尾崎亜美がデビュー50周年を迎えた。オリジナルアルバムのリリースと記念コンサートを控えている。ここ数年、サブスクリプションの隆盛によって1970~'80年代の邦楽が海外でも聴かれているさなかでの祝祭となる。
キャリア50年の蓄積が育んだ交友関係
「先日、アメリカ公演から帰国したばかりの杏里と電話で話したんですよ。やっぱり海外ではアップテンポの曲が多いとウケがいいんだろうなと思っていたら、『オリビアを聴きながら』もみんな日本語で“お気に入りの歌~”って口ずさんでいたそうです。
杏里にあの曲を書いたときは、まったく違うタイプを3曲提出しました。10代のデビュー曲にバラードは選ばれないだろうと思ったら、ディレクターさんがいちばん気に入ってくれて決まりました。京都から上京した私は、東京の生活に流されてはいけないという気持ちと、杏里に感じた芯の強さが重なって、あの歌詞が生まれました」
こぶしを回して楽しく歌唱しながら話す、人懐っこい性格と、キャリア50年の蓄積が育んだ交友関係から、次々とビッグネームが飛び出る。
「矢野顕子さんは帰国するときはいつもわが家に食事にいらっしゃいます。彼女はニューヨーク在住ですが、海外公演では若い観客がすごく多いそうです。日本だとずっと聴いてきた往年のファンが中心だけど、海外は若者たちが先入観なしで自由に聴いて楽しむので、いろんな反応が見られてすごくうれしいって話してました。
私のライブでは最近、親子で見にこられる方が増えていて、親子のコミュニケーションとしてお役に立てたかなと思うとすごくうれしいです。それと私の周りには、素晴らしい才能と個性を持った先輩がたくさんいてありがたいです。みなさん変わってますけど(笑)。
高中正義さん(尾崎の夫である小原礼とともに在籍していたサディスティック・ミカ・バンドのリードギター)は、“高中星人”と呼ばれているほど変わり者。木村カエラさんがメインボーカルで加入したミカバンドの最後の再結成ライブが終わって楽屋に戻った瞬間、派手派手な衣装のまま荷物を持って、じゃ!と手を上げて帰ってしまいました。メンバー全員の集合写真も撮れず、スタッフも大慌て。さすが高中星人です(笑)」
ちょっと変わった子どもだった幼少期
音楽性に富み、友人が多く、天性の癒しキャラである尾崎の少女時代は、意外なものだった。
「小さいころからピアノを習っていて、流行っている音楽を知らなかったんですね。父がクラシック一辺倒で私を音楽大学に行かせたかったらしく、ポップスを聴くことに大反対だったんです。姉はお年頃だったので、こっそりジュリー(沢田研二)の写真を机に忍ばせていましたけど。
学校では、私は病気がちだったのとコミュニケーション障害があっていじめられっ子でした。子どもってちょっと変わってる子はつまはじきにしますよね。でも私には、音楽という言葉があるから大丈夫だと思っていました。
私はよく“1メートルの大きなアリを見た”といった、子どもらしいウソをよくついていました。それでもそういうウソに喜んで付き合ってくれる友達がいて、近所を一緒に探したりしました。いくら探しても当然いないんだけど、“もしかしたら50センチくらいならいるかもね”って言ったりして。
先日、『徹子の部屋』に出演させていただいたとき、黒柳徹子さんもトットちゃんで有名な少女時代をお過ごしになられていたので、とても共感してくださいました。そのころの気持ちは今も変わらず歌ってます。これからもずーっと滞りなく続くし、それがなくなると、自分が自分でなくなる怖さがあります」
そんな子ども時代を過ごした尾崎。高校生になると、急激にいろいろな情報が押し寄せ、夢中でたくさんの音楽を聴くようになり、いろいろな楽器も試した。'70~'80年代は、『スター誕生』やポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)などのアマチュアコンテスト全盛期。尾崎がプロになるきっかけとなった近畿放送(現在のKBS京都)のラジオ番組『アクションヤング大丸』に出場したときのことを振り返った。
「ギターの弦とか買いたくて、デパートが主催するオーディション番組に商品券目当てで応募しました。最初は3人組で出場していて月間チャンピオンを獲得したんですが、審査員の方が私だけ褒めてくださって、2人が抜けて私だけになっちゃって。『エンプティー・ストリート』というバンド名がいけなかったんですかね(笑)」
ここで年間チャンピオン大会への進出となったのだが、尾崎は大会当日に主催者側に辞退を伝えた。
「主催者側から、出てもらわないと1年間この企画を続けた意味がないから、と説得されました。今となっては当時の自分を説教したいんですが、わざと優勝しないように、友人が作った英語の歌をサラッと歌ったんです。そしたら、ステージの司会をされていた諸口あきらさんが“美鈴ちゃん(本名)はきっとプロの歌手になるからずっと応援してるからね”と言ってくださり、結果として2位に。審査員だった東芝の方がスカウトしてくださいました。
私はプロになる気はないとお断りしたら、自分のやりたい音楽を自由にやりたいなら、プロになるべきだよと言われました。スタジオミュージシャンやアマチュアだと限界があるでしょ、と説得されたのが私にとってすごい口説き文句だったんで、プロでやりたいと思いました(笑)」
錚々たるメンバーが参加したデビュー盤
東芝からプロデビューが決まった当初、プロデューサーにバンドの「ティン・パン・アレー」とミッキー・カーチスが候補に挙がった。そしてまず、スタッフは尾崎を連れてミッキー・カーチスの自宅を訪問した。
「ミッキーさんに、“君のことはとてもいいと思うけど、デビュー作はティン・パン・アレーがいいよ。この先たくさんいろんな経験をして、大人になったときに僕にプロデュースしてほしいと思ったら、そのときに何か楽しいことをしましょう”って」
そして、松任谷正隆プロデュースによってデビュー。彼の人脈により、さまざまなミュージシャンがレコーディングに参加した。
「Hi-Fi SETのみなさん、山下達郎さん、吉田美奈子さん、鈴木茂さんなどすごい人が次々と参加してくださって、プロになってよかったと思いました(笑)」
松任谷は新人の尾崎をとても気に入り、2枚目のアルバム『MIND DROPS』も担当。この作品は、松任谷自身に今まで手がけた作品の中でベスト3に入る名作だと言わしめたほど。しかし、尾崎にとって初のヒット曲である『マイ・ピュア・レディ』は全体の雰囲気に合わないといって、松任谷は収録から外した。
「でもね、後になって“俺が悪かった”って言われました(笑)」
松任谷由実と同じレコード会社、同じプロデューサーということで、デビュー当時はポストユーミンと呼ばれたが、松任谷は「亜美は亜美だよ」と言って、まったく違うアプローチで携わってくれた。
「松任谷家にはよく泊まりに行っていたんですが、ユーミンも松任谷さんがすごく私のことを認めていると教えてくれて、“ずっとマンちゃん(正隆)とやってね!”と言ってくださいました」
ちなみにデビュー盤と2作目のアルバムタイトルは、ユーミンが名づけた。こうして華々しくデビューを飾った尾崎だが、クラシック少女がどのように作詞・作曲をするようになったのか。
「『マイ・ピュア・レディ』が初めてヒットしたときも入院していたんですが、子どものころから病気がちで、毎日天井を見ながらいろいろな空想にふけっていたんですね。初めてのオリジナル曲は、高校生のときに作った『ひとりっこカバっこ』。のちにNHK『いないいないばあっ!』で使用されました。
NHKの方から、何か親子で聴けるような子ども向けの曲はないですかと相談されて、この曲と『せんたく じゃぶじゃぶ』というのがありますと渡したら、両方気に入られました。
深夜番組『11PM』のテーマ曲みたいに、“カバダバダ~”って歌ってます。子どもってこういう言葉遊びが好きですよね。私がキダ・タローさんで育った影響もある。関西生まれなので、いつもどこかでキダ・タローさんの音楽が流れていました。ああいったキャッチーでコミカルなものが自分に刺さるというか、関西の血というか(笑)」
多くの楽曲提供でヒットメーカーに
客観的に刺さりやすいキャッチーなメロディーを生み出す感性が、多くのテレビCM曲や楽曲提供につながったのだろう。尾崎が初めて楽曲提供したのは、当時大人気だった南沙織だった。
「私から誰かに書きたいといったことはないんですね。南沙織さんの曲のオファーをいただいたのは、私の初めてのヒット曲である『マイ・ピュア・レディ』が資生堂のキャンペーンソングになり、翌年も、となったのがきっかけ。
それで作ったら、ストリングスも書いてと。オーケストレーションの譜面なんて書いたことないのに、3日で仕上げてと言われて、。急いで分厚い専門書を買って、勉強しました。大変だったけど沙織さんの歌入れも楽しかったし、こうやって、人を素敵にしていく作業ってなんて楽しいんだろうと感じた経験が、プロデューサーとしての始まりですね」
こうして南沙織に提供した『春の予感』は大ヒットし、あらゆるタイプの歌手から楽曲依頼が来るように。そんな中、沢田研二と共作する機会もあった。尾崎が作詞、沢田が作曲で、'84年に『Boyと呼ばれた頃に』という曲を松平健に提供した。
「沢田さんは歌も活動も常に冒険的なことを試されている方で、尊敬していました。同じ京都出身ですし」
尾崎に依頼される中でリクエストとして多いのが、デビュー曲やイメージチェンジをさせたいというものだという。高橋真梨子のソロデビュー曲『あなたの空を翔びたい』、松本伊代の初バラード『時に愛は』など評判を呼んだ。その中でも、観月ありさとの出会いは印象的だったと語る。
「初めてお会いしたときは14歳。会った瞬間に彼女の頭の上に『伝説の少女』という言葉が浮かんで、あの曲ができました。彼女は2度ほどわが家に遊びに来たことがあります。顔が小さくて手脚がスラリとしたルックスですが、まだ中学生だったので友達の話をしたり“先生にこう言われたんだけど、どう思います!?”とか、おしゃべりが可愛くて(笑)」
たくさんの俳優にも書き下ろした中、薬師丸ひろ子に提供したときのことをこう語る。
「きっとこんな感じに受け取って歌ってくれるんだろうなと想像して書いたら、まさにそのとおりに表現されて驚きました。感受性の素晴らしい方ですよね」
慕ってくれたアイドルとの思い出─
そんなたくさんの提供曲の中でも忘れられないのが、岡田有希子さんとの思い出だった。
「あんな亡くなり方をするなんて。彼女に書いた曲は、苦しくてずっと歌えませんでしたけど、ようやく最近歌えるようになりました。有希子ちゃんは、私のことを大好きと慕ってくれていました。レコーディングが終わるまで待っていてくれたときもありました。私が提供した曲の歌入れはとっくに終わっているのに、必ずその歌を歌ってからほかの曲の歌入れをしていたそうです」
そして、誰もが尾崎亜美の提供曲として真っ先に頭に浮かぶであろう、松田聖子の『天使のウィンク』は、驚きの制作秘話があった。
「私は楽曲依頼があるとできるだけご本人に会って、その方の魅力を引き出すように考えます。でも、初めて聖子さんにはお会いしないで書きました。というのも、年末の大掃除をしているときにシングル曲を書いてほしいとお電話をいただいて。明日までに仕上げてほしいと言われたんですが、松本隆さんではなく作詞もお願いしますと言われて、ひゃー!とびっくり。
とりあえず大掃除を続けていたら、窓から陽差しが差し込んで、埃がキラキラ光って舞うのが見えたんです。このときちょうど神話をテーマにした自分のアルバムを制作中だったから天使が舞っているように感じて、『天使のウィンク』が浮かびました。曲調も少しバロック調にして、音階が天に向かうようなイメージにしました」
このときに制作していた自身のアルバム『10番目のミュー』は、尾崎が大病を患い、手術のために全身麻酔をして意識朦朧とした中、神話をテーマに作りたいと浮かんだものだった。
「アルバムジャケットも天使の後ろ姿で、小さい羽が背中に生えています。実は、このアルバムと『天使のウィンク』は対になっているんです。レコーディングのときですが、聖子さんのボーカルに力がなかったのでお腹すいてない?と聞いたら、朝から何も食べていないと。それはレコーディングに影響するので、ちょこっとだけ何か食べておいでと話しました。
彼女が食事をとっている間に、それまでレコーディングした音源を聴いて編集して、彼女が戻ってきて編集したものを聞かせました。すると“あー、わかりました”と言って歌ったんですが、見違えるほど素晴らしくて。『ボーイの季節』のレコーディングのときは、結婚と休業が決まっていたので感情移入して涙ぐんでしまって。声が変わっちゃうから泣かないでとお願いしたら、やりきってくれました。天才の風格を見せられましたね。
中森明菜さんにも書かせていただきましたが、会話ではか細い声なんですよ。でも歌声はでっかいだろうと思って書いたらやっぱり。あと、歌がうまかったなと思うのは、河合奈保子さんですね。素晴らしい方にたくさん関われてうれしいです」
母の死が導いた『メッセージ』
幼いころから病気と闘いながらも仕事と向き合ってきた尾崎。さらには母親の介護もしていたことに触れた。
「音楽活動を続けながら、母の介護をずっとしていました。それ自体はまったく苦ではなく、お世話をしたり、歌ってあげたりして、母を楽しませることに喜びを感じていました。介護をしながら、曲も次々と書けていました。
でも、母が亡くなった後は気持ちを形にできなくて曲が書けない。母のお別れの会で家族が集まったとき、私が“人は死んだら星になるというけど、そんなの遠いからやだよ。花の裏とか風の中とかもっと近くにいてほしい”と弟たちに言ったのを、夫の小原がメモして冷蔵庫に貼ったんですね。その言葉を噛み締めながら散歩していたら、不意に曲ができたんです。泣きながら歩いていたから、周りは変な人だと思ったでしょうね(笑)」
それは『メッセージ』という曲となり、デビュー45周年記念アルバム『Bon appetit』に収録された。そうして立ち上がろうとした矢先、今度は自分の喉の調子が悪くなり、声が出なくなった。いろいろと病院を尋ね歩く中、ユーミンから紹介された有名な名医に診てもらうことに。
「診断の結果はかねて患っていた声帯嚢胞の悪化。切除するしかないと言われて手術しました。リハビリの初期は喉に負担をかけないようにしていたら、声が出なくてもうダメかもと思いましたが、どんどん歌って喉を鍛えてくださいと医師に言われ、やろう!と自分に檄を飛ばしました」
尾崎は子どものころだけでなく、デビューから現在まで、腎臓結石や肝機能障害など、さまざまな病気で10回以上入院している。だから自分はスーパーポジティブな人間だと言う。
「元の歌声に戻そうとは思っていません。今の自分の声と向き合い、自分が表現したいことができればいい。それにどんなにひどい声のときでも、ファンの方もスタッフのみなさんもずっと信じて聴いてくれて、うまくいったら自分のことのようにすごく喜んでくれる。まだまだ努力しないとね」
人を笑顔にし、魅了する料理と音楽
度重なる病を乗り越えてきた秘訣のひとつに、プロ級と周囲から評される料理の腕前がある。
ミュージシャンとしては珍しく、料理本を出すほどである。
「中学生のころから料理が好きで、何でも作り、食材も残さず使います。それにどんなに大変なときでも、料理ができているからまだ大丈夫という安心がある。料理と音楽は同じで、自分で作るものが好きで、人を笑顔にするのが好き」
尾崎の手料理が食べたくて多くの友人が自宅にやってくるので、わが家を“小原亭”と名づけた。
「礼さんの周りはいい方ばかり。高橋幸宏さんは釣りがお好きだったので、いつも釣った魚を“料理してー”と持ってきました。ミカバンドのリーダーだった加藤和彦さんには何から何までお世話になって。あの方も料理好きだったから、形見分けでお鍋や料理本をいただきました」
世界的なソムリエで料理評論家の田崎真也とも気心が知れた友人。現在は静岡県熱海市を拠点にして地域活動に深く関わっている田崎の元を訪れるなど、いつでも気兼ねなく話せる仲だという。
「初めてお会いしたのは、尾崎亜美さんがMCをされていたテレビ番組にゲストで呼んでいただいたときでした。その番組の中でゲストが一曲歌うというコーナーがあって、なんと亜美さんのピアノの伴奏で歌わせていただきました。
その収録現場に、ワインが大好きな小原礼さんがいらしていて、そこから意気投合。一緒に食事をしたりワイン会にお誘いしたり、ご自宅に伺ったりと。旅番組でご一緒させていただいたこともありました。
尾崎さんのお人柄はひと言で言うと、誰もが一瞬で好きになってしまう魅力のある女性。そんなお付き合いの中で、小原さん、尾崎さんご夫妻には、2007年に日本ソムリエ協会の名誉ソムリエにご就任いただきました。理由は、いつも楽しくお酒を飲んでいて、そんな楽しみ方を多くの方々に手本にしていただきたいと思って」(田崎)
55周年を迎えたシンガー・ソングライターのイルカとも、初対面で意気投合してからの長い付き合い。
「亜美ちゃんと出会ったのは50年くらい前。ひな祭りコンサートという、女性アーティストだけが出演するコンサートを毎年3月に夫(神部和夫さん)がプロデュースしていて、そこに出演されたのが最初ですね。
趣味嗜好がすごく似てるんですよ。可愛らしくて不思議なところもあって好き。亜美ちゃんや太田裕美ちゃんと共演することが多くて、こちらからお誘いして一緒にジョイントコンサートをするようになりました。お料理が得意な方なので、SNSに投稿しているお料理を欠かさずチェックしていて、会うたびに“もう、人んちのことよく知ってるんだから~”と言われます」
そして尾崎と小原の夫婦仲についても、
「旦那さんの小原礼ちゃんのために必ず帰って料理をされて、礼ちゃんも亜美ちゃんのごはんじゃないとダメと言うほど“餌付け”してる(笑)。おふたりはお互いに刺激し、尊重し、高め合っている。共にすごく努力しているでしょうね。努力なくして夫婦はうまくいかないですからね」(イルカ)
音楽活動について、多くの人に楽曲提供をするヒットメーカーで自身のアルバムも自分でプロデュースしていることに触れ、
「音楽も料理もホームメイドっていう、亜美ちゃんのイメージで、彼女とのジョイントコンサートを『ホームメイドコンサート』って名づけました。可愛らしい部分と自分の描いたものを貫く芯があって、そのバランス感覚がとってもいい。
私も今年で55周年。こんなに長く歌ってこられたこと自体が奇跡。そして1回でも多く、また一緒にステージに立てたらいいなと思います」(イルカ)
夫婦二人三脚で歩み続ける音楽の道
友人たちがみな口にするように、心が折れかけたときにいつも支えてきたのが、夫の小原礼だった。
「初めて会ったのは、私のロサンゼルスでのレコーディング。スタッフがみんな外国人で、唯一の日本人が現地在住だった礼さんだったので味方だと思っていたんですが、めちゃくちゃ厳しくて。今思えばいろいろ勉強になったんですが、当時は“感じ悪いわ~”って思いました(笑)。彼とは、音楽、料理、クイズ、バスケットボールや相撲観戦など、共通の楽しみが多いから一緒にいて楽しい。長く一緒にいればイラッとすることはあるけど、彼が長く素晴らしい音楽活動をしてきたことに対するリスペクトを、忘れないようにしています。あと、お互いめちゃくちゃ褒め合ってます」
その小原が、楽曲制作やレコーディングから、日常生活のすべてにわたり、尾崎をサポートしてきた。ロスでの出会いを彼はこう振り返る。
「僕たちの初めての出会いは、ロサンゼルスでの亜美ちゃん(そう呼ぶことにします)のアルバム録音のときでした。尾崎亜美の音楽をあまり聴いたことのなかった僕は、楽曲の楽しさと歌のうまさに驚いたことを覚えています。僕はロサンゼルス在住だったので、それからしばらく会う機会もなく、久しぶりの再会は日本での『桃姫バンド』というプロジェクトでした。相変わらずの歌の素晴らしさに僕はすっかりやられて、ラブレターを書いてロサンゼルスに戻り、それからSNSなどない時代だったので、長いファクス文通が始まって、だんだんと仲良しになっていきました。
お互いに食べることが大好きで、よく料理や食材の話をしていました。ある日、僕が亜美ちゃんを中華料理に誘ったときに、黒酢を煮詰めた酢豚が出てきて“これってバルサミコを煮詰めてもこんな感じになるよね”と言うと、“そうね、アミノ酸の発酵の感じが似てるのかな”などと、バルサミコ酢とかほとんどの人が知らなかった時代に普通に会話している、自分たち2人の将来が垣間見えた気がしました。わりと長い遠距離交際期間を経て、僕たちは'97年に結婚しました。結婚20周年に、黒酢酢豚をいただいた中華料理に行って乾杯したのは感慨深かったです」(小原)
そして、50周年イヤーを二人三脚で走り出した。
「尾崎亜美は今年50周年を迎え、全新曲書き下ろしのアルバムを制作しました。タイトルは『amiism』。尾崎亜美の現在地がここにあります。仲間たちの愛にあふれた素晴らしいニューアルバムです。亜美ちゃんは長いこと介護し続けていた高齢の母を亡くし、声帯の手術も経験して、なかなか以前のように曲が作れず歌も思うように歌えない日々が続いて、“礼ちゃん、もう歌うのやめるわ”といつか言われるのかなと思ったこともありました。
それでも亜美ちゃんは、ゆっくりだけど少しずつ我慢強く、自分の音楽を探し歌い続けて今この場所にいます。でもこの場所が最終地点ではありません。この50周年はこれからの尾崎亜美の再出発点なのです。応援してね。僕たち2人はこれからも音楽をやり続けていきます。お互い違う現場もありますが、いちばん信頼できる相棒なので、来年企画していることが楽しみです。もう一度、応援してね」(小原)
絶大な愛情と信頼を寄せるパートナーと二人三脚でこれからも歩んでゆく尾崎に、今後の展望を尋ねた。
「もはや上昇志向がなくて、上を目指すことよりも自分が思ったことをそのまま伝えられるかどうかが、究極の目標です。それは平ったくてもいいから、そのままの自分を伝えていきたいです。それに、音楽で人とつながっていることがうれしい。実は今年の3~5月に咳が止まらなくて、喉が硬くなってたんですね。それで医師に診ていただいたら、とにかく歌って喉の筋肉を鍛えなさいと。それで散歩中もマスクをしてずっと歌ってました。
私はできる、と言い聞かせてエネルギーを振り絞っていたらいい曲ができて、うれしくて泣きながら書いていました。こうして仕上げた50周年アルバムは全曲書き下ろしにこだわり、やりきった自信作です。50周年で全国ツアーをするので、お近くの方はぜひお越しください」
尾崎は自分をスーパーポジティブだと言い、コミュニケーション障害でいじめられても、私には音楽という言葉があると語った。この発想の転換が、メンタルを変えるきっかけになるのだろう。そして彼女の音楽には、そんな魔法の粉がたくさんふりかかっている。ぜひ、ニューアルバムを手に取り、ご家族やご友人とライブを楽しんでほしい。
取材・文/山本航 撮影/近藤陽介
