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 9月5日に肺炎のため、95歳で亡くなっていたことがわかった原節子さん。

「気品があって目鼻がパッチリしていて、半世紀前の日本人であんなにきれいな人はいなかったですよ。俳優の笠智衆さんとのシーンで、美しい日本語を話す姿には惚れぼれしました。日常で使っている言葉だからこそ、自然ときれいに使えるんだなぁと思って見ていましたね」(70代女性)

 11月26日に東京・東劇の前に設けられた献花台には、翌27日になっても多くの花束が手向けられていた。訪れたファンの中には、原さんのスチール写真やポスターを撮影したり、目を閉じて合掌をする人も。

「今日は千葉から花を届けに参りました。私もですけど、今年亡くなった妻も原さんのファンでした。清楚な女優さんとしては、ほかに類を見ず、まさに“伝説の女優”でしたね。今日はこの後、映画の『晩春』と『東京物語』を見ようと思っています」(70代男性)

 この日、東劇では11月21日から開かれていた『松竹120周年祭』の最終日を迎えていた。原さんの代表作も上映されているとあって、訃報が流れる前と比較して、約4倍もの観客が詰めかけたそう。

 別れを惜しんでいるのは、日本のファンだけではない。海外のメディアもこぞってその死を伝え、米国の『ウォール・ストリート・ジャーナル電子版』には、こんな賛辞が。

《彼女が忘れ去られることはないだろう。その存在は今後も、未来の映画ファンたちを魅了し続ける》

 原さんは戦前の1935年、15歳のときにデビューし、戦後『わが青春に悔なし』『青い山脈』といった作品でトップ女優に。さらに『東京物語』をはじめとする小津安二郎監督の作品で国際的評価を得た。

 しかし、'62年に引退。公の場に姿を見せたのも、翌年に亡くなった小津監督の通夜が最後だった。生涯独身だったこともあいまって“永遠の処女”と呼ばれ、半世紀以上もの間、生ける伝説であり続けた。42歳での早すぎる引退は、映画史の謎ともされている。

「小津監督とは公私ともに深く理解しあえた関係で、結婚するとの見方もありました。彼の死に殉じて、自らの女優生命を終わらせたのではというのが多くの人の推測です」(映画ライター)

 引退後は、小津作品ゆかりの地でもある鎌倉に在住。その人目を避けた暮らしぶりは“隠棲”と形容したいほどで、消息はほとんど聞こえてこなかった。

 しかし、『週刊女性』は昨年、彼女のもとを訪れている。鎌倉駅から車で10分ほどの閑静な地にある自宅のインターホンを押してみたところ、甥の男性が「ここには住んでいますが、基本的に外出はしません」としながらも、こんな近況を教えてくれた。

「家では読書したり新聞を読んだりするくらいですけど、食事に関してはわれわれが買って行って、自分で作っています。病気なども特になく、元気に過ごしていますよ」

 実際、体調を崩したのは今年の8月中旬とのこと。急に咳き込むようになり、最後は病院で眠るように亡くなった。