白鵬翔 撮影/吉岡竜紀

「相撲は、礼に始まって礼に終わる。この理念を伝え続けたい。よくよく考えたらおかしいことだと思いませんか? これから戦おうとしているのに礼をする。勝っても負けても、勝負が決した後に心の整理をして、再び頭を下げる。人と人がつながるうえで大切なことだと、私は相撲から学んだんです」

 横綱在位84場所、幕内優勝45回、通算1187勝。いずれも、大相撲の長い歴史における歴代最多記録である。残した記録を挙げればキリがない。稀代の大横綱・白鵬翔は、今なお相撲への愛情が冷めることはないと笑う。

「相撲で食べていくという道を増やしたい」

「相撲を世界中にもっと広めることが、私の夢の一つ。この青い星には、相撲とよく似たスポーツが約150か国にあるといわれています。古代エジプトの遺跡には、組み合う格闘技の描写が残っていて、相撲のルーツのひとつともいわれる。相撲は、世界中の人々を結びつける力になると信じているんです」(白鵬、以下同)

 2025年6月に日本相撲協会を退職した白鵬は、現在、「白鵬ダヤン相撲&スポーツ株式会社」の代表取締役社長として、相撲の普及のために東奔西走している。同年9月には国際相撲連盟の顧問に就任。タイ・バンコクで行われた「第26回世界相撲選手権大会」では、プレゼンターとして表彰式に参加した。なお、この国際相撲連盟の現会長はトヨタ自動車会長の豊田章男氏である。

 大相撲とは違う、スポーツ大会としての相撲の歴史は、私たちが想像している以上に長い。だが、

「連盟には、80以上の国と地域が加盟しているのですが、世界相撲選手権には30~40の国しか来ません。国の支援がないため、選手は自腹になってしまうからです。この状況を変えるために、私たちは相撲をオリンピック種目にしたいという夢もあります。相撲力士や相撲に携わる人たちが、相撲で経済的に自立していくことをサポートしたい」

 相撲協会と対立構造をつくろうというわけではない。「相撲で食べていくという道を増やしたい」からだと白鵬は言葉を続ける。

 大相撲では、給料がもらえるのは、関取と呼ばれる幕内・十両、70人ほどに限られる。厳しい生存競争が繰り広げられる世界だけに、全力士数は最盛期の900人から500人台まで落ち込み、年々、力士志願者は減少の一途をたどる。

「相撲が好きなのに道を諦めざるを得ない、厳しいがゆえに入門を躊躇する、そういう人が少なくない。相撲人口を増やしたいんですね」

 言葉に熱が帯びる。

「相撲に恩返しがしたい」

 白鵬は、現役時代の2010年から、「白鵬杯」という少年相撲大会を開催している。当時の相撲界は、暴力問題・野球賭博・八百長問題など不祥事が相次ぎ、国技館の観客席がガラガラになるなど人気が低迷していた。

「このままでは国技といわれる大相撲がなくなってしまうのではないか、子どもたちが相撲から離れてしまうのではないか」

 強い危機感を抱いた白鵬は、未来の担い手を育てる土台をつくるため、私財を投じて「白鵬杯」を創設した。だが、日本相撲協会の直轄ではない独立した大会ということもあり、立ち上げ当初は孤立無援だった。

「相撲に恩返しがしたい」

 この白鵬の思いは、次第に賛同の輪を生んでいく。2016年に開催された「第6回白鵬杯」の中学の部(個人)で優勝した中村泰輝は、のちに横綱・大の里として角界を牽引するまでに成長した。それまで目立った成績を残せていなかった彼は、白鵬杯での優勝を機に「自信をつけた」と語っている。白鵬は、現役時代から種をまき、相撲の未来を見据えていた。

「世界相撲」のシンボルマークのピンバッジを常に着けるようにしている白鵬 撮影/吉岡竜紀

 14年4か月、横綱として責務を全うした。その一方で、在位の後半には、かちあげや張り差しといった取り口、さらには土俵上の振る舞いが、「横綱としての品位を欠く」と批判され、反感を買うこともあった。

 引退後は宮城野親方として後進の指導に努めたが、日本相撲協会との確執がたびたび報じられるなど、その足跡の陰には、決して平坦ではない道のりもあった。

 退職の記者会見の場で、「協会の中ではなく外の立場から相撲の発展に力を注いでいくことがいいと判断して、最終的には自分自身で退職を決断いたしました」と不和を否定したが、一人横綱として揺れ動く相撲界を支えた白鵬の胸には、彼にしかわからない思いが去来したに違いない。

「どうして今もこれほどまでに相撲を好きでいられるのですか?」。そう尋ねると、白鵬はふっと表情を和らげ、自らの相撲人生を静かに振り返り始めた。

15歳で来日した際は175センチ、62キロ

 ムンフバト・ダヴァジャルガル。白鵬の出生名である。父はモンゴル相撲の横綱であり、1968年のメキシコ五輪ではレスリングで銀メダルを獲得。モンゴルに初の五輪メダルをもたらした、国民的英雄だった。母は元外科医。5人きょうだいの末っ子ということもあって、「甘やかされて育った」と舌を出す。

「父は無敗だったのですが、当時の採点方式で総合2位に。金メダルを取った人とも引き分けて負けていない。だから、『いつか自分が金メダルを』という思いはありましたよね」

 小学校6年生のとき、父に内緒でレスリングの道場に入門した。「驚かせてやろう」という子ども心からだったが、その姿を見た父はこう叱責したという。

「おまえにはまだ早いからやめなさい。バスケットボールをやりなさい」

父・ムンフバルトさんに抱かれて笑う、2歳ごろの白鵬(右)。左は3番目の姉

 なぜ怒られたのかわからなかった。だが後年、勝負の世界に身を置くようになって、あのときの父の真意が理解できた。

「まだ身体ができあがっていないなかで、負けて自信をなくしてしまったり、レスリングを嫌いになったりしてほしくなかったんだなと。私のことを考えて、怒ったのだと思います」

 父もまた、息子に期待していたのだろう。だからこそ、可能性を狭めないように、大切に育てていたのかもしれない。

 しばらくバスケットボールに夢中になったムンフバト少年に転機が訪れたのは、15歳のとき。知人である大相撲力士の旭鷲山が関わっていた、力士を目指す母国の少年たちを日本へ連れていくツアーに参加することになったのだ。

小学生のころの白鵬。モンゴル相撲の衣装を身に着けて

「当時の日本の印象は、母が大好きだった『おしん』を見ていた影響もあって、『貧しい国なの?』と思っていた。でも、当時モンゴルで放送されていた『ラブジェネレーション』(フジテレビ系)を見ると『すごい華やかで都会だな』って。『どっちが本当の日本なの?』なんて思っていましたね(笑)」

 たどり着いた先は、そのどちらでもない大阪府大東市にある、実業団相撲の名門・摂津倉庫。ムンフバト少年を含む7人は、6階の宿舎で寝泊まりしながら、3か月間、週3回のペースで稽古に励み、稽古のない日は大阪の街を巡る─いわば、体験留学のようなツアーだった。白鵬自身も、「私も父も、3か月で帰国するものだと思っていた」と振り返る。

 だが、しばらくすると、仲間の3人がスカウトされる。すでにモンゴル国内では、旭鷲山、旭天鵬が国民的な人気を誇っていたこともあり、日本の大相撲は、腕に覚えのあるモンゴルの少年にとって一攫千金の夢舞台でもあった。

「当時、私は175センチ、62キロしかない。日本語も話せないから、自分をアピールすることもできない。3か月たっても声がかからず、帰国のための飛行機のチケットをもらいました。公衆電話から両親に電話して、『オリンピック選手になりますから、いい先生を紹介してください』と伝えた」

 その日、声がかからなかった少年たちをねぎらうため、「さよなら食事会」が開かれたという。

「認めてもらえなかった」

 何ともいえない悔しさを抱えながら、宴席で思いを巡らせていると、一本の電話が摂津倉庫会長・浅野毅氏のもとにかかってきた。当時の宮城野親方(元幕内・竹葉山)からだった。

来日して3か月間、稽古をしながら各部屋からのスカウトを待った白鵬(左)

「親方は私のことを見ずに、“若い”という可能性だけを買って、声をかけてくれた」

 モンゴルの両親のもとにも、「息子さんの入門を許可していただけますか?」という連絡があった。宮城野部屋には、モンゴル出身の龍皇(最高位西前頭八枚目)がいたこともあり、孤立することはないだろうと父も首を縦に振った。

「当時は体格基準があったので、新弟子検査に間に合うように『ひたすら食べろ』と言われてね。関取より先にごはんを食べて、あとは寝るだけ。こんな楽な仕事があるんだなと驚いた」

 わずか1か月半で体重は18キロ増え、無事、新弟子検査に合格した。

「その日を境に、それまで優しかった先輩はいなくなったね」

 遠い記憶をたどるように、白鵬は微苦笑した。

『涙そうそう』を聴いて日本語を覚えた

 朝起きると、30分から40分、ひたすらぶつかり稽古をする。息が切れ、土俵に突っ伏していると、口の中に塩をねじ込まれる。

「しょっぱさで身体が飛び上がるんですよ。起き上がったところに冷水をぶっかけられる。不思議と頭がすっきりして、身体がまた動く。この繰り返し。一日に3回は泣いてました(笑)」

 何不自由なく育った白鵬を待ち受けていたのは、異国の地での厳しく独特な稽古だった。それが、彼にとって容易に乗り越えられる試練でなかったことは想像に難くない。

「逃げ出したら、父の名誉に傷がつく。強くなるしかない。それだけでした。土俵で泥だらけになる分だけ、つるつるだった心臓に毛が生えていった」

宮城野部屋に入門したころの白鵬。175センチ、62キロだった

 日本語は、夏川りみの『涙そうそう』を繰り返し聴いて、徐々に覚えていった。

「沖縄の歌だからゆっくりで聞き取りやすかった。癒されたね」

 夜になると、また朝稽古が始まると思って、自然に涙が流れてきた。その経験があるからこそ、

「62キロで入門しても強くなれるということを、私は証明できたと思う。だから、簡単に諦めないでほしい。そういうメッセージも発信していきたい」

 そう言って破顔する。

 身体はまだ十分にできあがってはいなかった。だが、師匠である当時の宮城野親方は、雑誌のインビューでこう振り返っている。

「まわしの切り方とかおっつけとか、普通の力士が1年かけて覚えることを半年で身につけた」

 父譲りの抜群のセンスに加え、なかなか土俵を割らない天性の柔らかさ、100メートルを12秒台で走る瞬発力があった。「ひょっとしたら大化けするかもしれない」。願いを込めて、柏戸と大鵬、2人の大横綱から名を拝借し、「白鵬」という四股名がつけられた。柏鵬にしなかったのは、「万が一、大成しなかったら」という理由だが、今となっては杞憂だろう。

「でもね、私の初土俵は3勝4敗で負け越し。75人いる歴代横綱の中で、負け越しデビューをしたのは、宮城野部屋をおこした吉葉山、初代若乃花、そして私の3人だけ。『横綱になるぞ』と意気込んでいたけど、遠い夢に感じてしまった」

白鵬、2001年の初土俵入り

 躊躇なく鍛錬の日々に身を投じた。舞の海や千代の富士といった、決して身体の大きくない力士の映像を幾度となく見返し、身体の使い方を磨いた。日本語が理解できるようになるにつれ、親方、兄弟子の教えがさらに深くわかるようになった。18歳10か月という若さで新十両に昇進すると、異例の早さで番付を駆け上がっていった。

「宮城野部屋は、稽古が終われば、先輩たちが『おまえのためだぞ』とねぎらうように肩に手を置いてくれる、そんな温かさのある部屋だった。小さな部屋だったから、私は成長することができたと思う」

 実は、来日していた15歳のムンフバト少年は、ある大きな部屋からも関心を寄せられていたという。だが、浅野会長は、「その部屋では続かない」と判断し、白鵬に伝えることなく、申し出を断った。

「もしその部屋に入っていたら?」と尋ねると、「大きな部屋だから勝手が違うからね。つぶされていたかもしれない」。

 人や環境に恵まれたからこそ─。その大切さを、白鵬は身をもって知っている。

名横綱・大鵬さんの言葉に励まされるも……

 192センチ、150キロまで「身体」は大きくなった。さらには、立ち合いで左足を大きく踏み込み、低い姿勢から左腕でサブマリンのように相手の上手を取る。自らの型を見いだし、「技」を極めると、破竹の勢いで白星を重ね、ついに22歳で横綱昇進を果たした。父もまた、かつて22歳でモンゴル相撲の横綱に上り詰めていた。

 22歳2か月での横綱昇進は、北の湖、大鵬に次ぐ3番目の若さ。わずか22歳の青年が、横綱としての品位を求められる─。私たちが、なじみのない国で、その国技のチャンピオンになり、特有の姿勢を求められると想像したらわかりやすいだろう。

「大関から番付が一つ上がったくらいだろうと考えていたんですよね。ところが、どうやらそういうことではないらしい。不安になって、大鵬さんを訪ねました」

 当時、歴代1位の幕内優勝32回を誇る大鵬は、白鵬にとって尊敬する大先輩でもあった。「心」を学びたい。2人の会話は、実に5時間に及んだという。

「大鵬さんは、『横綱は宿命なんだ』と話されました。『横綱というものは、勝たなければいけない。勝てなければ、引退しかないんだよ』とも。横綱の負けは、死を意味するほど重いものだと気がついたんですね」

2007年5月、白鵬の横綱伝達式のもよう。両親もモンゴルから駆けつけた

 その言葉は、横綱としての覚悟を教えてくれた一方で、白鵬の心に重くのしかかった。勝つことが使命であり、負ければ引退につながる。そう考えると、「土俵に上がること自体が恐ろしく感じられる日もあった」と漏らす。

「国技館に向かうときに交通事故に遭えば、『土俵に上がらずに済むかな』とか考えましたよね」

 横綱の土俵入りには、邪気払いと安全祈願の意が込められているが、綱と化粧まわしを合わせると、その重さは22〜23キロほどになるという。

「付け人にまわしを締め上げられるため、腰の血管がほぼ止まった状態で四股を踏む。大鵬さんも話されていましたが、土俵入りは相撲二番分に匹敵する体力を使うと。全力で四股を踏み、かしわ手を打つ。すり足のときに足の裏の皮がむけることも珍しくない。場所中、横綱は一日に三番取っているようなものなんです」

 横綱の心持ちを、白鵬はこう表現する。

「大関の心は富士の麓。横綱の心は富士の山頂」

 誰よりも横綱として向き合っていた。盟友であり戦友でもある横綱・朝青龍が再三、品位を疑問視されたこともあり、白鵬は理想の横綱像を追い求めた。'10年1月に、朝青龍が暴行問題の責任を取り、引退すると、白鵬は一人横綱として、相撲界の重責を一身に背負うことになる。

筋肉の仕組みを研究して稽古をした白鵬

 その矢先、相撲界を激震が襲う。暴力団関与の指摘を含む「野球賭博問題」である。事態を重く見たNHKは、騒動直後の'10年7月名古屋場所のテレビ・ラジオ生中継を中止したほどだった。

「お客さんから厳しい言葉が飛んでくると思っていた。ところが、『白鵬、頑張れ』『相撲を取ってくれてありがとう』と声援を送ってもらって。うれしかったなぁ。『よし!』と吹っ切れた。言葉というのは大切なんだなと、改めて教えられましたよね」

 だが、この場所で全勝優勝を成し遂げた白鵬を待っていたのは、異例の表彰式だった。天皇賜杯などの外部表彰は行われず、賞状と優勝旗が授与されただけ。式はわずか5分で幕を閉じた。土俵上で、白鵬は悔し涙を流し、唇を噛んだ。

「自分を成長させると腹をくくって臨んだ場所でした。それだけにつらかったですね」

 2010年は、あの双葉山の69連勝超えに挑もうとしていた年でもあった。十一月場所2日目、稀勢の里に敗れ、連勝記録は63で途切れたが、スキャンダルではなく、横綱としての「強さ」で世間の注目を取り戻す─今思えば、単なる記録更新への挑戦ではなく、角界に向けられていた色眼鏡に対抗する、横綱としての矜持のようにも感じる。

 しかし、翌年2月に八百長問題が発覚すると、相撲界は再び混乱の渦中に引き戻される。三月場所が中止となる中、さらには東日本大震災が発生する。3月11日は、くしくも白鵬の誕生日でもあった。

 相撲協会は、6月4日から8日にかけて巡回慰問を行い、岩手、宮城、福島の3県10か所を訪れた。行く先々で、白鵬は鎮魂と復興を願う土俵入りを行い、その姿をひと目見ようと、多くの人が集まった。

白鵬翔 撮影/吉岡竜紀

 土俵入りはいつしか、人々の不安を和らげる「ハレの場」へと変わっていった。感慨深げに、白鵬が語る。

「岩手県の山田町立山田南小学校を訪れたとき、小学校の昇降口前で土俵入りをしたんですね」

 それまで同町では毎日、大小の余震が続いていたのだが、土俵入りの翌日から数日間はまったく余震がなかったという。「あの日、震災後初めてゆっくり眠ることができました」。電話口で謝意を伝える言葉を聞いて、「鳥肌が止まらなかった」と述懐する。

「この国と大相撲はつながっているんだなと。大相撲は単なるプロスポーツではないと感じました。相撲には、目に見えない力があり、土俵の神様は存在するのだと確信した。横綱として自分は何ができるのか。考えましたよね」

「私を好きでいてくれる人がたくさんいた」

「白鵬さんほど相撲を愛している人はいないのではないか」

 こう話すのは、画家の画狂人 井上文太さんだ。千葉県の地域紙『房日新聞』で、「大相撲歴代横綱絵巻」シリーズを発表するなど、日本の文化や伝統的な精神性を発信するアーティストでもある。

井上文太さんによる「白鵬」(c)画狂人BUNTAiNOUE

「大相撲について描いているときに、白鵬さんと知り合いました。交流を重ねていくと、白鵬さんは相撲やスポーツを通じて、日本人のよさを伝える人なのだと感じました。一方で、白鵬さんのような大横綱ともなれば、嫉妬の目を向けられたり、真意を歪めて受け取られたりすることもあったと思います。だからこそ、相撲の外側にいる人間が伝えられることがあると思う。僕は、絵を介して白鵬さんと日本の国技である相撲の歴史を世界へ伝えていきたいと思います」(井上さん)

 井上さんが言うように、相撲の歴史や横綱のあり方を語るときの白鵬は、真剣そのものだ。教養としての相撲を説明するだけではなく、哲学的に相撲を語れる言語化能力の高さは、今回取材をしたこちらが舌を巻くほど。異国の地から来た力士であることを忘れさせるほど、ひたむきに相撲と向き合ってきたことが、ひしひしと伝わってくる。

 筆者は、どうしても聞きたいことがあった。2013年11月の九州場所14日目。当時大関だった稀勢の里との一番で白鵬が敗れると、館内から「万歳」コールが沸き起こった。優勝がかかった一番というわけではない。日本人横綱の誕生を期待する、いわば「判官贔屓」の感情から、である。このとき、何を思ったのか? 少し間を置いて、白鵬が口を開く。

「一瞬、何が起きたのかわからなかったですよね」

2010年の野球賭博問題による相撲人気の低迷、2011年の震災の巡回慰問など、相撲界を牽引してきた白鵬

 そして、こう続けた。

「双葉山さんの連勝記録を69で止めた安藝ノ海さんが、師匠に報告すると、『勝って騒がれるより、負けて騒がれる横綱になりなさい』と言われたそうです。私も、そういう立場になったんだなって。そのうれしさと……不思議さがぶつかったような感じでしたね」

 朝青龍は、引退後のインタビューで、「僕はなんか日本というものに負けてしまったように思うのです」と披瀝している。そういった気持ちにはならなかったのだろうか。

「北の湖さんは強すぎたために嫌われて、本場所で懸賞金が出なかったこともあるらしい(笑)。そう考えると、自分はまだいいじゃないかと心を落ち着かせていましたね。人間は、新しいものが好きだから、飽きられるのは仕方のないこと。

 でもね、引退を決意した最後の名古屋場所のとき、花道でものすごい拍手をいただいた。私を好きでいてくれる人がたくさんいるんだなって思いましたよね」

 そう語る白鵬の表情には、泰然自若とした落ち着きがあった。

これから相撲を目指す若者たちのために

 白鵬は、2021年3月と5月に右ひざの手術を行い、同年5月の夏場所まで6場所連続休場と苦しい状況が続いていた。約1年ぶりの復帰となった七月場所。進退をかけて臨んだ場所で、千秋楽に照ノ富士との全勝対決を制すると、白鵬は土俵上で感情を爆発させた。

「死に物狂い」で戦い抜いた十五番。それは、「横綱の負けは死を意味するほど重いものだ」という自らの言葉を、土俵上で証明する戦いでもあった。

白鵬翔 撮影/吉岡竜紀

「横綱の品位は何か? 人それぞれだから、一概に答えることはできないんだよね。私は最初、品格は優しさだと考えた。ただし、土俵に入れば別物。鬼にならないといけない。私は、“抜く刀”と“抜かずに鞘に収めた刀”、両方を持っていたつもりです」

 立ち合いで変化をする、猫だましをする。「横綱らしくない相撲だ」と、厳しい批判を浴びた。だが、勝負に勝つためなら手段を選ばない、徹底した合理主義という意味では、あの宮本武蔵も同じである。

 双葉山を理想とし、相手の力を受け止めたうえで勝つという横綱相撲を体現してきた。だが、度重なるケガで理想とする取り口ができなくなると、「型をつくったのだから、型を崩す」と考えを改めた。長きにわたり、頂点を極めた者だからこそたどり着ける境地だったのだろう。

「私は入門当時の62キロの心身のまま、強くなるにはどうすればいいかを考えてきた。小さい相撲も大きい相撲も取ることができたから、これだけの優勝を重ねることができた。批判は覚悟のうえでした」

第16回世界相撲大会白鵬杯は今年2月、トヨタアリーナ東京で行われた

 白鵬は、横綱としての責任を果たしながら、土俵を去った。

「ボロボロになるまでやるんだと思われたくなかった。これから相撲を目指す若者が、そういう姿を見て、寂しさを感じてほしくなかった。私なりに考えて決断したことでしたが、考え方が違う相撲協会とは、結果的に少し距離が生まれてしまったかもしれない」

 親方になるために帰化したが、白鵬は自らの夢のために退職を選んだ。

 今年2月に行われた「第16回 世界相撲大会 白鵬杯2026」。会場となった「トヨタアリーナ東京」に白鵬が姿を現すと、たちまち人だかりができた。記念撮影に応じながら、冗談を交えて楽しそうに言葉を交わす。終始、和やかな空気が流れるその姿に、重圧やしきたりから解き放たれた、横綱昇進以前の白鵬翔の面影が見えた。

 横綱として約14年、親方として約5年。十分、「日本の白鵬」として道を歩いてきた。だからこそ、これからは「世界の白鵬」として、新たな道を歩む。

 朝青龍や日馬富士のように、モンゴルで独自の道を拓くこともできただろう。

 だが、白鵬は私たち取材陣を真っすぐに見つめて、はにかむように言った。

「相撲を愛してますから」

 彼は、まだ土俵の上にいる。「相撲を広めるため」に躍動している。礼に始まった相撲人生だからこそ、礼に終わる相撲人生でありたい─。

「これからもっと忙しくなりますよ」。自らに言い聞かせるように力強く発した言葉は、相撲が世界のスポーツとして花開くことを予感させた。

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あづま・ひろたか フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクション勤務を経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(共に星海社新書)がある。

取材・文/我妻弘崇 撮影/吉岡竜紀 ヘアメイク/橋本京子