もこうなりたい!』と思ってオーディションを受けました。芸能界に入りたいというよりも、あばれはっちゃくになりたかった」
だが、主演オーディションの結果は不合格。どうしても諦めきれなかった酒井は、再度、友人役としてオーディションを受ける。これが思わぬ転機を呼ぶ。
控室にいると、ほかの子役がケンカを始め、その勢いで投げた使い捨てカイロが酒井に当たり、顔中が鉄粉まみれになった。騒ぎを聞きつけたスタッフは、鉄粉まみれの酒井を見るなり、「そのまま来て」とオーディション会場へ連れて行った。
「これだ! こんな暴れん坊が欲しかった!」
プロデューサーたちは色めき立った。
「シリーズ最終作となる『逆転あばれはっちゃく』の5代目・桜間長太郎として主演デビューが決まりました。絵に描いたような逆転(笑)。でも、この逆転劇があったから、今に至るまで『ひっくり返せる』って信じられるんです」
人気ドラマの主演をつかんだのだから、これ以上ない“4番でピッチャー”の実現だろう。ところが、あくまであばれはっちゃくになりたかった酒井は、ドラマが終わると燃え尽きてしまう。その後のオファーも断り、普通の学生に戻ることを決断する。自ら、4番でピッチャーの座を手放した。
では、どうして表現の世界に戻ろうと思ったのか?
「高校3年生のとき文化祭で、『ザ・ブルーハーツ』のコピーバンドのボーカルとして、満員の音楽室で歌うと、会場が一斉に盛り上がった。その光景を見て、自分がパフォーマンスをして、誰かが喜ぶ姿が好きなんやと再認識したんです」
高校を卒業すると、Vシネマの準主役として芸能活動を再開するが、しばらくして、酒井はあることを悟ってしまう。
「ちょうど木村拓哉さんやいしだ壱成さん、武田真治さんら、スマートな若手俳優が台頭していた時期でした。僕みたいなコテコテの人間が出る幕はないなと(笑)。向こう20年は求められてへんとわかった。一度、芸能界という山を下りていたからこそ、下からの眺めができたというか、自分は時代から求められてへんとわかったんですよね」
軽快な関西弁もあってか、「20年は売れへん」という身も蓋もない言葉なのに、不思議と重く聞こえない。学生時代、酒井はクラスメイトの女性から「明るくて暗い」と評されたことがあるという。楽観的なのに醒めている。この特有の視点が、舵取りを行う際の才覚となり、プレイヤー・酒井一圭の色気となっているのは気のせいか。
「それでいったん自分が好きなことをしようと思って、子どものころから好きだった戦隊シリーズのオーディションを受け続けることにしました」
結果は、いつも最終審査で不合格。並行して、趣味の競馬にのめり込み、借金は400万円までふくれ上がっていた。「もう後がない」。背水の陣で臨んだ『百獣戦隊ガオレンジャー』(テレビ朝日系)に一縷の望みを託すと、見事、ガオブラック役を射止めることができた。
「あとでわかったのですが、『ガオレンジャー』の他のメンバーも借金の返済に追われていたらしい。僕らは“借金戦隊”やった(笑)。どんな戦隊やねん」
酒井の言葉は、どんな状況でもジメジメしない。洗濯物がすぐに乾きそうなくらいカラッとしている。
夢枕に立った「前川清」が純烈の起点
25歳で『百獣戦隊ガオレンジャー』に出演したその3年後、酒井は結婚する。
「一般的には、お金を貯めてから結婚しようと考えるかもしれないけど、そんなことはルールで決められてないんやから、先に結婚して、子どもをつくって、家庭を築こうと。僕が売れるのはだいぶ先。『お金は後から入ってくるから大丈夫や』って」
自らの親にも、「親孝行はできないけどごめんなさい」と開き直っていたという。
「最終的に勝てばええやんって思ってました。僕、ガオブラックを1年間演じていたでしょ。ブラックのドラマ内の口癖が、『ネバーギブアップ』。不思議と自分の一部になってくるんです。諦めなければ逆転できるという自信があった。親にも妻にも迷惑をかけたからこそ、絶対にそれはやらなあかんと」
そんな酒井に、思いもよらぬ試練が訪れる。31歳のとき、映画の撮影中に右足首を複雑骨折。医師から「以前のように歩ける保証はできない」と告げられた。
「これまでのように役者を続けられるかわからない。妻と2人の子どもをどうやって養っていけばいいのか、さすがに不安になりました。ただ、このまま役者を続けていてもあかんかもと思っていた矢先のケガだったので、結果的に入院中は自分を見つめ直す時間になった」
ベッドで横たわる酒井は、本人ですら説明のつかない体験をする。
「夢枕に前川清さんが立ったんです。当時はまったく面識もない。なのに、3日連続で夢の中に現れた」
何かのお告げだと受け止めた酒井は、目が覚めると改めて前川のことを考えた。
「そういえば、前川さんって直立不動で歌っているよなと。これやったら、足をケガした自分でもできるやん。でも、僕は歌はそんなに得意じゃない……ん? 前川さんって『内山田洋とクール・ファイブ』のボーカルで、コーラスがいたな」
答えは、不意に舞い降りた。
「そうだ。自分がコーラスとなる男性歌謡グループに挑戦しよう」
腹を決めた酒井の行動力は、変身したヒーローさながらだ。同じく戦隊シリーズ(『忍風戦隊ハリケンジャー』)に出演したものの思うような仕事が得られずくすぶっていた白川裕二郎を呼び出し、ひたすらファミレスで口説き続けた。
「白川は、イケメンで歌もうまいから彼をメインボーカルにすれば道が開けると思った。『紅白に出て親孝行しようぜ』と熱弁したんです」
白川が首を縦に振ると、続けて『仮面ライダー龍騎』に出演していた小田井涼平、『仮面ライダーアギト』に出演していた友井雄亮が合流。
「白川は釣り好きが高じて日焼けで真っ黒だったので、中和させるために色白のイケメンが必要だと思った。そこで、事務所の社長に色白のイケメン、そしてとにかく運のいい人間は知りませんかと聞いたら、『車にはねられても死ななかったイケメンがいる』と。そいつを連れてきてくれるよう頼んで現れたのが、後上翔太です(笑)」
そして、音楽的素養のある人物として、'98年から'00年までヴィジュアル系ロックバンド「BLue―B」のボーカル「TATSUYA」として活動していた林田達也を加え、'07年に男性歌謡コーラスグループ「純烈」は誕生する。合言葉は、「夢は紅白親孝行」である。
当時を林田が振り返る。
「なかなか個性が強い大人5人をまとめなければいけないので、リーダーである酒井さんは大変だったと思います。お仕事もまったくない状態でしたから、紅白なんて先のまた先のステージで何のことやらです(笑)。目先のお仕事を全力でやるだけでした」
グループはボイスレッスンなど3年の下積みを経て、'10年に『涙の銀座線』でメジャーデビューにこぎつけた。
しかし、CDは売れず、その2年後には当時の所属レコード会社から契約を打ち切られた。主な仕事は、都内のキャバレー3か所で月に1回ずつ歌うだけ。
「当時、純烈としての僕の年収は2万5000円やった。ほかの仕事をかけ持ちしながら続けていた。今でこそ、僕は“頑張った人”みたいに言われますけど、家族やメンバーには苦労させた。でも、この下積みがなければ純烈は売れないとも思っていた。我慢してもらうしかなかった」
そう酒井は打ち明ける。紅白など夢のまた夢。だが、林田は事もなげに言う。
「辞めたいと思ったことはありません。純烈が掲げている『夢は紅白親孝行』を叶えるために、僕としては何でもいいので爪痕を残さないとって思ってました」(林田)
'18年に叶えた紅白出場
この“まっすぐさ”が、次第に伝わっていく。偶然キャバレーに来ていたテリー伊藤が、「この時代にムード歌謡をやるなんて面白い」と自身のラジオで取り上げるや、健康センターのステージに呼ばれるようになった。
「人口分布を見れば、年配層がいちばん大きなボリュームゾーンなんです。でも、その人たちに向けたエンターテインメントが少ないと感じていた。だから、僕は男性歌謡コーラスグループ=求められている娯楽だと思ったわけです。実際、健康センターで歌うようになって、それを目の当たりにした。おまけに、好きなだけ風呂にも入れて、ごはんもいただける。言うことないやんって。メンバーを集めて、『健康センターが俺らの命運を握っているぞ。絶対に取りにいく』と発破をかけた」
当時、健康センターのステージといえば、大衆演劇が定番。照明や音響設備は本格的で、何より客の目は肥えている。“ドサ回り”と聞くと、都落ちのような印象を抱く人もいるかもしれない。だが、そこでしか鍛えることのできない表現者としての筋力が確かにあった。平均身長が180センチを超える純烈は、ステージ映えも抜群だった。
「お客さんとの距離も近いから、まったく手は抜けない。そして、見に来ているおばちゃんやおっちゃんが求めていることをしないといけない。幸い、僕らの多くが特撮出身だったので、『後楽園で僕と握手!』の経験がある。そのおばちゃんバージョンをし続けました」
熱を帯びた口調で、さらにこう続ける。
「僕らは、そこで働く人やお客さんと同じ仲間。一緒に風呂に入っていたし、一緒にごはんも食べた。『こんなん聴きたいわ』とリクエストされたら、白川に『あのおばあちゃんが聴きたい言うてたから歌えるか?』と相談する。ステージ上だけが僕らの居場所やないぞと。たまたま、ステージ上で歌を披露している。そういう感覚なんです」
「売れる方法」を探したのではなく、「誰かが喜ぶ場所」を探し続けたからこそ、純烈は支持され、「スーパー銭湯アイドル」と呼ばれるようになっていく。中には、整理券を得るために、前日から泊まり込んで彼らのステージを待つ純烈ファン「純子」「烈男」も現れた。大広間にぎゅうぎゅうに集まったファンの熱気で、窓ガラスが白く曇る。はたから見れば何げない郊外の健康センターだが、外からは想像もできないほどの熱狂が、そこにはあった。
その最中の'16年、林田が家族のサポートを理由に年内卒業を発表する。
「離れはするけど『売れてほしい』。その一心でした」(林田)
現在は、自身のジュエリーブランド「オシェル」を立ち上げ、デザイナーとして活動する。'24年に行われた日本武道館公演では、林田はスペシャルゲストとして久々にファンの前で歌を披露した。
「僕のことを知らないファンの方も受け入れてくれてうれしかったです。リーダーは、9年間も一緒にいたので、良き理解者だと思ってます。健康に気をつけて、まだまだ芸能界を楽しんでほしいです」(林田)
メンバーの卒業。そして、父親の急逝も大きかったと酒井は振り返る。
「紅白に間に合わなかったというやりきれなさ。自分に腹が立ちました。それまでは、きれいごとを言うこともあったんです。例えば、今いるスタッフ全員で紅白に行こう、とかね。親父が死んで、自分でも知らない隠しギアが出てきた。それをオンにして、もっとシビアに紅白をつかみにいかなあかんと吹っ切れた」
年間450ステージをこなした。9枚目のシングル『プロポーズ』は、オリコン演歌・歌謡曲ウィークリーチャート1位を獲得した。その果てに、ついに'18年に紅白出場を叶えた。
「メンバー全員、号泣ですよ」
昨日のことのように酒井は笑う。
「ここまで来れたのは、ファンのおかげ。僕らは連れてきてもらったにすぎない」
事実、紅白のステージを終えた純烈が向かった先は、華やかな打ち上げの場ではなく、草加(埼玉県)・厚木・相模(共に神奈川県)の健康センター。待ち構えるファンの前で、深夜の凱旋ライブを届けた。「ただいま」と言える場所がある。それは、酒井にとって何よりの原動力なのかもしれない。
念願の紅白出場後も続いた紆余曲折
ブレイクを果たした純烈だったが、安堵する暇はない。紅白出場からわずか11日後、メンバーの友井雄亮のスキャンダルが『週刊文春』で報じられ、友井は脱退、芸能界を引退する事態となる。さらに'22年には小田井涼平が卒業し、新メンバーとして'23年から岩永洋昭が加入。悲願を叶えた後も、純烈は変化を繰り返し、そのたびに酒井はリーダーとして舵を取り続けた。
「純烈はメンバーが1人減るたびに売れる。包み隠さず、誠意をもって会見で話す酒井の姿は立派だった。ファンも、こういうときこそ!と応援していたよね」
そう証言するのは、酒井と公私にわたって親交を持つ山田邦子だ。
「純烈と初めて会ったのは、15年以上前かな? 私が司会を務めるNHKラジオ『日曜バラエティー』の公開生放送。狭いスタジオで6本のスタンドマイクで歌って踊って、全員高身長だから“かさばる”グループだなって(笑)」(山田)
メンバーが1人、また1人と入れ替わるたびに、酒井は誠意をもってファンに説明してきた。酒井が振り返る。
「届けたい人は誰なんだということですよね。友井のときは、今まで純烈を応援してきたファンに対しての裏切り行為でもあった。純烈ファンは50代以上の男女です。そういう人たちに届く誠意と謝意を示さないといけなかった」
謝罪会見で酒井は、「俺の中で友井は死にました」と声を震わせた。
「脱退、芸能界引退という決断に対して厳しすぎるのでは?という声もありました。でも、僕らのファンの世代の方って、自分の子どもが何かをやらかしたときに、親はどういう態度を取るべきかということをわかっている。愛想を尽かさずに、それでも僕らを応援してもらうためには何をすべきか。友井も納得の上でした」
純烈マダムたちによって支えられているからこそ、酒井は“ファンが求めている”ことに支点を置き続ける。
「新しくファンになった方によく言うのは、『今あなたがファンになってくれているのは、この人たちが応援してくれていたからだよ』って。昔から応援しているファンがいるから、僕らは日の目を見ることができ、あなたにも出会えた。だから、リスペクトの気持ちを持ってほしいと。みんなが心地よい空間にしたいんです」
その姿は、先日、大宮ソニックシティで行われたコンサートにも表れていた。2階席のいちばん後方にいた女性が、激しくペンライトを振っている姿を酒井は覚えていた。翌日もその女性はコンサートを訪れたのだが、肩と腕には三角巾が巻かれていたという。
「(ハイタッチ会のときに)聞くと、振りすぎて脱臼したと。何をしてんねん(笑)。でも、羽を広げて楽しんでくれていると思ったら、めっちゃうれしかった。メンバー全員で三角巾にサインして、ステージ上でもネタにさせていただきました。ホントにかわいいおばちゃんたちです」
大切なのは「人の心」
新旧のファンが共に心地よく楽しめるように。時には、マナーを守れないファンに「あなたは出禁」と言い渡すこともあったという。
「純烈はファンのみんなのものやから。レコ大でトロフィーをもらったときも、健康センターの大広間で『みんなで回して』って。受け取ったのは僕らやけど、みんなで取ったものなんです」
そのイズムは今、純烈の弟分グループとして活動する4人組「モナキ」にも受け継がれ、酒井は自らステージに立つ一方で、そのプロデューサーも務めている。今年4月にリリースした『ほんまやで☆なんでやねん☆しらんけど』は、TikTokで話題となるや、SNSでの再生回数は17億回を超えた。新人としては、異例ともいえる快進撃を見せている。この背景に酒井の手腕があることは想像に難くない。
「純烈の弟分をつくろうと自分から考えたのではなく、純烈が忙しくなったことで、今まで訪れていた健康センターなどに行けなくなった。その縁を大切にしたいということで、『セカンドチャンスオーディション』を開催し、弟分グループをつくろうと。いわば、頼まれごとなんです」
酒井は、モナキを純烈の足跡を単になぞるだけのグループにするつもりはないと断言する。
「同じことをしたら、どうしても純烈と比較されてしまう。彼らは彼らで輝ける場所がある」
モナキの躍進は、TikTokをはじめとしたデジタル的なアプローチと、純烈が行ってきた“ドサ回り”をかけ合わせた相乗効果によるものだと見る向きもある。だが、「大事なことが見落とされている」と酒井は言う。
「キャンペーンを組む会場へ行くと、地方の放送局や媒体に出演することも多い。僕らはこれを“挨拶回り”だと思っています。ただ回って出演するのではなく、関係値を高めることが大切なんです。僕らが売れ始めたころ、いろいろな人から『あのときは何もなかったのにねぇ』なんて喜んでもらえた。無名のときから挨拶回りをしっかりやれば、売れていくステップに応じて、皆さんがいろいろ気にかけてくれる」
裏を返せば、何者でもないときに会うからこそ意味があると酒井は続ける。
「今の時代って、すぐに成果や数字に結びつけたがる。だからうまくいかない人が多い。大切なのは基本の挨拶回り。もっと言えば、人の心ですよ。それをモナキの4人には、伝え続けています」
前出の山田邦子は言う。
「酒井は、収入がカツカツのときも子だくさんのお父さんとして頑張っていた。子育てが一段落し、今度はモナキを育て始めた。酒井は育て好きだと思う(笑)」
人を育てることもまた、酒井にとって「求められたこと」に応える営みなのだ。
未完のままでいい。ゴールはない
「人生において、完成形を見いだして死にたいと思ってる人が多いと思うんですけど、僕は未完のまま死んで全然オッケーなんです」
白川裕二郎が、'27年3月31日をもって純烈を卒業することが発表された。新メンバーを募集するオーディションも控える中、純烈の未来について尋ねると、酒井はそう答えた。
「白川は昨年お母さんを亡くした。彼の純烈を続ける理由がお母さんであったことは、僕たちも知っていた。彼の夢の実現とお母さんの寿命が、常に“対”になっていたから、白川の卒業は来るべき時が来たと。だから、悲観していないし、これからどんな純烈になっていくのか楽しみでもある」
純烈にゴールは設けていないという。ファンがいる限り、純烈も走り続けると笑う。
「CDデビューして16年ですから、ファンの中には亡くなっている方も少なくない。その方たちのラストメッセージが、『やめるな、リーダー。上に行っても見てるからね』なんです。僕ね、冗談抜きで天国チームのおかげちゃうかなと思っているんです。こんなに早くにモナキがブレイクしたのも、上へ旅立った皆さんの力があったからやないかなって」
その人たちの顔を、酒井は今でもすぐに思い浮かべられるという。それほどまでに、大広間で過ごした時間は濃かった。
「僕が今、目指している純烈は、白川が卒業したら、もっと細かいところまで行くこと。光の当たる場所は後輩たちに任せて、老人ホームも含め、生きているおじいちゃん、おばあちゃんたちに『私たち、純烈を生で見たことあるよ』って言ってもらえるような場所へ行きたい。求め続けられる限り、勝ち逃げなんてしません(笑)」
酒井を動かしているのは、いつも人の心だ。たびたび純烈は“昭和的”と言われるが、酒井は、時代が失ったもの、軽んじられつつあるものに光を当て、「これってやっぱりええやん」と新たな価値として差し出してきた。求められる場所へ向かい、そこにいる誰かを喜ばせたい。その繰り返しが、これから先の酒井一圭を、またつくっていく。
取材・文/我妻弘崇 撮影/伊藤和幸
