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「素晴らしい子でいてくれてありがとうって、いつもほめられてます」と、さやかさん(右)。母のこころさん(左)は「だって、思ったときに伝えたいですから」と、いたって自然体だ  撮影/渡邉智裕

 

学年ビリでも、何度も学校から呼び出されても母は子どもを守り、ほめる子育てを貫いた。夫婦仲は冷え切り、子どもたちはみな問題を抱え……そんな「どん底」家族がどう立ち直っていったのか。『ビリギャル』のママ、ああちゃんが激白!

 

何があっても私は子どもの絶対的な"味方"

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「ダメな人間なんていないんです。ただ、ダメな指導者がいるだけです」。"ビリギャル"だったさやかが難関大学の受験に挑む、涙と笑いの感動実話。『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(坪田信貴著/KADOKAWA刊)

 制服に不釣り合いな金髪のギャルが、不穏な表情でこちらを見ている。その鮮烈な表紙とキャッチーなタイトルが、書店で大きく人々の目を引いた。’13 年12月の発売以降、65万部を超える大ベストセラーとなった『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』は、カリスマ塾講師・坪田信貴先生によるノンフィクション物語である。

 学校の教師たちに「人間のクズ」とまで言われた偏差値30のビリギャルこと"さやか"が、坪田先生との出会いによって学ぶことの喜びに目覚め、驚異の努力と跳躍力で慶應合格を手にしていくさまは、読む者に大きな感動と勇気を与える。

 そのさやかさんを大きな愛情で見守り、揺るぎない信念で支え続けたのが今回の主人公、母親の橘こころさん(50)だ。3人の子どもたちは親しみを込めて彼女を「ああちゃん」と呼ぶ。

 『学年ビリ〜』の中にも登場する、ああちゃんの子育て論は一貫して筋が通っている。

「子どもを絶対に叱らない。叩かない」「本人がワクワクすることだけをさせる」「子どもを信じ、絶対的な味方になる」

 さやかさんの派手な格好や喫煙が原因で、学校に何度か呼び出された際も、こころさんは謝罪しつつも毅然とした態度で「うちの娘は優しくて友達思いのすごくいい子です」と言い放った。周囲に「甘やかしてる」「親バカだ」と陰口を囁かれても、こころさんの信念が揺らぐことはなかった。

 やがて、さやかさんが慶應大学の受験を目指すと言い出したときも、迷わずに「全力で応援する!」と抱き合って喜んだという。

 しかし、「こんなバカ娘が慶應なんて絶対無理に決まってるだろ!」と怒りをあらわにしたのが"パパ"だった。

 ケンカが絶えず、冷え切っていた夫婦関係。反発し合う父と娘。さらには、父に抑圧されてきた長男の反抗。そんな家族を和ませようとする、次女"まーちゃん"の心遣い。さやかさんが慶應受験へと向かう道のりの裏側には、家族の葛藤や苦闘があった。

 そんな家族の軌跡を驚くほど赤裸々に綴ったのが、こころさんとさやかさんによる共著、『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』だ。

 こころさんは最初から「叱らない母親」ではなかった。自らが母に育てられたのと同じように、子どもを厳しく叱りつけ、ときには叩いてしまうこともあった。それは多くの"子育て本"とは一線を画する、ひとりの普通の母親が自らの失敗から学んだ、痛みを伴う生身の子育て論だ。

自分はダメな子、悪い子と思い続けて

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どん底だった家族が紆余曲折を乗り越え、理想の家庭へと成長していくさまを赤裸々に描く。もうひとつの"ビリギャル"物語も収録。『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』(ああちゃん、さやか著/KADOKAWA刊)

「私は本当にダメ人間なんです」と、こころさんは何度も繰り返して言う。

「小さいころから、自分に自信を持てるものが何もなかったんです」

 1964年、橘こころさんは大阪府のサラリーマン家庭の長女として生まれた。

「母はとても愛情にあふれた、何事にも一生懸命な人なんです。その愛情ゆえに、私は厳しく叱られて育てられました。母は自分の経験上、"女の子は家のことがきちんとできないとダメだ"というしつけをしたので、私が勉強しようとすると、用事を言いつけるんです」

 学校から帰ると、飼っていた鳥たちや犬の世話をしたり夕食の買い物に行ったり、やることが山のようにあった。

「でも、全然できなくて、"また怒られる"と思うとドキドキしてきて、案の定、怒られるんです。何度も同じ失敗を繰り返して叱られて……。でも母の言うことは正しいので、"できない自分は悪い子なんだ"と思い込んでいきました」

 自信のなさから臆病で引っ込み思案になり、小学校での集団生活は怖くて不安で仕方なかったという。

「"〇時になったら校庭に集まってください"って言われても、どうやって行けばいいんだろう? と思うと、焦ってワケがわからなくなっちゃって、みんなと一緒の行動がとれないような子だったんです」

 けれど自分を叱る母を決して悪く思うことはなかった。

「本来、母はものすごく優しくて、枯れそうな植物を大木に育てたり、小鳥を2羽飼ったら何十羽と増えたり。あるとき窓を開けていたら、鮮やかな緑と黄色のオウムが家に飛び込んできたこともあったんです。そんなことが日々の中でしょっちゅう。うちの母は不思議な力がある人だな、と思っていました」

 また、この母は、自らの姉や兄弟がお金の無心に来ると、余裕がなくても、あるだけのお金を渡してしまうような、自分の損得を考えない人だった。

 この幼いころの経験が、こころさんの人生の価値観を大きく決定づけた。

「叔父や伯母はそれぞれ学歴も美貌もセンスもあって、会う人がみんな惹かれるほど魅力的な人たちだったんです。でも、自分の欲ばかりを優先して、他人への思いやりもなく、最後は一文無しになってひとりぼっち……という人生を見てきたので、人間は心が伴わなければ不幸になるんだと。私はあのような人生は送りたくないと、ずっと思ってきました」

 同時に「いつか私は絶対幸せになって、損して苦労ばかりしてきた母を幸せにするんだ」と強く思ったという。

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 結婚相手には「貪欲に高いものを望んでました」というこころさんの理想は、学歴でも家柄でもなく、「私が思うのと同じくらいに母親のことを思ってくれる人」だった。

 短大を卒業後、大手企業に就職。その同僚が誘ってくれた食事会で現在の夫と出会い、23歳で結婚した。

「彼は"お母さんが寂しい思いをしないように僕も一緒に住みます"と言ってくれて。私の願いを叶えてくれる優しい人だな、と思いました」

 しかし、ほどなくして小さな亀裂が生まれていく。

「お互いに若くて我が強く、"絶対にいい家庭を築きたい"という理想が高かったために、少しのズレにもものすごく反発してしまったんです」

 こころさんの著書の中には、結婚当初のエピソードが記されている。大阪出身のこころさんが、お好み焼きをおかずにして白米を食べる関西の風習どおり、お好み焼きとご飯の両方を食卓にのせると、怒りに震えた夫が食卓を吹っ飛ばした。悲しみと驚きの中で、夫との間に大きな距離を感じたという。

「自分がよかれと思ってやったことがことごとく彼を怒らせていたので、怖くて何もできなくなって。私はやっぱりダメ人間なんだと思いました」

 物事のとらえ方や感じ方、子育ての仕方、金銭感覚に至るまで夫婦は正反対の価値観を持ち、互いに譲ることがなかった。ぶつかり、いがみ合い、やがて家庭の中で無視し合うようになる。

「結婚生活のほとんどの期間、家の中に夫婦の怒りが充満していました」

 こころさんは離婚届をいつもバッグに忍ばせていた。

厳しく叱る"苦しくて仕方のない"子育て

「親としても、私は本当にダメだったんです」

 24歳でさやかさんを出産。「自分自身の生い立ちから、子どもが小さいころは厳しいしつけが私の信念でした。いい子になってほしい、それが子どもを幸せに導くと信じて、悪いことは絶対にやめさせようと厳しく叱っていました」

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 さらに、26歳のときに生まれた長男に対しては、厳しい育児がエスカレートしていった。

「男の子は乱暴することもあるし服をドロドロにしたり、物を壊すこともあるけど、そこでは私は怒らないんです。でも、お姉ちゃんが楽しく遊んでるところに行って、それを奪い取ってグシャグシャにして捨てちゃうとか、そういうことが許せなかった。それで厳しく叱ると、もっと悪いことを重ねて、それに対して私ももっと強い力で叱って。"言ってもわからなかったら今度は叩くからね"とシッペをしたときは、自分でもものすごくつらかったです」

 いつの間にか苦しくて仕方がない育児になっていた。愛情で「この子をよくしてあげよう」と思っていたはずが、「なんでわからないんだ」という怒りに変わってしまっていたのだ。

「そこが私は一番ダメだったんです。叩かれた息子は、好きなお母さんに怒りをぶつけられたという思いしかないので、めちゃくちゃ傷ついたと思うんです。そのことに気づいたのはだいぶ後ですけど」

 幼稚園のみんなと同じ行動ができない息子を叱り、周りからも悪い子のレッテルを貼られた長男は、ますます反抗的になっていった。

「その子どもが苦しむ姿を見て、これは私のやってきたことが間違ってたのかもしれないと気づいていきました」

 毎日のように子どもたちを公園へ連れ出し、好きなように思う存分遊ばせて、叱らないように心がけた。

「自分の今までの失敗を認めて改心したんですよ」

 30歳のときに生まれた次女のまーちゃんには、生まれたときから現在まで、1度も叱ったことがないという。しかし、そんな中でも夫婦のいさかいは続いた。

「ケンカしてる様子を子どもたちに見せない努力はしてたんですけど、家の中の異様な空気に子どもたちは怯えるし、悲しい気持ちに包まれていたと思います。何よりもそこが最大のダメ親でした。家の中で孤立を深めていった夫は、この家で支えになるのは長男だけだという感じで取り憑いたというか。息子の教育は俺がやるからおまえは口を出すなと、長男に固執していったんです」

 家庭の中で父と息子、母と娘たちという断絶ができてしまった。夫はプロ野球選手になりたかった自らの夢を長男に託し、小学生のころからスパルタ教育で野球を教え込んだ。それは、長男が高校に入ってから悪い仲間とつるむようになり、野球をやめてしまうまで続いた。

「叱らず、ほめる」で子どもが変わった!

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「いまだに母には毎日ほめられるので、何を言われてうれしかったのか、記憶にないくらいです(笑い)」

 パッと周りを明るく照らすような笑顔で話してくれたのは、現在、26歳になる小林さやかさんだ。

「母は"今日もいい子でいてくれてありがとう""今日も笑顔で素敵な子でいてくれてありがとう""家に帰ってきてくれてありがとう"って、それがもう当たり前なんです。でも、友達の家に行くと反対に"うちの子なんてね"と、お母さんが自分の子をほめない。そのときに謙遜ということを覚えたんですけど(笑い)。うちの母はどこでも誰がいてもほめるし、人から"さやかちゃん、いい子ですね"って言われると"そうなんですよ。わかります?"って。だから、母にはあまり友達がいないの(笑い)」

 そう言って愉快そうに笑うさやかさんを優しく見ながら、「だって思ったときに伝えたいから」と、こころさん。

「考えてほめるわけでもなく、自然と湧いてくるんですよね。日々、悲惨なニュースが流れるたびに、ケガもせずに事故にも遭わずに無事に帰ってきてくれた娘に"ありがとう""えらかったね"しか言えなくて。この子がいてくれることが一番大事だから、0点のテストを持って帰ってきても、そんなのは別にって思うんです」

 また、自分をダメ人間だと思うがゆえに、些細なことでも心からほめるという。

「なんていい子なんだろうって、常に感動して自分の子どもたちに憧れを抱いちゃって(笑い)。だんだん、ほめることが楽しくなってきたんです」

 その結果、子どもたちの心ものびやかに育っていった。とくに、まったく叱られずに育ったまーちゃんは、豊かな想像力と思いやりにあふれている。

 家族で時間をかけて作ったケーキをテーブルに運ぶ際、うっかり落としてしまったまーちゃんは、「ごめんなさい。私、絶対に落とさないようにしてたんだけど、きっとお化けが落としたんだと思う」と言って笑わせ、みんなが悲しんでイヤな雰囲気になるのを、ユーモアで救ったりした。

「何かを壊したときも、本人は悪意があってやったわけではないので"何やってるの!"と叱るよりも、"本当にケガをしないでくれてありがとう"ってほめれば、結果は全然違うものになると思います」

 こころさんはさらに「勉強しなさい」「片づけなさい」といった、押しつけるような言葉もいっさい言わなかった。

「みんな能力を持っているのにやらないだけなので、無理にやらせる必要はないと思ったし、それ以上にもっと大事な想像力や生きる意欲、自分がワクワクするものを見つけられる力を抑圧せずに発揮できていれば、自分が本当にやるべきときには何でもできると信じていました」

 それに対して、近所で数少ないこころさんの子育ての賛同者であり、10年来の友人、よし江さん(67)もこう言う。

「お母さん自身が親しき仲にも礼儀ありで、いつもきちんとした態度を見せているので細かいことを注意しなくてもさやかちゃんも自然と礼儀正しく、自分の意見をちゃんと持った子に育ってましたよ。私たちみたいな母親は変わり者で学校のPTAでも浮いていたけど、ああちゃんは人と違っても平気だったし、自分が正しいと思ったことをやって、それを人に押しつけないし、人の批判もしなかったわね」

 学校はPTAでも、成績のいい子の親が主導権を握り、成績の悪い子の親は何を言っても"しょせんは劣等生の親"という無言の序列がある。まして、さやかさん本人は学校で劣等生扱いされ、バカだクズだと言われて、大いに傷ついていた。そんな娘をいたわるように、学校に呼び出されるたびに、こころさんは訴えかけた。

「先生は成績や格好だけで悪い子と判断して、娘のいいところを見てくださらないんですか? それが残念です」

 元来、自分に自信が持てず、今でも控えめで静かな物腰のこころさんだが、校長先生たちを前に毅然とそう言えた力は、いったいどこから湧いてきたのか。

「この子を守れるのは私しかいないと思うと、自然と強くなれました。たぶん自分のことだったら、何でも長いものに巻かれていたと思います」

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 長男は結婚して1児をもうけ、今ではこころさん夫婦と同居。名古屋で飲食店を経営する父の会社で働く。次女のまーちゃんは、こころさんいわく「彼女の才能や可能性を抑圧しない、デメリットのない高校を探したら日本にはないように感じて」、ニュージーランドの高校へ留学。異国の地でたったひとり、大変な苦労と試練を経て帰国後、現在は上智大学で心理学を学んでいる。彼女もまた、日本の学校ではビリだったのだ。

「私の子育てが賛否両論なのはわかっていますし、これが成功だというわけでもないんです。ただ、自分の子育てというのは、自分が実際に子育てした結果からでしか学べないものなんだなって。

 子どもたちは、これからもいろんな問題や困難にぶつかると思います。でも、どんなことが起こっても乗り越えられるエネルギーと意欲と、可能性を持っている子どもたちです」

 信念の人は揺るぎない瞳で、静かにキッパリと、そう言った。

 


取材・文/相川由美  (あいかわ・ゆみ) ●雑誌『ジュノン』を中心に、インタビューを得意とするフリーライター。高校生の娘がいるシングルマザーであり、教育、育児、出産といった母親と子どもの問題や、多岐にわたる女性の生き方に大いに関心を持つ(※本ウェブ記事は、『週刊女性』3月17日号の本誌記事を一部加筆修正して掲載しています)