【皇室ジャーナリスト・渡辺みどりさん特別寄稿】

 天皇・皇后両陛下はパラオ・ペリリュー島の『西太平洋戦没者の碑』に手向けた白菊をわざわざ日本からお持ちになりましたが、美智子さまらしい戦没者へのお気遣いを感じることができました。

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 帰国後の6月の私的旅行のときには、パラオからの引揚者たちが開拓した北原尾地区(宮城県)をわざわざ予定に組み入れ、関係者にねぎらいの言葉をかけられています。

 プライベートなときにも、戦争で苦しんだ人たちを思いやる陛下と美智子さまの姿勢が表れていました。

 両陛下がご高齢にもかかわらず慰霊の旅を続けるのは、昭和天皇が戦争中に多数の犠牲者を出した沖縄県への訪問を果たせなかったように、鎮魂の役目を引き継がれているからだと思います。

 美智子さまも、そのお考えを十分に理解し、平和への祈りという陛下との"共通のテーマ"を持ち陛下をお支えするために各地を回り、犠牲者を悼まれているのです。

 また、両陛下の子ども時代に疎開という"戦争体験"があるからこそ戦争の悲惨さを知り、2度と戦争を起こしてはならないというお気持ちがあるのだと思います。

 陛下は戦争末期に、米軍の空襲を避けて沼津に疎開していましたが、その後は、日光(田母沢御用邸)に移られました。やがて、地方都市にまで空襲が広がり、宇都宮まで米軍の攻撃を受けるようになると、特別なはずの陛下の食卓にも卵が出なくなったそうです。

 そんな耐乏生活を経て敗戦後の1945(昭和20)年11月に東京に戻ると、周辺はすべて焼け野原で、当時のお住まい(皇子御殿)も焼け、小学校6年生だった陛下も相当な衝撃を受けたはずです。

 一方、美智子さまは神奈川県の鵠沼海岸にあった日清製粉の寮で難を逃れていましたが、そこも危険になり、正田家の本家がある群馬県館林へさらに疎開されました。

 当時、食糧事情や衛生状態は最悪で、頭がシラミだらけの同級生が腹痛を起こすと周囲が嫌がる中、美智子さまがひとりでおぶって保健室へ連れていくようなこともありました。

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 1945(昭和20)年5月の東京の山の手大空襲では、美智子さまの父方の叔父・正田順四郎さんが戦災死し、軽井沢で終戦を迎えられました。

 そんな両陛下なりの"戦争体験"こそが、戦没者を悼み、平和を尊ぶ姿勢につながっているのだと思います。

 さらに、戦争体験や戦争の悲惨さを後世に伝えていくことも両陛下は意識されていると思います。

 戦後60年の2005(平成17)年に、美智子さまはサイパンで慰霊の行事をおすませになった後、栃木県那須で満蒙開拓の引揚者が戦後、原野を開いて作った千振開拓地を訪問しました。

 そのときに、秋篠宮家の長女・眞子さまもお誘いになっています。美智子さまは眞子さまが"中学2年生で、まだ少し早いかも"と思われたようです。しかし、"誰もが自分の経験を身近な人に伝え、家族や社会にとって大切と思われる記憶についても、これを次世代に譲り渡していくことが大事"なことだと、戦争体験の継承の大切さを述べられています。

 美智子さまはこの夏にも、陛下に伴われてこの開拓地を再訪し、関係者の苦労をしのばれました。

 


《文/渡辺みどり ●1934年東京生まれ。文化学園大学客員教授で、ジャーナリスト。日本テレビ在職中は、情報系番組を担当。昭和天皇崩御報道では、チーフプロデューサーを務める。著書に『美智子さま 美しきひと』、『英国王冠をかけた恋』など多数》