梅雨の終わりを告げる雷が時折、六本木の東の空に轟く。もうすぐ大好きな夏がやってくる。
友人のバースデー・パーティーが始まってしばらくたったころ、集まっていた仲間の目が、遅れてやってきた2人の男性に釘づけになった。
人目を引かずにはいられないほどの美しい2人の男性の動きを安藤和津は、ずっと目で追っていた。特に紺地に白のストライプのトレーナーにジーンズ姿と、このパーティーにあまりにも似つかわしくない服装の男性に、つい目がいってしまう。
奥田瑛二との摩訶不思議な縁
ドナ・サマーの曲に乗って踊っているフロアの男女をぼんやり眺めながら、1人、ウオッカトニックを飲んでいるちょっと陰のある男性。それが当時28歳になったばかりの奥田瑛二だった。
仕事を尋ねると、
「僕は文学座の俳優です」
そうは言っても舞台には出ていないようで、出演している子ども番組『スポーツケンちゃん』(TBS系)と『がんばれ!レッドビッキーズ』(テレビ朝日系)の名前を挙げた。文学座の俳優が子ども番組!? この疑問は的中! 文学座は真っ赤な嘘だった。
しかし思いがけないほど饒舌に話し続ける彼の勢いにのまれ、すっかり意気投合。2次会にも繰り出し、気がつけば帰る方向が同じ彼とタクシーに乗っていた。
すると彼は迷わず、
「恵比寿経由で六本木まで」
自分が先に降り、当たり前のようにタクシー料金を払わせようとする。
─なんてヤツなの!?
和津の頭はクエスチョンだらけ。しかし傍若無人の行いはこの時だけではない。
その後、喫茶店で待ち合わせをしても、必ず先に来て食事をし、支払いの段になると姿を消し、和津がカレーライスやスパゲティ、ピラフなどの支払いをする羽目になった。
しかもただの一度も「ありがとう」を言わない。
問い詰めると、いろいろな事情で下宿には戻れず、友人の家や、時には代々木公園で寝泊まりをしているという。つまりは“ホームレス”であることもわかった。
これがお金のない生活に慣れている奥田と、お金のない生活の怖さを知らない和津の出会い。
こんな2人がなぜ結ばれたのか。神様は時に気まぐれ。摩訶不思議な縁を結ぶ。しかし、それは決して偶然などではない。だから人生は面白いのだろう。
弱冠27歳で料亭を始めた母
昭和23年3月6日。江戸の昔から格式のある花街として知られる台東区柳橋の黒塀に囲まれた家で、和津は婚外子として生まれた。
「母の昌子はもともとは裕福な商家の長女に生まれましたが、祖父が知人の莫大な借金の保証人になったことから一家は窮地に陥りました。
祖母はショックのあまり持病のリウマチが悪化し寝たきりになり、その上祖父は女性と駆け落ち。家族を支えるため、母は女学校を1年で中退して花柳界に身を投じる決断をしたのです」
そんな母・昌子の情のある温かさと、愛情の純真さに心奪われたのが後に吉田茂内閣で法務大臣を務めることになる犬養健である。
2人が出会ったのは、昌子21歳、犬養48歳のとき。静かに愛を深め、数年後、父は母ともうひとつの家庭を持った。そんな2人の間に生まれたのが和津(本名・和子)であった。
「その翌年、父に頼るだけではいけないと決心した母は、弱冠27歳で料亭を始めました。
さらに黒塀の料亭が繁盛して手狭になったことから30歳のとき、女手一つで私を育てる覚悟で銀行とかけ合い、隅田川沿いに建坪160坪の数寄屋普請の料亭『をぎ乃』を開きました」
熱い生きざまからもわかるように、昌子は典型的な江戸っ子気質。政財界の要人であるお客様に対しても、おべんちゃらなどは言わず、酒も飲めない働き者は一方で、実は情に脆かった。
「年の瀬にはよく芸者衆や使用人が借金を申し込みに来ましたが、嫌な顔ひとつせず“あげたつもり”で気前よくお金を渡していました」
そんな母の血を色濃く受け継ぎ、波乱に満ちた人生を歩んできた和津。だが小さいころは、ひどい虚弱体質だった。
母親からの“監視”を一身に受けた幼少期
そのきっかけになったのが、5歳の春に遭った交通事故。料亭の表玄関の近くで遊んでいた和津は、オート三輪に轢かれ、左肩骨折と右大腿部複雑骨折。
なんとか一命は取り留めたものの今でも右の太腿の真ん中に大きな傷痕が残っている。
「事故のせいなのか身体が弱く、昼間に十分な運動もできず、日光にも当たらない。家の中で本ばかり読んで過ごすような子どもでした。母親からは“過保護”という言葉では足りないくらい監視され、管理されていて。気がついたら無口で暗い子どもに育っていました」
毎日、窓に張りついて外の世界を眺めていた一人ぼっちの和津。友達からも、
「お大臣の和子ちゃんなんて入れてやんないよ!」
と除け者扱いされていた。“私だってピカピカの革靴ではなく、みんなと同じズックやサンダルが履きたかったし、駄菓子屋で買い食いもしたい”。
そんな悲しい気持ちに浸る毎日だったが、小学3年生のとき、除け者にされるたびに、自分のことのように憤慨していじめっ子を追いかけ回してかばってくれた友達のイッコちゃんが、見るに見かねて和津を駄菓子屋に誘ってくれた。
「夢にまで見たソースを塗ったぱふぱふせんべい、そして真っ赤なハタンキョウ(すもも)漬け。どんな高級なケーキよりおいしかった。
ところが口の中を真っ赤にして帰ってきた私を見て、“何食べたの!”と母に見つかり大目玉でした」
しかもバチが当たったのか、お腹を壊した挙げ句に高熱を出してしまう。それでも和津にとって、その夏の日は一生忘れられない思い出となった。
名字が違う父との思い出と後悔
大川べりの料亭「をぎ乃」は夏を迎えると川風が呼び物となり、店は大忙しとなる。母・昌子は店中を慌ただしく駆けずり回って手が離せない。
そんなとき、やってきた父・健は「菊の間」と呼ばれる居間でポツンとテレビを見ていることが多かった。
父のことは断片的にしか覚えていないが、会えば必ず、
「カコちゃん、抱っこしてあげよう」
と言って、あぐらをかいた足の間に座らされ、おかっぱ頭をなでながら、膝頭をポンポンと叩くのがお約束だった。そしておいしそうにウイスキーソーダを口元にゆっくりと運ぶ。
白髪の上品な英国紳士を思わせる父の記憶。それはグレーのフランネルのスーツと、ウイスキーソーダの匂いだった。
「幼いころ、“どうして私とママの名字はパパと違うの?”と言って母を困らせたこともありました」
そんな父が1年以上、わが家に姿を見せなかったことがある。中学1年の夏休み、久しぶりに父が療養中の箱根のホテルへ母と向かった。
「久しぶりに会った父は、枯れ木のように痩せこけ、何十歳も年をとったように見えました」
父は懐かしそうにニッコリと微笑んだ。
「カコちゃん大きくなったねぇ。おお、おしゃれなものを着てるね。ブルージーンズはアメリカの子どもたちがよく着るんだよ」
父に自慢のジーンズ姿を褒められ、すっかり気をよくした和津。ためらいや距離感の砦が少し取り払われた気がした。
次の朝、日差しが明るく眩しかったホテルのダイニングルームでの朝食。それは親子3人での、最初で最後の朝食だった。
長い夏の日差しが陰るころ、母と和津は父の暮らす英国風の家で安置された遺体と対面した。
「白い布が外されると、いつもと変わらない父の顔が現れました。ただ耳だけがなぜか葡萄色。その耳を見ているうちに涙があふれ、初めて父を愛おしいと思いました」
和津が9歳のとき、認知手続きを行ってくれた父。その意味の重さもわからなかった。
なぜ赤飯が炊かれ、母が涙ぐんだのかも理解できず、和津は周囲の雰囲気に反発さえ感じていた。
「ごめんなさい、パパ」
人の死の後の悔恨ほど苦しいものはない。
母親の眼鏡にかなった奥田瑛二だったが……
学習院初等科から学習院女子中・高等科を経て、上智大学へ進学。2年間のイギリス留学の経験もある和津を、モデルやタレントが出入りする六本木のディスコで、友達から紹介されたキャシー中島が振り返る。
「身に着けるもの、醸し出す雰囲気からひと目でお嬢様だってわかりました。英語が堪能で外国人のボーイフレンドとも楽しそうに話していましたね」
それがなぜ、お金のないホームレス生活を送る奥田瑛二と結ばれたのか。
2人のロマンスを語る上で、一卵性親子と呼ばれた母・昌子の存在を抜きにしては語れない。
「彼みたいなタイプは結婚相手の範疇におよそ入るわけもないし、年下だし、どちらにしても母もそうカリカリしないだろうと、私は高をくくっていました」
ほとんどのボーイフレンドが、ど迫力の“ゴッドマザー”の前に出るとプレッシャーから自分を飾らずにはいられなくなる。ところが素朴で真っ正直で何の飾り気もない奥田は、その母の眼鏡にかない、奇跡的にも家への出入りを許された。すると2日とあけずに、空っぽの胃袋を満たすためにやってくるようになった。
当時、友人が留守のときは代々木公園で寝起きする日々を送っていた奥田。“事件”が起きたその日も寝床に困っていた。しかも急に降り始めた雨は勢いを増すばかり。彼を追い出すわけにいかない和津は、苦肉の策を思いつく。
─自分の部屋の洋服ダンスに隠そう。
「翌朝、ジャズダンスのレッスンがあった私は、母がキッチンにいるタイミングを見計らって彼を連れ出そうとしたんです。ところが“眠いからもうちょっと寝かせて……”と言ってテコでも起きない。それが運の尽きでした」
和津が“バレませんように”と祈りながら、飛んで帰ると、奥田はマンションの入り口の階段にしょんぼりと座っていた。
「逆上した母に罵られ、引き出しの中にある、ありとあらゆるものを投げつけられ叩き出されていました」
これで2人の物語にもエンドマークが打たれるはずだった。ところが神様は気まぐれ。2人に劇的なラストシーンを用意していた。
虫歯がきっかけで結婚!? 摩訶不思議な縁
「洋服ダンス事件」以来、母の逆鱗に触れた奥田は出入り禁止となった。しかし安藤家でごはんが食べられない状況は、彼にとって死活問題。なんとか母の怒りを解く方法はないか。考えあぐねていた矢先、ある秘策を思いつく。
「奥田君と私は何もないことは母もわかっていたはず。あとは彼に信用回復の機会を与えるだけ。そこで思いついたのが麻雀というわけです」
50歳を過ぎて初めて覚えたこのゲームに母は夢中。そこでメンバーが1人足りない状況をつくり、母に奥田の参加を渋々承諾させた。しかし和津の秘策は思わぬ展開を招く。
「一度感情を爆発させた後は、不思議と親近感を覚えるもの。母は以前より彼を可愛がるようになり、私がお稽古で留守のときも、2人でデパートに行ったり、お茶を飲んだり愚痴をこぼす相手にもなっていました」
ところがそのころ、母が愚痴をこぼしていたのが和津の結婚問題についてだ。当時、和津には、30歳を前にして婚約寸前の相手がいた。彼はエリートで結婚相手としては申し分のない男性だったが、付き合っていくうちに、どこか感覚の合わない部分が気になり始めた。結果、彼との婚約は破棄。アメリカに逃避行した経緯がある。
以来、荒れに荒れていた和津に手を差し伸べてくれたのが、次に付き合ったボーイフレンドだった。
「彼は日本とアメリカを行き来する日系3世。結婚して日本食レストランをやらないかとプロボーズされていました。でも“愛しているか”ということになると違う気がする。そしてもうひとつ。奥田君に対する自分の気持ちにもそのころ、気がついていました。でも、あくまで2つ上の頼れるお姉さんという立場を、そのころはまだ崩したくはなかったんです」
揺れる女心。そんな中、またもや、とんでもないハプニングが起きる。
「数日前から歯が痛いと言っていた奥田君ですが、母から誘われた麻雀は断れず、痛み止めを噛み砕き、氷のうを頬に当てながら、次々と高い手で上がっていました。でも、ついに痛みが限界に達したのか、四暗刻ツモの牌を持ったまま崩れるように倒れてしまいました」
高熱から痙攣を引き起こす奥田を連れ、翌朝、慌てて歯科医院に駆け込んだ。
「危ないところでした。あと1時間遅れていたら……」
歯の神経が侵され、死にかけた奥田をこのまま放り出すわけにもいかない。
人情に厚い母は即座に一部屋を空けると、布団を敷いて寝かせた。そして和津の八面六臂の大活躍が始まる。
「絶縁状態の彼の家族に連絡を入れ、病状を報告。そして着替えの入ったスポーツバッグを、寝泊まりしていた友人の家に取りに走りました。母と2人で抱きかかえ、流動食の重湯を食べさせました。すると奥田君は両手を合わせ、涙をポロポロこぼしながら“すみません、すみません”と泣く。その姿が今でも目に焼きついて離れません」
ついに摩訶不思議な縁で結婚した和津と奥田。しかし神様はそんな2人にさらなる試練を与える。
仕事ですれ違う2人の間を取りもった出産
「相変わらず彼は無職無収入。“どうせ半年も持つわけがない”といった、世間の噂も私たちの耳に入ってきました」
しかし奥田と和津の運も結婚して3か月たったころからツキが回り始めた。奥田は藤田敏八監督の映画『もっとしなやかにもっとしたたかに』と東陽一監督の映画『もう頬づえはつかない』のオーディションに挑戦。
子ども番組のお兄さんから脱皮する、最後のチャンスをものにする。さらに和津はラジオ番組『久米宏の土曜ワイドラジオTOKYO』(TBSラジオ)のリポーターに選ばれると、NHKのテレビ番組、ニュースワイドの中の関東甲信越ローカル番組『フレッシュロータリー』の中継リポーターにも抜擢される。
「起床は朝の4時。ロケ場所の移動が売り物だから、今日は横浜、明日は長野、明後日は新潟という具合で衣装とメイク道具の入った荷物を抱え、流浪の民のような生活を送りました。土日を除き、ほとんど地方回りで不在の私に不満がたまった彼は“来年もこの仕事を続けるなら離婚を覚悟しろ”というところまで鬱憤がたまっていました。
でも仕事の充実感や面白さを覚え始めたころ。仕事は辞めたくありませんでした」
そんな2人の、行き違う思いがぶつかり合う日がやってきた。NHKの特番で1週間、家を空け、大荷物を抱えて倒れ込むように帰宅してみると、立ちすくむほど家の中はものが散乱していた。
最後の力を振り絞り、夕食の支度をしても奥田は連絡一本よこさない。
深夜になり怒りは頂点、テーブルの上の料理をゴミ箱に投げ入れ、ベッドに倒れ込んだ。数時間後、奥田が帰ってきた。
「めしはないのか?」
「頭痛くて無理」
「おまえ女房だろ」
と言われ、キレた和津は、目覚まし時計をつかむ。すると奥田がそれを引ったくって壁に投げつけ、部屋の中にあるありとあらゆる物が壁へ飛ぶ。それでも足りず、加湿器を窓ガラスに力いっぱい投げつけた。ガラスの破片が床中に飛び散った。
「こんな家、二度と戻らない」
と吐き捨て、出ていこうとしたこともあった。そうかと思えば酒に酔い、和津のお腹に頭をすり寄せ、
「早く子どもが欲しいよ」
と叫ぶこともある。なのに妊娠を伝えても、和津の妊娠期間中、目の前に映る彼は徐々に冷淡になっていき、最後の1か月は泥酔状態で朝帰りだった。
「子どもが生まれたら、否が応でも“父”としての責任を負わなければならない。遅れてやってきた彼の青春は“父”になれば、あえなく終わってしまう。要するに自分勝手な子どもなんです」
和津はすべての感情を吐き出す手紙を書くと、彼のベッドに上に置いてまどろんだ。目を覚ますと、彼の書斎の扉に墨で書かれた大きな張り紙を見つけた。
《父となるためにあれこれと言われなければならないのなら、父であることを放棄する》
「これを見て私は絶望的な気分に陥りました。同時にこんな父親いらない、生まれたら別れようと」
運命の1982年3月19日。長女・桃子が誕生。
すると彼は、私の両手を握って「よく頑張ったね。ありがとう」と言って目に涙を浮かべた。
「初めての赤ちゃんの存在と、彼のこの言葉ひとつで今までの憎しみや失望も何もかも払拭されました」
この時を境に2人は夫婦から家族へ、またひとつ人生の階段を上った。
「うつ」や「燃え尽き症候群」を乗り越え
家事や育児を全面的にサポートしてくれた母の昌子。そんな母に認知症の兆候がハッキリと現れたのは、“腐ったお弁当事件”がきっかけだった。
「私が中学・高校の6年間、母が作ってくれたお弁当はクラスメイトがわざわざ覗きにくるほど、味はもちろん彩りも美しい豪華なものでした。ところが仕事で地方に行くときに、久々に手渡されたお弁当は、砂糖の味しかせず、しらすにはカビが。母の作ったものとは思えませんでした」
料理の味つけだけでなく鍋の空炊きや、吹きこぼれで火が消えたガス台からガスが漏れる。何度も転倒して右腕を骨折する。危険極まりない状態が続き、母を検査入院させると、なんと頭にテニスボール大ほどの腫瘍があることがわかった。
「腫瘍が脳の血管を圧迫して血圧も高く、明日逝ってもおかしくない状態ですと言われ、家族会議を開いた結果、わが家で最後を看取ることに決めました」
75歳になっていた母の在宅介護で、和津がまず力を入れたのが食事だった。
「脳腫瘍とわかるまで、私を執拗に責める母に対して、敵意を持ってしまったことへの罪の意識を、少しでも払拭しようとムキになって料理に力を入れていたのかもしれません」
やがて奇行がエスカレート。和津は荒れ狂う母の仕打ちに耐えながら、一体いつまでこの生活が続くのか、途方に暮れる日々を送る。
当時のことをフリーアナウンサーの永井美奈子はよく覚えている。
「渋谷の街中でバッタリ会った和津さんは、お母さんの介護疲れでげっそりとしていました。心配になって、知り合いの心療内科を紹介したことを覚えています」
母親は脳腫瘍が原因で老人性うつ病と唯一難病指定されている、攻撃性の強い認知症を発症していることが明らかになった。しかしこのときはまだ、和津自身が心の病に侵されていることに気がついてはいなかった。
24時間の介護ヘルパーをお願いすることになっても、和津の負担は減ることなく50代後半に入り、「抱え込み症候群」に陥って気がつけば“介護うつ”になっていた。
「番組に出演しても当たり障りのないコメントをするのが精いっぱい。クイズ番組に出演しても答えがまったく浮かばない。冷蔵庫を開けても何を作ればいいのかわからない。次第に心の中から喜び、悲しみ、感動といったすべての感情が消えていったんです」
うつの影響なのか庭の大きな木の枝を見て、
「あそこに行ったら楽になれる」
無意識に“死”と隣り合わせになったことも。58歳で母を見送り「燃え尽き症候群」に襲われて、元の自分に戻ることができなかった。
「うつが抜けるには、その病気になるまで積み重ねた年月の倍かかるといわれますが、私の場合は約13年という月日が必要でした」
和津の場合は引っ越して、環境をガラッと変えることで料理が作れるようになり、おしゃれをしようという意欲も湧いてきた。
「2017年、2人目の孫が生まれたクリスマス間近に、テレビのお笑い番組を見て思わず大笑い。そのとき、まるで胸につかえていたものが黒い塊となって“ポン”と音を立てて抜け出ていったような瞬間がありました。それが私のうつ抜けの瞬間でした」
◇ ◇ ◇
和津は最近、俳優の池畑慎之介、おもちゃコレクターの北原照久・旬子夫妻と麻雀卓を囲むのが楽しみのひとつ。
「和津さんはうつのときも、まったくそんなそぶりを見せませんでした。我慢強くて面倒見のいい和津さん。これからは健康第一で、自分のために時間を使って、好きなことをやってください」
長年の友人の旬子さんはそう話してくれた。孫ができてから優しいジイジに成長した夫との人生は、もうすぐ50年。そしてこれからもまだまだ続くのだから。
取材・文/島 右近 撮影/廣瀬靖士
