10月25日、『東京国際映画祭』の特集上映『高倉健と生きた時代』に登場した倍賞千恵子。健さんの一周忌を目前に、公の場で初めて銀幕のスターへの秘めた思いを語った。

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「倍賞と高倉さんといえば、なんといっても'77年に公開された『幸福の黄色いハンカチ』でしょう。山田洋次監督がメガホンをとり、国内の映画賞を総ナメにしました。そのほかにも『遙かなる山の呼び声』('80年)、『駅 STATION』('81年)と続けて共演。まさに高倉さんとはゴールデンコンビといえる関係ですね」(映画誌記者)

 高倉さんと数々の名シーンを演じてきた倍賞は、打ち合わせ中に見たという、健さんの意外な一面も語っていた。

「お茶を飲んでいるとき健さんが時計をはずしてグラスのお水の中に落としたんです。“これ防水です”と驚かせて」

 倍賞が高倉さんと初めて会ったのは、『幸福の─』の記者会見の前、お茶を飲んだときだったという。そのときの印象をこう振り返る。

「格好がいいなと思いました。眼力がある方で、とても緊張しました」

 また、共演2作目となった『遙かなる─』では主人公の高倉さんに恋心を抱く役どころ。それについては、

「“行かないで”と男の人にすがりつく役は初体験でした。男と女が入ってきて、濃かった」

 と、当時の思いを懐かしむように話していた。最後の共演となった『駅─』では、

「入った瞬間、冗談が言えないほど緊張感が張りつめていたスタジオの暗がりの中でときどき、ストレッチをしていらした姿が印象的でした」

 と、役者としての存在の大きさを感じていたようだ。

「『駅─』の撮影中に、ふたりの熱愛報道が飛び出したんです。急きょ、健さんはロケ地だった北海道留萌で記者会見を開くことに。熱愛は認めなかったが、ふたりはこの作品を最後に、共演することはなくなってしまったんです」(スポーツ紙記者)

 そんな高倉さんに最も迫ったと言っていい熱愛を報じたのが、実は『週刊女性』だった。'81年8月11日発売号の《忍ぶ愛発覚! 彼女のマンションに……》と題されたその記事は、高倉さんが江利チエミさんと離婚してから、ちょうど10年がたったときだった。

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倍賞の自宅に健さんが通う姿を報じた当時のスクープ記事('81年8月11日号)

 当時、『週刊女性』の記者として現場で取材していたのが、現在は芸能レポーターとして活躍している石川敏男氏。そのときの状況は、今でも鮮明に思い出すという。

「あのときは、ある映画関係者から、健さんが次の日から撮影で北海道へ発つから、必ずその前に倍賞さんの家へ行くよと教えてもらったんです。向かいのビルから彼女の部屋をのぞくと、楽しそうに料理を作っている。しかも、部屋には、当時、健さんがCMに出ていた三菱自動車の大きなポスターが貼ってあった。確信を持ちましたね」

 そして、倍賞の自宅前で張り込むこと数時間。午後8時半ごろに、三菱の車が1台、マンションの駐車場に入って来たのだ。

「運転席を見ると『駅─』のワッペンを貼ったつば広帽をかぶった健さんが乗っている。さらに、通い慣れているような感じで、迷わず駐車スペースに止めたんです。

 面白いのが、管理人さんが車を見ると、さっと飛び出してマンションのエントランスを開け、しかも、エレベーターを呼んで“開”ボタンを押してすぐに乗り込めるように待ってたんだよね」(前出・石川氏)

 だが、高倉さんが車から降りてくることはなかった。なんと、張り込んでいる姿を見つけ、狭い駐車場の中をUターンし、マンションから立ち去ってしまったという。

「倍賞さんのマンション前で直撃取材しようと思って近づいたんだけど、ちょっとタイミングが早すぎたのかな、車から降りることなく逃げられてしまった。でも、現場にはカメラマンも含め4人いて、4人とも肉眼で健さんを確認しているんだ。それでも、決定的な瞬間を撮ることができなかった。

 私の芸能記者生活の中でいちばんの大失敗。本当に悔しい思いをしたのを昨日のことのように思い出します」(前出・石川氏)

 この熱愛報道が出た翌週、映画の撮影中に行われた会見で、高倉さんは倍賞との関係について聞かれ、こう話したという。

「自分が決意する前にマスコミに先取りされてしまったことが心外なんです。今後は(ふたりの仲が)どういうふうに進んでいくのか、私にはまったくわかりません。ふたりは仲のよい友達なんです」

 そして、この件について記者たちが質問しようとすると、映画関係者に急き立てられるように、会見場を後にしている。

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「ふたりが付き合っているのは映画界ではけっこう知られた話でした。なんというか、結婚してくれたらいいなみたいな雰囲気があったのは事実です。

 この報道が出たあとは倍賞さんのマンションに行くことができなくなり、彼女の所有する箱根の別荘で会ったりしていたそうです。また、健さんは三菱パジェロを“デート車”にしていて、窓にスモークを貼って車内が見えないようにしていましたね」(映画関係者)

 そんなふたりだったが、熱愛発覚から3年ほどで終焉を迎えたという。もし、あの熱愛報道がなければ、もしくは、決定的なスクープ写真を撮られていたら、ふたりの関係は違ったものになっていたかもしれない。

「倍賞さんはその後、8歳下の作曲家・小六禮次郎氏と'93年に再婚。付き合いだした7年前は妻子ある身だったので、略奪婚でした。健さんは再婚をすることなく、独身のまま鬼籍に入られました。倍賞さんにとって、高倉さんとの思い出は、文字どおり胸の中にしまってある“秘めた恋”なのでしょう」(前出・スポーツ紙記者)