「土台になるような環境を過ごしてきていないから、自分の輪郭をはっきりさせたかったんです」
自分は、いったい何者なのか。自分が覚えている過去は、本当に起きたことなのか。風間暁さん(34)は、その答えを探すように、自身の人生をたどり直した。
『自分のプロ』になりたかった
風間さんは虐待のサバイバーだ。非行を繰り返し、児童自立支援施設への入所も経験した。薬物依存症、アルコール依存症、自傷行為、自殺企図ーー。幾度も生きることそのものが危うくなる時間をくぐり抜けてきた。
現在は、その経験から、依存症の問題に取り組む認定特定非営利活動法人ASKの理事や、こども家庭庁の「国立児童自立支援施設における児童の処遇に関する専門委員会」の委員などを務めている。
9月に上梓した『「回復」という毒』(日本評論社)には、そんな半生が記されている。執筆が決まる前から、自身の医療記録を取り寄せた。集まったカルテは787枚。重ねれば厚さ約20センチにもなった。
「学校や施設で傷つけられた経験を人前で話すことがありますが、頼りになるのは自身の記憶だけ。その記憶にも自信がなく、歪められているのではないかと不安がありました。自分のことを誰よりもわかる『自分のプロ』になりたかったんです」
過去の記憶に自信が持てない背景には、強いストレスによって記憶が欠落する解離性健忘があった。さらに、周囲から与えられた情報や、繰り返し語ることによって記憶が上書きされる「記憶の汚染」も心配していた。
「カルテを読めば、本当のことがわかると思っていました」
だが、過去を確かめる作業は、傷ついた時間をもう一度生き直すことでもある。執筆には2年を要した。フラッシュバックの中で書き、温度や匂い、湿り気までよみがえった。印刷されたときには、赤ペンで紙に穴を開け、3、4本ペンを壊したという。校了する前は「もうよくない? こんなの誰が読むの?」とさえ思った。
母方の祖母にも会いに行った。虐待した母は、どんな母親に育てられたのか。その背景を知れば、自分が傷つけられた理由にたどり着けるのではないか。そんな思いもあった。祖父母は飲食店を営んで多忙を極め、母は弟の学費を稼ぐためアルバイトをかけ持ちしていたという。「子ども」でいられないまま育った母の姿が見えてきた。
「助けてもらえる」と思ったら閉められた扉
物心ついたころの風間さんの記憶には、母親からの叱責がある。「おまえなんか、産まなきゃよかった」。口をガムテープで塞がれ、手足を後ろで縛られて殴られることもあった。
母は風間さんをピアニストにしようと、ピアノを習わせた。だが譜面が読めないと叩かれた。それ以前から「教育虐待」は続いていたという。フリルのついたスカートなど、「女の子らしい」服装を求められることにも違和感があった。自分がどうありたいかより、親が望む子どもであることを求められた。
音大附属小学校の受験に失敗し、ピアノはやめることに。それを境に、虐待はさらに激しさを増した。押し入れに閉じ込められることもあった。
ある日、その扉を父親が開けた。
「大丈夫か?」
ようやく出してもらえる。風間さんはそう期待した。だが、続いたのは救いとは程遠い言葉だった。
「ママを怒らせないように立ち回ることくらいできるだろ。頑張れよ」
父親は、再び扉を閉めた。
母から暴力を受けたことだけではない。助けてくれると思った父に、助けてもらえなかった。その瞬間に味わった孤独や絶望は、風間さんの中に残った。
「意味不明ですよね。今思えば、父はあのとき、酔っ払っていたのでは。だって正気じゃないですから」
父親からは常に発泡酒の匂いが漂っていた。酔いのためか言動に一貫性がなく、風間さんにとっては「よくわからない人」だった。
そんな家庭で、唯一、自分を脅かさない存在がいた。モモコという名のウサギだ。
「モモコは唯一、自分を脅かさない存在でした。ただ、エサを待っているだけです」
だが、モモコとも別れる日が来る。父親が飲酒運転で人身事故を起こし、逮捕されたのだ。
「加害者家族」として社会からも厳しい目を向けられた。謝罪の場では、被害者家族から風間さんを指して「その子が代わりに轢かれればよかったのに」と言われた。
「親から否定された自分は、第三者からも否定されました」
その後、両親は離婚。転居先がペット不可だったため、モモコを学校に預けることになった。
家庭も変わり、安心できる存在まで失った。風間さんは、家の外へと居場所を求めていく。
家庭ではなくストリートが「初めて仲間ができた場所」
父親の逮捕、両親の離婚、引っ越し、そしてモモコとの別れ。次々と居場所を失った風間さんが向かったのは、ストリートだった。
そこにいたのは、風間さんと同じように、家庭の中に居場所を見つけられない子どもたちだった。
「親が自殺したとか、親が服役しているとか、親が薬物を使っているとか……。それぞれが過酷な家庭環境を抱えていました。『初めて自分が仲間として受け入れられた場所』でした」
タバコ、飲酒、ガス吸引、深夜の徘徊、原付の乗り回し。大人から見れば「非行」と呼ばれる行為を重ね、次第に帰宅せず、仲間の家を転々とするようになった。
「大人たちは『ルールを守れ』と言いますが、その大人自身が家庭内で暴力を振るったり、薬物を使う。なぜ、そんな大人たちから説教されなければならないのでしょうか」
中学1年生のころ、警察に補導され、児童相談所の一時保護所に入所。その後、生活指導を必要とする子どもたちのための児童自立支援施設に入った。ようやく支援を受けられる場所にたどり着いたーーはずだった。
しかし、そこも安全な場所とはならなかった。あるとき、保護されたほかの子に声をかけ、その子が泣き出したことで、風間さんは「個別指導」の対象になった。全員から見えるホールで書写か黙想をする二択。毎日、体育館を100周するマラソンも義務づけられた。
精神科を受診し、服薬が始まった。強いストレスやトラウマの中で感覚や記憶が断片化する「解離性障害」と診断された。解離状態のときの記憶がなく、覚えていない行動を周囲から指摘される。それが「ウソつき」という評価につながり、いじめの対象にもなった。
苦痛をやり過ごすため、処方薬や市販薬を飲んで眠る「寝逃げ」をした。施設内では刃物が使えないため、シャーペンや鉛筆で自傷し、眉毛を抜いた。脱走も試みた。祖母の家まで逃げても父親に通報され、施設へ連れ戻された。
戻されたあとには絶食で抵抗した。ため込んだ処方薬をオーバードーズし、台所にあった漂白剤を飲み、ドレッシングの空き瓶を割って手首を切ったこともある。
「自分にはもっとできたことがあったと思いますが、施設の中で力を奪われました。そのことに気づいたとき、脱走しました。ただ、今の自分があるのも、これまでの全部があったからです」
脱走も自傷も、外から見れば問題行動だった。だが風間さんにとっては、奪われた自分の力を取り戻そうとする行為でもあった。
やめることより、生きること
中学を卒業し、施設を出たあと、風間さんは自立するために仕事を探した。だが顔にはピアスの穴、指にはタトゥー、手首には根性焼きの痕がある。一般的な就職の道を選ぶことは簡単ではなかった。
そこで始めたのが、フリーランスの写真家だった。父親はバンドマンで、その周囲にいたバンドメンバーのライブ写真や動画を撮った。評価され、自分でカメラを買い、仕事で得た金でさらに高価な機材を手に入れた。当時増えていたクラウドソーシングでも仕事を得た。写真だけで食べられないときには、ギャンブルで金を得ることもあった。
一方、薬物への依存は深まっていく。精神科の処方薬だけでなく、市販薬を飲み、やがて違法薬物にも手を出した。
「自分にとって薬物は、単なる快楽のためではありませんでした。人間は信用できませんが、薬は期待した効果を返してくれます。薬物は『親代わり』のような存在でした。薬がなければ、憎悪によって他人を殺すか、自分を殺すかという極限状態でした」
外から見れば、「そこまで苦しいなら、なぜ薬物をやめないのか」と思うかもしれない。だが本人にとっては逆だった。薬物をやめることは、生きるために握っていたものを手放すことでもある。「やめたら、どうやって生きるのか」。それが風間さんの側にあった問いだった。
交流があり、薬物依存を専門とする精神科医の松本俊彦さん(59)は話す。
「風間さんのように話す人は、意外と少なくないと思います。逆に言えば、『ダメ。ゼッタイ』と言われている薬物にあえて手を出す人は、よほどの問題を抱えているということです」
2011年3月、19歳のとき、大きな転機が訪れた。薬物のオーバードーズで倒れ、意識不明になった。その場にいた仲間は、通報して逮捕されることを恐れ、救急車を呼ぶのが遅れた。
集中治療室に運ばれ、2週間以上眠り続けた。その間に東日本大震災が起きているが、地震にも気づくことはなかったという。目を覚ましたとき、風間さんの身体にも大きな変化が起きていた。
「長時間、足を交差させた状態で倒れていたため、左下肢の重い機能障害が残りました。転院先では、『物質使用障害』と診断され、依存症外来への通院をすすめられました。自分にとっては生存の支えだった薬を取り上げられてしまうと思い、不安でした」
医療側から見れば治療の対象である薬物依存が、本人にとっては生きる支えだった。そこで風間さんは「依存症」というラベルを貼られたと感じ、医療への怒りを募らせた。
違法薬物の入手が難しくなると、酒を求めて新宿ゴールデン街を歩き、安い初回料金のホストクラブへ行き、宗教団体の施設で雨風をしのいだ。その日を越えられればよかった。
やがて依存の対象は薬物からアルコールへ移った。朝からウイスキーを飲む生活になった。
依存していたものを取り上げても、その人が抱える孤立や苦痛まで一緒に消えるわけではない。空いた場所には、別の何かが入り込むことがある。後に支援する側になった風間さんが、「本人が何を求めているのか」を何より重視する背景には、自身が味わったこの経験がある。
大人の「オモレー友達」に
風間さんには、当事者であると同時に、問題を抱えた人を支える側の顔がある。
2018年、発達障害や精神疾患がある人、非行少年、ひきこもっている人、性的マイノリティーの人たちの居場所となっていた「ごちゃまぜCafeメム」(東京・江戸川区)がオープンした。その後、店主が体調を崩し、経営の危機に。翌年、風間さんがオーナーを引き継いだ(現在は閉店)。
「さまざまな当事者が立場を超えて一緒にいられる場所でした。人間には家庭と学校、職場だけではない場所が必要です」
その言葉には、風間さん自身の人生が重なる。家庭に居場所がなかった子ども時代、風間さんを受け入れたのはストリートだった。社会から見れば「非行」の場所でも、本人にとっては初めて仲間ができた場所だった。
2020年8月には、20代という若さで保護司になった。非行少年や犯罪をした人の更生を支える立場だが、風間さんが目指すのは、“正しい道”を教える大人ではない。
「自分は非行を経験したし、タトゥーも彫っている。ゲームやストリートカルチャーにも親しんできました。だからこそ、少年たちと共有できる言葉があると思っています。非行少年に対して、『こうしなさい』と正しい道を示すのではなくて、大人の『オモレー友達』でありたいと思っています」
幼いころ、押し入れの中で父から「ママを怒らせないように立ち回れ」と言われ、施設でも「正しい」振る舞いを求められた。自分の気持ちより、大人の考える正解が優先されてきた。
だから風間さんは、支援する側になった今も、相手の人生を自分の「正しさ」で塗り替えないことを大切にしている。対話では、相手を責めるのではなく自分の気持ちを伝える「Iメッセージ」を使い、失敗した少年をすぐに見捨てず、必要な距離を保ちながら見守る。
依存症の問題に取り組むASKのアドバイザーにもなり、現在はインターネットやゲーム、ギャンブルの依存にも関わっている。
「『支援してあげる』のではなく、当事者と一緒に『何をするか』を考えるのです。そして、本人が何を求めているのかを聞きます。しかし、実際の支援現場では、本人のニーズより『最善の利益』が優先されることがあります。子ども、若者や精神保健の領域では、本人が『未熟』『判断能力が低い』と見なされやすく、支援者が『正しい道』に導くという構図が生まれてしまいます。自分は、その構図によって傷ついてきました。同じことを繰り返したくないです」
2021年3月ごろ、ASKの機関誌『季刊Be!』に文章を寄せたことも転機となった。多くの人に読まれ、反応が寄せられた。その後も寄稿し、現在は編集部員として活動している。
「自分の人生を語ることは、自分の経験を現在の社会の問題と結びつけ直す作業になりました」
風間さんの人生には、もう一つ大きな転換点がある。22歳のとき、飲み歩いているうちに出会ったパートナーとの間に子どもを授かったことだ。
「『自分の親と同じように子どもを傷つけたくない』との思いもあったので、薬物や酒、タバコをやめる理由にもなりました。ただ、タバコをやめてから食べる量が増えましたけど」
結婚してからは、きちんと料理をするようにもなった。どこかで食べた味を記憶し、調味料を一つずつ味わい、何を足せばその味になるのかを逆算して作ったという。
ただ、「母親になったから人生が変わった」という単純な美談にすることには、風間さん自身が慎重だ。子どもが生まれたからといって、それまでの傷が消えたわけではない。誰か一人の存在によって、過去のすべてが救済されるわけでもない。
変わったのは、人生の中に子どもや支援者の仲間といった存在が増えていったことだった。
「不妊治療に悩む友人やセクシュアルマイノリティーのカップルもいます。子どもを育てる中で、自分が子どもを持てたことそのものの『特権性』と考えるようにもなりました。自分が得ているものを当然とは考えなくなりました」
「まず今日を越えてほしい」
風間さんが支援の根底に置いている言葉がある。「当事者主権」だ。
「当事者が自分の人生について語ること、自分で決めることです。失敗することも含めて、自分の人生を生きる。支援とは、そのための環境をつくることではないでしょうか」
母から「こうあるべき」と求められ、父には助けを求めても扉を閉められた。施設では自分の意思より「指導」が優先された。風間さんには、自分のことを誰かに決められてきた長い時間がある。
共に支援活動をする安井飛鳥弁護士(42)は社会福祉士の資格も持つ。5年ほど前、コロナ禍で共通の知人を通じて知り合った。こども家庭庁の設立過程では、風間さんが自民党の勉強会で「必ずしも家庭が子どもにとって安全な場所ではない」と訴え、「子ども庁」とすべきだと主張。安井弁護士も共に野田聖子・内閣府特命担当大臣(当時)に要望した。
「当事者として妥協しないアドボカシーの視点があります。と同時に、繊細なバランス感覚を兼ね備えている。言うことは厳しいが、常に配慮と優しさがあります」(安井弁護士)
松本医師も、当事者が支援者になることについて、「信頼できるサポーターやスーパーバイザーがいれば良いと思いますし、意義があります」と評価する。
家庭でも学校でも職場でもない、第三の居場所があることで、人は生き延びられることがある。風間さん自身にとって、それはストリートと、そこで出会った仲間だった。今は、自らが誰かにとっての「第三の居場所」をつくる側にいる。
そして9月。内閣府の「自殺対策白書」によれば、夏休み明けは18歳以下の自殺者が多い時期でもある。今年も文科省やこども家庭庁は「つらいときには相談を」と呼びかける。
けれど風間さんは、安易に「生きていればいいことがある」とは言わない。自らが、生き延びるために薬物を必要とし、逃げても連れ戻され、自分の人生を自分で決められない時間を経験してきたからだ。
「生きていると、ある出来事によって価値観がひっくり返ることがあります。ただ、その瞬間がいつ来るのかはわからない。だから、子どもたちに『頑張って生きろ』とは言わないです。むしろ、大人の側が変わるべきです。そのうえで、今、生きづらさを抱えている人には、まず今日を越えてほしいです」
かつて、安心できる場所を求めてストリートへ出た子どもは、大人になった。けれど、そこで得たものを「間違った過去」として切り捨ててはいない。傷つけられたことも、逃げたことも、薬物に頼ったことも、そこで出会った仲間も。そのすべてを抱えながら、自分の人生の意味を自分の手に取り戻そうとしている。
「回復」を、誰かが決めた正しい姿へ戻ることだとするなら、その言葉は時に人を追い詰める。風間さんが歩いてきたのは、失った過去をなかったことにする道ではない。自分の人生を、自分のものとして生き直していく道なのだ。
取材・文/渋井哲也 撮影/矢島泰輔

