直木賞受賞作『切羽へ』をはじめ、一見平穏そうな夫婦や家族、恋人同士の間に生じる揺らぎを研ぎ澄まされた言葉で描き、多くの読者に支持されている井上荒野さん。最新作『アクリル』は、推し活にのめり込む妻とその夫との関係を描いた長編小説だ。
キーワードは「自分の幸せ」
「集英社の編集者の方たちと、推し活について話をする機会があったんです。誰かの熱狂的ファンという経験が私にはなく、推し活というのはある種の異様なことと思っていました。もともと異様な話を書くのが好きだったこともあり、推し活のことを書いてみたくなったんです」
物語は、主人公の卓郎の視点で進む。30代前半で結婚した妻の美幸は2.5次元ミュージカル『YO!YO!学園』のキャラクターに夢中になり、あらゆる場所に推しのアクスタ(アクリルスタンド)を伴う生活を送るようになる。
「本書を書くにあたり、実際に推し活をしている女性の方々にお話を伺ったんです。そのときにアクリルスタンドの存在を初めて知りました。その場で、『登場人物の推し活がどんどんエスカレートしていくと面白いですよね』という話をしたことなどを踏まえて、結末を考えないまま書き出しました」
視点人物が夫の卓郎になったのも、このときの会話がきっかけだったという。
「“推し”を追いかけて遠征をするなど、その行動力にもびっくりしたのですが、多くの方にご主人やパートナーがいらっしゃると知ってさらに驚きました。私は小説を書くとき、逆の視点から考えることが多いので、夫やパートナーからは彼女たちの推し活がどう見えているのだろうと思い、卓郎の一人称で物語を書くことにしました」
2.5次元ミュージカルの推し活を知るために、井上さんは次のような経験をしたそうだ。
「ミュージカル『テニスの王子様』のファンクラブに入会し、会員向けの動画を見たりしていました。実際の舞台は勇気がなくて見に行けなかったのですが、ほんの少し、推し活の気分を味わうことができました」
井上さんいわく、本作には2つのキーワードがあるという。そのひとつが「自分の幸せ」だ。
「卓郎は職があり、生活に困らないくらいの収入があり、自分は「中流」だと自認しているような人。結婚して子どもを持ち、家族をつくって平穏な生活をしていくことが、幸せのロールモデルだと思っています。そんな自分に『ちょうどいい相手』として美幸を選び、結婚した。ところがそこに、自分の身体的な問題のせいで、『子どもを持つことができない』という問題が発生するわけですね」
もうひとつのキーワードは「物語」。
「例えば、SNSには感動する話や何かのトラブルのてん末などがバンバン流れてきますよね。自身が物語を創作しているからか、中には『これはフィクションだな』と感じることがあります。
今の閉塞感のある社会の中で、特に展望も希望もなく生きていて、その中で生きる意味のようなものを見つけようと思ったとき、『みんなと同じだけど、自分は人よりちょっと幸せ』と考える人もいると思うんです。そのために物語をつくる必要があるのではないかなと」
妻の美幸は彼女なりの物語をつくり、公私の境界線が曖昧になるほど推し活にのめり込んでいく。
「スケジュール帳が推し活の予定でびっしりだったり、欲しい写真が出てくるまで中身がわからない写真を買い続けたり。推し活をしている人たちのお話を聞いたとき、時間もお金もすごくかかるのに、誰に何と言われようとも夢中になれるのはうらやましいと思いました」
嘘については「肯定派」
推し活のために、夫への裏切りともいえる行動をとる美幸を卓郎は受け入れ続ける。
「人は“推す”という高揚感や楽しみを覚えたら、どんどん夢中になっていくのでしょう。それと同じで、卓郎はいろいろな理屈をつけて『美幸の推し活を通じていろんなことがあったけど、俺は今の彼女が本当に好きなのかもしれない』と、無理やり思い込もうとしているんですよね。はたからみれば、『大丈夫?』と思われるような卓郎の非常識な理屈を考えるのは面白かったです」
実は、卓郎のような思考は小説の中だけとは限らない。
「私たちには、卓郎のようなところが多かれ少なかれあると思うんです。例えば私自身にしたって、今現在の自分の状況に『特に不満はない』と思っているわけですけど、100パーセントそうなのかなといえば違うと思うんですよね。
気にするほどではないと思っている不満とか不安も、じっくり向き合ってみれば深刻な問題なのかもしれない。でも、いちいち向き合おうとはしないわけですよ。向き合うと人生が停滞してしまうから」
井上さんは、嘘については「肯定派」だという。
「嘘の是非より、『嘘をついてでも生きていく』ということのほうが重要に思えるんですよね。小説家的な人生観かもしれませんが」
物語は思わぬ展開を迎え、卓郎のとある決意とともに幕を閉じる。
「美幸に関しては、自分勝手に暴走していく女を書けばよかったのですが、その妻と離婚せずに、受け入れようとする卓郎の心理の変化を考えるのは苦労しました。なんとか、物語のラストに着地できてよかったです」
本作は井上さんにとって、どのような一冊となったのだろう。
「推し活という、自分とは無縁なものを通して、人間のひとつの在り様を書けたように思います。『アクリル』を読んで、どこか自分にも通じるものがあると感じていただけたらうれしいです」
最近の井上さん
「昨年、運転免許証を取得しました。初めは、夫に同乗してもらっていたのですが、今は近場なら一人で運転できるようになりました。今日も最寄り駅まで運転して来ましたし、車で自由に移動できるのが楽しいです。先日、江國(香織)さんを乗せる機会があり、『(免許を取るだけじゃなく)きちんと運転しているのがすごい』と言われました」
取材・文/熊谷あづさ
井上荒野 (いのうえ・あれの)/1961年、東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。1989年『わたしのヌレエフ』で第1回フェミナ賞を受賞。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で第139回直木賞、2011年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞、2016年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞、2018年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。ほか、『あちらにいる鬼』『照子と瑠衣』『錠剤F』『しずかなパレード』など著書多数。

