1987年7月9日木曜日。歌手の加藤登紀子は自宅で人気テレビ番組『ザ・ベストテン』(TBS系)を見ていた。
中森明菜のコメントに加藤登紀子がアイデア
中森明菜の『Blonde』が3週連続1位に輝いた。「4日後の7月13日は中森明菜さんのお誕生日です」とTBSアナウンサー・松下賢次が言うと、司会者の黒柳徹子は「22歳になるそうですけど、どんな年になるんでしょう?」と明菜に尋ねた。
すると「歌にはあまりいい詩がないようですけど、頑張ってみなさんに“素敵な人だな”って言われるようになりたいと思います」と彼女は言葉を選びながら述べた。
このとき明菜が口にした「歌にはいい詩がない」とは往年のヒット曲『22才の別れ』を指しているのは察しがついたが、このやりとりを聞きながら加藤登紀子の脳裏に一つのアイデアが浮かんだ。
1984年12月1日にリリースした自身のオリジナルアルバム『最後のダンスパーティ』の2曲目に収録した曲のことである。20歳のときの失恋をヒントに作った曲だったが、彼女はこの曲について次のように考えていた。
《20歳の恋が終わった時に味わった絶望感、痛さ、惨めさ。それがこの歌だったけれど、私は44歳になっていた。もう恋に傷ついてボロボロになるなんて似合わないのかも。そう思うと、この歌をうたうべきなのは私じゃない、という声が聞こえてきた》(『DIAMOND online』2026年5月20日配信)
そこで加藤は「この“20歳の失恋ソング”を中森明菜に歌わせよう」と思いつく。歌番組で共演する機会は時折あれど、面識と呼べるほどの関係はなかったが《1つの歌を映画のように深く描き切る力に脱帽だった》(同・前)と言うように、早くから実力と才能を認めていたからだ。
加藤の動きは早く『ザ・ベストテン』から6日後の7月15日『夜のヒットスタジオDELUXE』(フジテレビ系)に中森明菜が出演することを知ると、フジテレビに出向いて本人に接触を試みた。本番前の暗いスタジオでたたずんでいる明菜を見つけると、黙ってカセットテープを手渡し、こう告げたのである。
「これ、アルバムの曲なんだけど、あなたに歌ってほしいのよ。もし歌ってくれるなら、しばらく、私はこの曲を歌うのをやめるわ」
中森明菜の19枚目のシングル『難破船』
3週間後の8月2日、日比谷野外音楽堂でコンサートを開いた加藤登紀子のもとに、中森明菜の名前で花が届いた。程なく明菜の所属するワーナーパイオニアの担当者から「例の曲ですがレコーディングに入りました」と報告があった。「どうやら気に入ってくれたらしい」と加藤は満足しつつ、展開の早さに舌を巻いた。
1987年9月30日、中森明菜は19枚目のシングルをリリースする。この曲こそ彼女の代表曲の一つとなる『難破船』(作詞/作曲・加藤登紀子)である。なぜ、明菜はこの“20歳の失恋ソング”を歌うことを即決したのだろう。
1965年、東京都大田区生まれ。母親の影響もあり、少女時代から歌手になる夢を抱いていた中森明菜は、16歳のとき『スター誕生!』(日本テレビ系)で合格。'82年『スローモーション』で歌手デビュー。以降『少女A』『禁区』『北ウイング』とヒット曲を飛ばし、'85年には『ミ・アモーレ』、'86年には『DESIREー情熱ー』と2年連続で日本レコード大賞を受賞。名実共に歌謡界の女王に君臨する。
私生活では近藤真彦との交際が発覚。スタートは'83年の夏ごろで、以降、近藤が出場するレースを平然と観戦したり、六本木を一緒に歩いたりとオープンな交際を繰り広げた。
当然、近藤のファンの憎悪を買うことになる。渋谷公会堂で公開生放送だった『ザ・トップテン』(日本テレビ系)の本番終了後、駐車場で親衛隊に襲われ、同じく『トップテン』で歌っている最中「帰れ」コールを浴びたこともあった。完全な放送事故で、双方が所属するジャニーズ事務所と研音の関係も決して良好とは言えなかった。
明菜が22歳の誕生日を迎えた'87年7月は、交際から4年がたち、倦怠期を迎えていた時期と重なる。『難破船』のリリースから1か月後の『週刊明星』(1987年11月5日号)は、深夜の六本木で「あんたなんか大嫌い」と叫んだ明菜が、近藤の前から去ったと報じている。加藤登紀子が2人の関係をよく知る立場にあったか判然としないが、『ザ・ベストテン』の画面から恋に疲れた様子を感じ取ったとすれば、その慧眼に脱帽するほかない。
『難破船』は多くのファンを魅了
事実、中森明菜の歌う『難破船』は多くのファンを魅了したが、問題は《1つの歌を映画のように深く描き切る》だけに、歌えば歌うほど明菜自身の心象風景までが映し出され「マッチとの恋はうまくいっていない」と大衆に周知させたことだろう。
その典型とも言えるのが、'88年1月6日放送『夜のヒットスタジオDELUXE』である。この日は加藤もゲストに名を列ねており“生みの親”の前で初めて『難破船』を披露することになった。
白無垢をイメージした意味深なドレス姿で現れた明菜は「ほかの誰かを愛したのなら 追いかけては行けない」というBメロを歌い始めた直後、絶妙なタイミングで左目から涙を零した。スタジオの後方で神妙そうに明菜を見つめる加藤の表情は「この曲を提供したのは本当に正解だったのか」と自問しているようにも映る。
この『夜ヒット』から1年半後の'89年7月11日、中森明菜は近藤真彦の自宅マンションで自殺を図った。「一番好きな人に、一番最初に発見してほしい」という心情は隠しようもなく、その年の大晦日の午後10時に突如挙行された「金屏風会見」で近藤との関係は終わりを告げる。「みじめな恋つづけるより 別れの苦しさえらぶわ」という『難破船』の歌詞そのままの結末を迎えたのだ。
'90年代に入るとドラマ出演などもあって新境地を開拓したかに見えたが、奇行やトラブルが目立つようにもなり、復帰と休養を繰り返した。奇しくも彼女自身が“難破船”となってしまったのである。
その中森明菜が2026年7月17日『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)に30年ぶりの生出演を果たした。そこで彼女が歌ったのが7月1日リリースの新曲『ごめんと、すきと、』と『難破船』だった。表向きの理由は「MCのタモリのリクエスト」だったが、明菜自身が選んだのは間違いないのだろう。
筆者もオンエアを視聴したが、テレビ復帰でいきなりの『難破船』は完成度が高いとは到底言えず、彼女の真意をつかみかねた。しかしである。
「難破船に乗って遠ざかった自分が、難破船に乗って舞い戻ってきた」
と言いたかったとすれば、長い空白期間は必ずしも無駄ではなかったのかもしれない。
<取材・文/細田昌志>

