笑い飯・哲夫(撮影/吉岡竜紀)

「生きていると苦しいことがいっぱいある。仏教で“一切皆苦”というんですが、苦しくないなんて人、いないと思います」

 と穏やかな口調で語るのは笑い飯の哲夫。シュールなネタで人気を博す彼だが、実は仏教にも造詣が深い。神社仏閣が身近に点在する街で育ち、「物心ついたころからお経が好きで。なんか不思議やし声もカッコええなあと思っていた」という。

 そんな彼が、3作目となる小説を上梓した。タイトルは『頭を木魚に』(主婦の友社)。テーマは、仏教の主題でもある“苦しみをどう乗り越えていくか”。

 主人公のタクシー運転手が会社の方針という名の欺瞞の犠牲になり、身に覚えのないぬれぎぬを次から次へと着せられていく物語だ。

 苦しみを書く本人にも、思いがけない出来事が。

「8割書いたあたりで全部消去しちゃったんです。電車の中で書いていたんですが、『地面師たち』で頭を踏みまくるシーンみたいに、これでもかってくらい頭で何度も消去ボタンを押してたんだと思う(笑)」

 漫才に小説、仏教、教育、農業。いくつもの仕事を掛け持ちする哲夫の原動力は何なのか。

引っ込み思案の少年が、帰り道の大喜利では主役に

2000年にコンビ結成。相方の西田との共通点は「家庭環境が良かったところ」だという

 '74年12月25日、奈良県桜井市に生まれた哲夫。実家は代々続く農家で、両親と姉、祖父母、幼少時は曽祖父母も一緒に暮らしていた。近所には日本最古級の巨大前方後円墳として有名な箸墓古墳をはじめ、歴史的遺物が多数。桜井市は、古代ヤマト王権の中心として栄えた“日本の始まりの地”といわれている。

「“日本はうちの地元から始まった”というのは、やっぱり誇らしいですね。箸墓古墳は、畿内説だと卑弥呼の墓という説もあり、市のマスコットは“ひみこちゃん”という女の子のキャラクターなんですよ」

 幼少期は外で元気に遊ぶわんぱく男子。

「自転車で手を離してどこまで行けるかを、よくやってました。あと河原にザリガニを捕りに行ったのに、タニシばっかり拾って帰ってきたり。でも、タニシはいらないから、その後ほかしに(※捨てるの方言)行くという(笑)」

 小1のころ、自転車でよく走っていたのが箸墓古墳の外周。そこで、不思議な現象に気づいた。

「子どもってバイクみたいに自転車を傾けて走りたいんだけど、かなりスピードを出さないとできないんです。それが、前方のくびれているところだけ傾けることができて。“古墳パワーや!”と思ってました」

 大人になり、テレビ番組で地元の人に聞いてみた。

「不思議なことを検証する番組で取り上げてもらって、聞き込みをしたんです。“あそこって古墳パワーありますよね?”って。そしたら“おまえ、あそこ下りやぞ”って。そういえば、逆方向に走ったことなかったなと(笑)」

お笑いへのこだわり

笑い飯

 お笑いへのこだわりも、すでにこのころから。

「異常なくらい好きだったんですけど、バレたらあかんと思ってたんです。で、周りで笑かしてる子を“テレビで言ってんのをそのまま言ってるだけやん”って見てた」

 当時、好きだったのはドリフターズや新喜劇、漫才など。

「高学年になると周りはひょうきん族に転向していったけど、僕はしぶとくドリフ派で。ひょうきん族は、みんな大人のフリして笑ってんちゃう?と疑ってました。大人になって見たら、やっぱり面白かったです」

 お笑い好きを隠していたことからもわかるように、引っ込み思案だった哲夫。友達も多くなかった。

「両親が二人とも目立ちたくないタイプで、小4までその影響を受けていたのかも」

 変化が訪れたのは、小5のとき。市のサッカークラブに入りメキメキ上達したことで、体育の授業で憧れの的になる。

「ほかにやっている子がいなかったので、チヤホヤされだして。友達も増えていきましたね」

 勉強のほうはどうだったのかというと。

「小学校では何にもしなくて、ほんまにアホでした。でも姉ちゃんから“中学は中間テストと期末テストがあるから、めっちゃ勉強せなあかん”と言われて。それで最初の中間テストでめちゃめちゃ勉強したら、びっくりするくらいええ点が取れたんですよ」

 猛勉強は、あっさり結果につながった。ところが、勉強ができるようになった途端、別の難題が降りかかる。うれしさのあまり隣の女子に点数を見せると、後日、男友達から「点数自慢して、あの子に嫌われてるで」と告げられたのだ。

「可愛くて有名な子だったんで、“あんな可愛い子に嫌われてるの!?”って落ち込みました。それから点数のところを三角に折って隠すようになったんです」

 だが100点のときにも折っていたら、その女子が「全部マルなのに折り曲げてる」とコソコソ。

「どうしたらええねん、と。中学は捨てようという気持ちになってましたね」

 そんな彼の心に火を灯したのは、高校サッカーのテレビ番組。中学にはサッカー部がなく、部活ではできずにいた。県内トップクラスの公立高校が活躍する姿を見て、「ユニフォームもサッカースタイルもカッコいい。ここに行こう!」と決意。猛勉強の末、'90年、県立奈良高校に合格した。だが、入ってみると……。

「自分がいちばんうまいだろうと思ってたら、いちばん下手で。しかも、ユニフォームが替わってたんですよ。何しに来たんやろ、と(笑)」

 3年間、レギュラー入りはかなわなかった。それでも、部活の帰り道には出番があった。

「みんな面白い子で、帰りに大喜利をしてたんです。そのときだけはウケまくってレギュラーでした」

今も続けているサッカー

2002年にM-1初出場したときの笑い飯(左端)。初登場時は3位で「パン工場」と「トーマス」というネタを披露した

 サッカーは今も続けている。吉本興業の後輩でフットサルのチームメイト、「ギャロップ」の林健がプレー中の様子を教えてくれた。

「競技の邪魔にならない場面でお約束のボケを披露する以外はまじめなプレーで。昔のように身体が動かないことを自分で笑うなど、周囲を温かい気持ちにさせる、優しいお父さんのような雰囲気ですね」(林)

 勉強は、「中学でやり切った感があって、そんなにやらなかった」と言うが、日本史は好きで熱心に学んだ。

「歴代総理大臣を覚えるように言われて、間違えて歴代天皇を覚えちゃったんです。でもそのおかげで、古代から現代までを整理して理解できるようになりました。結構オススメですよ」

 学生時代を通して「ずっと先生に恵まれてきた」と語る哲夫。今でも交流が続いている恩師に、高3で古典を教わった大石健一さん(現在、奈良県教育長)がいる。

「“当てられたら、わからんでもええからボケろ”って。ボケなかったら怒る、めっちゃ面白い先生だったんです」

 大石さんに聞くと、教室全体が笑いを競う場だったようだ。

「私の授業は大喜利のようだったとよく言われるのですが、生徒たちはどう答えて笑いをとるかに一生懸命になっていましたね。みんながウケを狙っていたので、授業で哲夫が特別に目立つということはありませんでした」(大石さん)

 部活の帰り道ではレギュラーでも、教室ではなかなか独走できなかったらしい。

 文学との出合いもあった。高1のとき、友人から太宰治の『人間失格』をすすめられたのだ。

「すごく面白かったんです。小学生のときに感じていた気持ちを、主人公も抱えてる。自分も、おどけて心の中を隠してたなって。そこから純文学を中心に、読みあさるようになりました」

「こんな面白いヤツが売れないわけがない」

結成当初から「Wボケ」の独自スタイルを貫き異彩を放っていた笑い飯

 '94年4月、1浪で関西学院大学に入学。関西難関私立大学“関関同立”の一つだが、胸中は複雑だった。

「バチが当たるかもしれないけれど、学費が高い大学に通っているのが嫌やったんです。親に申し訳ないという気持ちが強かったですね」

 “親のスネをかじって浪人はできない”と、予備校時代に“小遣いもらわん宣言”。そこからバイト人生が始まり、大学でもさまざまなバイトを経験した。

 専攻は哲学。教職課程も取り、母校の奈良高校へ教育実習に行った。さらに、お笑い活動もスタート。2年生でお笑いサークルをつくり、「スキップ」というコンビでオーディションを始めた。そこからインディーズライブや東京の事務所が大阪で開催するライブに呼ばれるようになっていく。

 芸人の道を考え始めたのは中学生のころだ。

「自分のことを世界一面白いと思っていたから、プロになるべきだと考えたのがいちばんデカいんですが。もうひとつの要因に、中学のときに見た地球温暖化の映像があります。すごい恐怖だったんですよ。絶対にこうなってはいけない、どうやったら阻止できんねや、と考えた結果“発言権が必要だ、そのためには目立つ存在にならないと”って思ったんです」

 就職活動では吉本興業の入社試験も受けた。吉本のライブにあまり出られなかったので、まず社員になり吉本タレントへ、という方法を思いついたのだ。だが、志望動機で「漫才がしたいため」と答えると、「来るところ間違ってるで」と手渡されたのがNSCのパンフレット。

「それで一応、記念受験したんです。でも面接が高校の友達と毎年行ってる旅行の日で。後日、面接に行ったら“一生やりたいお笑いと旅行、どっちが大事?”と聞かれ、旅行と答えたら落ちました。NSCの試験ごときでなんで旅行の日程を変えなあかんねん、と(笑)」

 '98年3月、大学を卒業。就職はせず、親には「教員の枠が空くのを待ってるという雰囲気を出して(笑)」、バイト&お笑いライブの忙しい毎日を送る。

「友達は就職したので、居酒屋で給料の話をするんです。僕はバイトしかしてないけど、みんなを上回るくらい稼がんと嫌やと思って、めちゃくちゃバイト入れてました。そのおかげでスケジュールがうまく組めるようになって、今でも助かってます」

 定職のない生活でも、本人に焦りはなかった。

「こんな面白いヤツが売れないわけがない、絶対に売れるっていう途方もない自信がありました」

 大石さんは、「芸人になるとは、高校時代は想像もしていなかった」と言う。

「大学在学中にお笑いの道に入ったことは知っていましたが、ものになるかはわからないので、たまに飲みに誘って様子を見ていました。ライブをのぞきに行ったこともありますが、なかなか売れず心配でしたね」(大石さん)

共に過ごした「千鳥」の大悟とノブ

結成当初から「Wボケ」の独自スタイルを貫き異彩を放っていた笑い飯

 売れる前の日々を共に過ごしたのが、「千鳥」の大悟とノブだった。大学入学を機に一人暮らしを始めた哲夫は、1年の冬、阪神・淡路大震災を経験し実家へ戻った。'99年ごろからは、大悟の家に入り浸るようになる。

「ノブや西田(幸治)くんと勝手に転がり込んで。“何しよんねん”と言われたくて、服借りてスキー行ってました(笑)」

 哲夫の車で、4人そろってドライブにも出かけた。買い出しひとつにも、ボケとツッコミは欠かせない。

「コンビニで車を止めてノブに買い出しを頼むんです。ノブは置いていかれるのをわかりながらも“はいはい”と買いに行く。“待て待て!”をしたいんですよ。僕らはそれをわかってるから、車のドアを開けてきっちり待っててあげる。で、ノブが戻ってきて“行けよ!!”ってツッコむんです(笑)」

「一生やってくれる人」とつかんだ9回目での王座

結成当初から「Wボケ」の独自スタイルを貫き異彩を放っていた笑い飯

 2000年、「スキップ」の相方がやめることになり解散。その後すぐに、西田幸治と「笑い飯」を結成した。

「次は一生やってくれる人とやらんとなと思ったんです。同じころ、一緒にライブをやっていた西田くんのところも解散して。前から仲良かったし、一生やってくれる人やと思って組みました。僕にとって、彼は共同作業者。二人で漫才してお客さんがワーッと笑ってくれると、すごい高揚感があるんです」

 結成後しばらくは、一緒に奈良の春日大社へ初詣に行っていたという。だが、知名度が上がるにつれ、だんだん行きづらくなった。

「すごく混んでるんで、離れ離れになるんですよ。そしたら“あっちにいるの笑い飯や”“もう一人は前におる”とかコソコソ話してるのが聞こえてきて。でも、満員電車みたいな混み具合だから動けないんです。それから行かなくなりましたね」

 これほどお笑いに打ち込んでいたのに、両親には長く秘密にしていた。

「引っ込み思案の両親なので、ずっと言ってなかったんです。僕にとって“お笑いやりたいねん”は“ここにエロ本入れてんねん”と同じくらいの言いにくさだった」

 伝えたのは'02年。読売テレビ出演が決まり、放送1週間前に告げた。

「めちゃくちゃ驚いてました。でも反対も何もすぐテレビに出ちゃってたんで(笑)」

 その後しばらくして、ある番組の『一緒に飲みに行ってくれる先輩ランキング』で1位になった哲夫。それを見た父が喜んでいたと知り、うれしかったという。

「“哲夫は慕われとるな”と言ってたのが印象的でした。こういう親孝行の仕方もあるんやなあって」

哲夫の面倒見のよさを知る後輩

 後輩の林も、哲夫の面倒見のよさを知る一人だ。

「初対面は大勢で居酒屋にいるとき。お笑い界の異端児で非常に面白い先輩というイメージだったので、緊張や怖さでかなり身構えていたんですが、意外にも普通の面があり話しやすかったです。後輩に丁寧にお笑いの話をして泣かせている姿やスケールの大きなお笑い観に触れ、とても勉強になると感じました」(林)

 そのお笑い観の根底には、「幼少期にドリフや(ビート)たけしさんに笑わせてもらった分、今の子どもたちにも自分たちが魅せていかなければならない」という思いがある。

 '01年に吉本興業所属となり、'02年に早くも『M―1グランプリ』決勝に初出場。最終決戦まで進み、注目の的となった。笑い飯の前に組んでいたコンビで共にボケだったことから生まれたWボケスタイル。予測不能なボケの応酬と摩訶不思議な世界観で、一躍、風雲児となる。M―1決勝にも毎年、出場。しかし優勝にはなかなか届かず、かなったのは9回目、'10年のことだった。

 大石さんは「毎年、当時の教え子に“応援したってや”と伝えていて、優勝したときは本当にうれしく思いました」と語る。だが当人は、

「決まった瞬間に今までの苦労が走馬灯のようによみがえる、なんてことは全然なく。“スリムクラブが優勝すると思ってたのに、俺らに入れてくれてる人がこんなにも”って、意外でした」

 9年越しの栄冠にも、いつもの調子だった。

 予測不能なネタを生む想像力は、幼いころの遊びで育まれた。

「小さいときから想像ばかりしていたんで、そこには自信があるんです。あと幼稚園のころ、おばあちゃんが親戚からもらってきたレゴブロックがすごくよかった。説明書がないので、自分で勝手に作ってたんです。優勝してからもおばあちゃんがよう言うてました。“私がブロックもらってきたから、こんなふうになれたんやで”って」

M-1の賞金で塾を開校。教育は、若者全員への投資

飄々として、どこまでが本音なのかわからない。それでも根底にある優しさは一貫して伝わってくる(撮影/吉岡竜紀)

 M―1の賞金は、次の世代のためにも使った。きっかけは吉本社員との雑談。「小5の子どもの塾代が月6万円」と聞き、驚いたのだ。

「僕のときは中3で毎日行って2万やったのに、週1で6万って高すぎやと。これでは金持ちの家の子しか行けないし、格差がどんどん広がってしまう。教育は機会均等であるべきで、所得にかかわらず通える施設があったらええなと思ったんです」

 '14年、M―1の賞金で「寺子屋こやや」を大阪に開校。小3〜中3を対象にした個別・補習塾で、授業料を低く抑えた。ホームページには「わかるまで丁寧に教えてもらえる」「先生がみんな優しくて面白い」などの声が並ぶ。

 教職課程も履修した哲夫。恩師の大石さんも「教師に向いていると思う」と語る。

「知識が広く、好奇心旺盛で話も上手。昨年度も、奈良県の高校生への環境教育イベントで話をしてくれましたが、生徒の扱いもうまく、いつでも奈良県で採用したいと思っています」(大石さん)

 ただし、教育実習にはこんな一幕も。当時、3年生の担任だった大石さんは、通常は実習生が担当しない3年生のホームルームを、哲夫に1時間預けたという。

「“面白い話をやってくれ”と言ったんですが、私の前フリがよくなかったのか、まったくウケず、私が“今日は調子が悪いみたい”とタオルを投げたように思います。なお哲夫の名誉のために申し添えますと、文化祭では当時のコンビで漫才を披露してくれて大変ウケていました」(大石さん)

 だが、哲夫は「ホームルームもツカミはウケたんですよ〜」と反論。当時流行っていたドラマ『GTO』('98年フジテレビ系)をもじって大ウケしたのだとか。

 実習にあたって掲げたのは、次の3つの目標だった。

「女子生徒にモテる、ヤンキー生徒と格闘する、登校拒否の生徒がいたら来させる。すべてかなえました!」

 教壇でも、目標はずいぶん欲張りだった。

舞台を降りれば4児の父 田畑を耕し、家族を育む

「おもしろ仏教講座」や「楽しく学ぶ日本の古代史」などのテーマで全国各地で講義をしている

 私生活では'16年に結婚し、今年6月に4人目の子どもが誕生。一緒に遊び、一緒にお風呂に入る愉快なお父さんだ。

「最近、子どもが脇の下でブーってオナラみたいな音を鳴らすのにハマっていて。僕は人一倍大きな音が出るんで、憧れられてます」

 教育方針は、

「命の危険に関わることがあったら、『スクール・ウォーズ』方式でどつきます(笑)。あとは、ご飯粒は残さず食べなさい、とか。“お父ちゃんのご飯、おいしい”言うて、きれいに食べてくれますね」

 子どもたちが食べる米も、自ら育てたものだ。10年前から父の後を継ぎ、米や季節の野菜を作っている。田植えや稲刈りには後輩が手伝いに来てくれるが、基本的には一人で作業。仕事の合間にも雨雲レーダーを見て、農作業の予定を組む。

 ここ数年は高温と雨の少なさが悩み。長年、一等米の評価を受けていたお米は、あまりの暑さできれいに育たなくなってしまった。ピーマンも、以前は青々とした大きなものが出荷できていたが、最近はすぐ赤くなる。また、アライグマも困りもの。

「トウモロコシやスイカを食べていくんです。捕獲用の柵にも全然入ってくれない。子どもは待ち遠しいらしく、“アライグマおった?”って、よく聞いてきますね」

 畑では困りもののアライグマも、子どもたちには気になる存在らしい。そう話す哲夫の目が細くなる。

次の世代に地球を残し、しんどい日々に笑いを届ける

 自身を“せこせこしたい性分”と分析する哲夫。

「いつも何かやっていたいし、エスカレーターを使わず階段を2段飛ばしで上がったりもしますね」

 吉本に「休みはいらない」とも伝えている。それは、仕事が終わってから次の仕事までを休みと考えるから。

「1泊2日の旅行って、1日目は楽しいけれど2日目に寂しくなる。休みも終わるとき切ないんです。だったら、毎日仕事で合間を休みと思っているほうが切なくならないなという、意識改革ですね」

 現在、51歳。60代に向けて何を思うのかと尋ねると、「二酸化炭素を減らす装置を発明する若者が出てきてほしいと日々願う人生です」。中学生のころに感じた危機感は、今も薄れていない。

「僕は話すことしかできないので、発明や、開発する人を支えたいというか。なので教育は若者全員への投資なんです。格差で教育に差がついたら、発明できたかもしれない子がこぼれ落ちてしまう。みんながしっかり教育を受けて全体のレベルが上がれば、可能性も高まる。次の世代にちゃんとした地球を残すことって使命やと思うんです」

 そんな哲夫を「本当に可愛くて尊敬もできる、自慢の教え子」と語るのは大石さん。

「忙しいのに義理堅く、先日も教え子と飲んでいると、疲れているだろうに仕事終わりに駆けつけてくれました。これからも精進して、みなさんに愛される芸人になってほしい。もうなっているかもしれませんが」(大石さん)

 林にとっては「哲夫さんは、自分にとって“お笑いの法”のような存在」だという。

「ラクなお笑いに走りそうになったとき“哲夫さんが見たらどう思うだろうか”と頭をよぎります。哲夫さんが笑ってくれると安心し、逆に返しを間違えたときは焦りを感じる。いつ見られても恥ずかしくないお笑いをしていたいと思わせてくれる、尊敬する先輩です」(林)

 最後に、哲夫にとってのお笑い哲学を尋ねると。

「なぜ日本で芸、特にお笑いがこれだけ発達しているか。諸説あるうちの一つに、災害が多いからという理由があるんです。長い歴史の中で、みんながしんどい目にあってきた。そんな状況でもフワッと笑えたらええやんって。今も地震や水害など大きな災害が頻発していて、営業で被害にあった場所へ行かせてもらうこともあるんです。そこでちょっと笑って英気を養ってもらえたら、すごくいいなあと思うんですよね」

 舞台に立ち、原稿を書き、雨雲レーダーを見て田畑へ向かう。

 次の世代に、少しでもいい未来を残すために。そして、今日しんどい誰かに笑ってもらうために。哲夫は明日も、せこせこ動き続ける。

独自の哲学とユーモアが到達した愛と悟り、そして執着の物語を描いたという長編小説『頭を木魚に』(主婦の友社)。読んだ人の分だけ結末があり、正解があるという。読後に誰かと語りたくなる一冊だ(※書影クリックでAmazonの販売ページへ移動します)

<取材・文/今井ひとみ>

いまい・ひとみ ライター。エンタメ誌、『週刊女性』を経てフリーに。多くの著名人の取材、人物ルポをこなす。
スタイリスト:黒田匡彦 衣装協力:Losguapos for Stylist oldsummer&co.