9月18日、脚本家の倉本聰さんが多臓器不全のため、北海道・富良野市の自宅で亡くなった。『北の国から』(フジテレビ系)や『前略おふくろ様』(日本テレビ系)など、数々の名作を世に送り出した。脚本家として半世紀以上にわたって第一線を走り続けた一方、晩年まで若手の育成や自然環境の保全にも力を注いだ。その言葉を受け継ぐ人たちの証言から、倉本さんが生涯をかけて大切にした“根っこ”をたどるーー。
9月18日、脚本家の倉本聰さんが多臓器不全で亡くなった。代表作ともいえるドラマ『北の国から』の主題歌を担当したさだまさしは、自身のインスタグラムで“恩人”に向けて思いを綴った。
《せっかちで頑固で喧嘩っ早い倉本先生。大好きな紅葉も落葉も雪も待てずに秋の香りのする日に、ぷいっといなくなりました。一途で不器用で芸に厳しい倉本先生。歴史に残る名作『北の国から』の音楽を、若造の僕を信用して、ぽいっと全部任せて下さった侠気の人。大恩人でした》
8月29日、富良野演劇工場で開催されたイベント『倉本聰プライベートライブラリー』への登壇が最後の仕事となった。
「倉本さんは近年、足腰が弱り、車いすで生活していたといいます。そんな中でも酸素吸入のチューブをつけながら仕事を行っていました。愛煙家として知られ、タバコを1日に4箱計80本吸っていたそうですが、1年前から禁煙していました」(テレビ局関係者)
戦時中に感じた家族の安心感
倉本さんは1935年、当時の国鉄代々木駅前にあった大邸宅で生まれた。
「戦時中は空襲から逃げていても、不思議と幸せだったといいます。それは家族に包まれて、守られているという安心感があったからだとか」(全国紙記者、以下同)
のちに山形県に学童疎開することになると……。
「食べ物がなく、絵の具まで舐めたことも。家が恋しく、布団に入って泣いていたそうです」
終戦を迎え、中高一貫の男子校・麻布中学に入学。東京大学文学部を卒業後、ニッポン放送を経てフリーの脚本家として活動を始めた。しかし決して順風満帆だったわけではない─。『北の国から』の誕生の裏には、1974年に放送されたNHK大河ドラマ『勝海舟』での挫折があった。
「出演者を集めて毎週、脚本読みに時間を費やしたそうです。しかし、俳優側に意図を伝えようとする倉本さんと現場スタッフとの間で溝が深まり、途中降板に追い込まれてしまいます。失意の中、北海道の札幌へ渡ると、1977年には富良野に移住しました。そこで目にした雄大な自然や、都会とは異なる人々の暮らしに触れたことが、後の創作にも大きな影響を与えたのです」(前出・テレビ局関係者、以下同)
21年間にわたって放送された代表作
そして1981年─。倉本さんの代表作が生まれた。
「富良野を舞台にした『北の国から』シリーズは、1981年の連続ドラマから2002年の単発ドラマ『2002遺言』まで、およそ21年間にわたって放送されました。主人公は妻の令子と別れ、東京から故郷の富良野に戻ってきた黒板五郎。幼い子ども・純と螢との3人で、電気も水道もない生活を始めます。単なる田舎暮らしを描いた作品ではなく、家族、恋愛、進学、仕事、貧困、自然との共生などを通して、純と螢が大人になっていく過程が描かれています」
家族が土地に根を下ろし、そこで生きていく姿を描いた『北の国から』。その舞台となった富良野で、倉本さん自身もまた、土地に根を張りながら活動の幅を広げていった。
1984年には私財を投じて「富良野塾」を旗揚げ。オーディションで選抜された若者が農作業などで収入を得ながら創作に情熱を傾け、2010年の閉塾まで375人を育てた。その後、富良野塾の卒塾生を中心に、演劇活動を行う「富良野GROUP」を結成した。
「晩年まで執筆への意欲は衰えませんでした。構想に60年をかけた2024年の映画『海の沈黙』が現時点での遺作となりましたが、テレビ朝日は生前、倉本さんが書き下ろした『神様からの遺言』を来年放送すると発表。実話をもとに創作され、現在のテレビ界への思い、自らの老いとともに感じた死生観を込め“これがラストメッセージだ”と明かしていたといいます」
札幌のホテルで「5時間説教」
富良野塾第9期卒塾生の納谷真大氏は倉本さんとの思い出をこう振り返る。
「僕は富良野塾の塾生の中でも一番怒られた弟子なんです(笑)。でもそれは一番可愛がっていただいたという自負でもあります。最も大きな出来事は、僕が2024年に札幌にある北八劇場の芸術監督に就任したときのことです。倉本先生に“記者会見を行うので先生のお言葉をいただけませんか”とお願いに伺ったんです」
ところが、納谷氏を待っていたのは、思いもよらない5時間に及ぶ創作に関する“説教”だった。
「札幌のホテルで5時間説教を受けたんです。芸術監督を務めるにあたって、“1週間で7つの信念を書面にしなさい”と言われたんです。後日、先生の秘書にその書面を渡すと電話がかかってきて、“納谷、信念はひとつだよ”と言うんですよ(笑)。ユーモアにあふれて、愛情深い方でした。あんなに本気になって怒ってくれた人はいなかったと思いますね」(納谷氏、以下同)
教えられた「信念」は、いまも納谷氏の創作の土台になっている。
「僕がものを作るときの考え方、その礎をすべて倉本先生が教えてくださいました。“根をちゃんと張りなさい”と教えていただき、僕の『根っこ』はすべて先生でできています」
倉本さんのドラマの大ファンだったという放送作家の小山薫堂氏。2人の出会いは1990年代後半、小山氏がパーソナリティーを務めるラジオ番組に倉本さんがゲストとして出演したことがきっかけだった。
2026年春、倉本さんに電話も
「先生はよく“見えないところが大切なんだ”と話していました。例えば、脚本を書くときに、どういう親だったのか、親はどのような人生を歩んできたのか。そういう『根っこ』を考えることが大切なんだと強く話していました。私は、そこまで考えることで、その子が成長して物語の中で動き始めるんだと考えるようになりました」(小山氏、以下同)
小山氏が考える、倉本さん最大の才能については、
「その時代に対するメッセージ、警鐘を鳴らしていたことだと思います。一貫して、近代化とか便利さとか、そういうものと引き換えに人間が失ってきたものへの痛烈な批判があったと思います」
そんな倉本さんと、最後に言葉を交わす機会は訪れなかった……。今年の春、倉本さんの自宅に電話をしたそうだが、
「奥さまが電話に出られて“今ちょっと体調が悪くて出られないんです”と言われ、話すことができなかったんです」
長い時間をかけて張った根は、簡単には枯れない。作品の中に、ずっと生き続けていくーー。
